こんばんは、さくら777♪です。
今日は満月
筑波山麓から見える月が、とてもきれいです。
何を見ても、おばあちゃんのことを想い出す今日このごろ。
小さかったころ、いつもダンゴを作ってくれて、それを一緒に食べたことに始まり、
最後は病院から自宅に帰ることも叶わず、斎場安置になったこと。
納棺の際、遺族が参加する場面がとても少なかったこと。。などなど。
一つ一つをなぞらえると、、。
ふと、今回、お葬式で悲しみを感じる遺族にとって、葬儀屋さんって気をつけないと・・・
思わぬところで、知らずに遺族を傷つける場合があるんじゃないか、と。
想いました。。
(決して、今回の葬儀社さんに傷つけられたというのではないですよ。誤解のないようにお願いします。)
例えば・・・
ワタシの場合、最初スタートした会社時代から、納棺はずっとご遺族の方々と一緒に進めていくスタイルだったから、
どちらかといえば葬儀社さんが主導で、遺族は見てるだけ型が、どうも馴染めません。。
それが決定的に、遺族・親族みんなでの参加スタイルがやっぱりいいなぁ、グリーフケアにつながるなぁ、と肌で感じたのは、おばあちゃんの納棺の時でした。
というのも、、私の親戚のおじさんやおばさんも、みんな葬儀屋さんの成り行きをただ見守って、同じ部屋に20人近くただ立ってるだけで・・・
参加した、というよりは、その場で次に何をするかただ固唾を飲んで見守るだけだったのです。。
今回の場合、死化粧をワタシがやった手前、納棺は依頼した葬儀社さんにお任せしたし、ここでワタシが口出ししちゃマズいなぁ、とか。
しっかりおばあちゃんとお別れしたい、とか、いろんな想いがあって、冷静に現状把握できてなかったのですが、
こうして鈴虫の鳴く声を聴きながら、思い起こせば・・・。
遺族や身内の方が一連の納棺手順を知らないからやらせない、ではなく、
一般的に知らないから分かるように誘導する、のが葬儀屋さんの仕事なのではないかな、と。
感じるのです。
言葉のかけ方から、仏衣のことまで、もっと親戚のみんなのおばあちゃんを送って弔う、という気持ちにそった方法があったと思うのです。
天寿だったし、病院にいたとはいえ、大往生だったから、誰も傷ついてはいませんが、これがもっと違うケースでのお亡くなり方だったら・・・
ずっと、ずっと、できるだけ、一緒にいたい。
でも、できない。
そうした想いを、ひとつでもいいから、形を通して昇華するお手伝いをすることが、納棺や一連の流れの中で、もっと、意識を変えればできるのではないかなぁ、と。
そんな風に、満月に想いながら、まだまだ祖母からのメッセージが始まったばかりのように感じる夜です