もし、石田三成が、徳川家康打倒の兵を挙げなかったら……

1598年、豊臣秀吉が亡くなり、翌年には前田利家も没し、五大老徳川家康の影響力がますます大きくなりました

史実では、前田利家亡き前田家に対し「家康暗殺の疑いあり」として人質を得て、さらには会津の上杉景勝には「上洛しないのは謀反の疑いあり」として秀吉の遺児、豊臣秀頼への謀反の疑いありとして討伐の兵を挙げます

史実では、その後、空白となった畿内にて石田三成が家康打倒の兵を挙げ、関ヶ原の戦いの後、豊臣家が滅亡、という流れになるのですが、もし、ここで三成が兵を挙げなかったら……

三成の無二の友、大谷吉継は三成から挙兵の計画を聞かされた際、勝ち目がないと諭し、思いとどまるよう言ったようですが、万が一、ここで吉継の言葉を聞き「いずれ家康は死ぬ。さすれば豊臣家は安泰」という思考に切り替えたとしたら……

まず、徳川(豊臣秀頼の名代)対上杉景勝の戦です。ここからはたられば祭なので、いろいろなパターンを考えていきたいと思います

パターン①豊臣軍の圧勝

「景勝降伏」というパターンもあるかと思いましたが、降伏するくらいなら家康が討伐の兵を挙げた時に降伏してると思うので、「名門上杉」の名誉にかけても、戦わずして降伏することはあり得ないというたられば

関ヶ原では西軍に属していた大谷吉継、織田秀信、真田昌幸等々の大名も徳川方として戦う為、兵力では上杉を圧倒、さらに景勝は移ったばかりの会津の地の利を活かせず、南からは徳川、北からは伊達、最上の大軍に攻められ、あっという間に敗北

景勝が自害するパターンと降伏するパターンを考えましたが、上杉の名を失うことを恐れた家老直江兼続が徳川方と交渉、家康もあまり苛烈に始末して織田信長のようになることを恐れ、助命嘆願に応じたことにします

景勝は高野山に送られ、会津の地には福島正則、浅野幸長らに与えられたとします(旧徳川領及び大坂・京へのルートを確保するため、領地を加増しつつ転封させたと仮定)

大坂へ凱旋した家康は秀頼に戦勝を報告。その地位をさらに不動のものにしていきます

ただ、関ヶ原が起きなかったために毛利、宇喜多といった五大老の大名がまだ残っています

上杉のようになにかに難癖をつけ討伐。というようなたらればの前に……

パターン②家康、苦戦

家康は三成を挙兵させるために上杉討伐の兵を挙げたとされています

なので小山評定というイベントが発生しないため、家康は「三成が挙兵するまで時を待つ」という作戦に切り替えます

秀吉が行った小田原の北条攻めのように、家康も大軍で上杉領を円のように囲んでじりじりと追い詰めていきます

待てど暮らせど三成挙兵の報はない……仕方なく家康は上杉攻めを始めますが、なかなか味方の士気は上がらず、苦戦を強いられます

とはいえ、戦力の差はいかんともし難く、徳川方は勝利。景勝は切腹し、上杉家は滅亡します

ただ、予想以上の苦戦、挙兵しない三成。兵力を失い、兵糧も失った為、家康は自国にて富国強兵を行うことになります

豊臣秀頼(淀殿)は上杉討伐後、上洛しない家康に対し上洛するよう求めますが、家康は病を理由になにかと拒否し、時を稼ぎます

「家康は東国に独自の国家を築こうとしている」という噂が広がり、豊臣家は焦ります。単純な石高では豊臣家を凌ぐ徳川家康が相手となれば、豊臣家もただでは済みません

さらに旧上杉領は「景勝ほどの人物が現れるまでは家康自らが管理する」としてほぼ徳川領として扱われ、東国はほぼ徳川の手に渡ってしまいました

家康はあの手この手を使い、豊臣方の挙兵を誘います。しかし豊臣家としても、家康に敵う家臣、大名はおらず、手をこまねくばかり

ここで失脚していた三成が毛利、宇喜多を巻き込み挙兵……ではおもしろくないので、あくまで三成はだんまり

その後、家康は大軍を引き連れ上洛します。秀頼に上洛が遅れたことを詫び、事なきを得ます

しかし家康は「家康謀反という虚報を流し、世を乱そうとした毛利、宇喜多を討伐する」と難癖をつけ、毛利、宇喜多討伐を行おうと画策します

今回は福島、黒田といった豊臣恩顧の兵力はなく、徳川家の兵力のみを動員し、毛利、宇喜多を一気に叩きにいきます

上杉攻めは豊臣秀頼の名代という立場でしたが、今回は秀頼からの命ではなく、家康個人の戦となります。豊臣家の介入を絶つことで後の領地割り当て、恩賞を自由に行おうと画策します

当初は参戦を見送っていた豊臣武将も、家康に恩を売ろうと次々と家康に味方していきます。家康の傍若無人な行いを見ているだけという秀頼を見限り、家康につく武将が増えていきます

毛利、宇喜多を各個撃破した家康は官位において秀吉を超えるべく、征夷大将軍に任命されます。景勝を倒し、東国を支配する家康を朝廷は将軍足り得ると判断しました

その後は史実通り、徐々に家康は秀頼への圧迫を強め、最終的に大坂の陣へと繋がりますが、真田信繁や長宗我部盛親といった武将は豊臣方にはおらず、恩顧の武将は子の世代となり、ほとんどが家康方についてしまいました

史実では恩顧筆頭の加藤清正、福島正則ですら家康には手も足も出なかったところを見ると、秀吉の恩というのは時が経つにつれて効果がなくなっていたのだと仮定します(むしろ、豊臣家を守るためにはいかに家康を刺激しないか、と考えていたのではないでしょうか)

そのような感じで、三成が挙兵しなかったらというたらればをしてみました。次回は「上杉討伐では挙兵せず、毛利、宇喜多攻めで挙兵した」という相手とたらればをしてみます

ご清聴ありがとうございました