後藤又兵衛基次(1560〜1615)、為勝親子の墓所が鳥取市景福寺にある。
その為勝の墓碑には
「為勝之厳父曰く、後藤又兵衛は官兵衛の実子である(要約)」と。
明治の政治家、後藤象二郎は又兵衛基次の子孫を称した。 その家紋は左三巴。
疑惑はもう一つある。
又兵衛の長子、一意(太郎助)は長政の小姓に上がっていた。その後、関ヶ原では官兵衛について出陣し、兜8を獲る活躍。だが、人妻との密通事件が発覚して領外追放、長政からの追っ手を逃れて堺の町で町人になった模様。
その後、次男の左門基則まで自害しようとした事件があった。
「鼓を打て」と長政から命令され それを辱しめられたとして怒ったのだ。そのときは、又兵衛に止められ思い留まったものの、挙句、一門を率いて黒田藩を出奔した。
長政はこれを許さず、奉公構を発令。
(どこの藩も、勝手に脱藩した又兵衛一家を召抱えてはならないというお触れ)
行き場を失った又兵衛一門。
後、次男は毛利藩で幽閉、自害する。
二十四騎の筆頭、黒田家奉公人
講談の人気者
豪傑
後藤又兵衛基次。
人気、実力共に備わる
又兵衛一門を破滅に追い込んだ原因は?
長男の密通事件か、それとも奥が深いのか。
庶民なら、盆祭りの夜 の夜這いとか普通にあった時代、どんな高貴な夫人と密通したというのか。
長政を痛く怒らせたようである。