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成田山新勝寺(なりたさん しんしょうじ)は、日本千葉県成田市成田にある真言宗智山派仏教寺院であり、同派の大本山の一つである。山号成田山。山号を付して「成田山新勝寺」、あるいは山号のみで「成田山」と呼ばれることが多い(アクセントは駅名や人名と異なり、“りたさん”ではなく“なたさん”)。本尊不動明王で、当寺は不動明王信仰の一大中心地である。そのため、成田不動お不動さまなどといった通称でも広く親しまれてきた。開山平安時代中期の天慶3年(940年)と伝えられる。寺紋葉牡丹


成田山新勝寺の縁起は、平安時代中期、東国で起こった平将門の乱に始まる。朝廷は追討軍を差し向けると同時に将門調伏祈願を大寺社や密教僧に命じた。天慶2年(939年)、寛朝僧正朱雀天皇密勅を受けた。寛朝は、の高雄山(神護寺護摩堂に安置されていた空海作の不動明王像を奉じて総国へ下ることとし、明くる天慶3年(940年)、難波津から海路で上総国に至り尾垂浜に上陸。陸路で下総国公津ヶ原へ入り、この地にて朝敵調伏を旨とする不動護摩供を奉修した。ややあって将門は戦死。最期は諸説あるが、寒の戻りの風に乗った一本の流れ矢が将門の額に命中したと伝えられる。これを朱雀天皇は、不動明王の霊験と歓喜した。さらに、寛朝が帰京しようとしても不動明王像が動こうとしないとの報せを聞き、公津ヶ原にて東国鎮護の霊場を拓くべきとの考えのもと、寛朝に開山せしめ、神護新勝寺の寺号を下賜したという。この時、朱雀天皇から「天国宝剣」を下賜されたとされる[3]

こうした由来から、平将門を祭神として祀る東京神田明神築土神社と、成田山の両方を参拝することを避ける人もいる(神田明神#伝説を参照)。

成田山はその後、源頼義源頼朝千葉常胤徳川将軍家水戸藩徳川光圀といった関東有力武将の崇敬を受けた[4]

永禄年間(永禄9年〈1566年頃〉と考えられるが未詳)に成田村一七軒党代表の名主が不動明王像を背負って遷座し、伽藍が建立された場所が、現在の成田市並木町にある「不動塚」周辺と伝えられ、成田山発祥の地と言われている。その後、新勝寺は戦国期の混乱の中で荒廃し、江戸時代までは寂れ寺となっていた。

江戸時代に入って世情が落ち着くと伽藍が再建・整備され、江戸に近いことから参詣者が増えるとともに、江戸で成田不動の出開帳が度々行われた。元禄16年(1703年)、深川永代寺富岡八幡宮別当寺で、廃仏毀釈により廃寺となったが、塔頭寺院が1896年明治29年〉に名跡を再興した)で行われたのが初めで、江戸時代を通じて12回の出開帳が行われた記録がある。歌舞伎役者初代市川團十郎が成田不動に帰依して「成田屋」の屋号を名乗り、不動明王が登場する芝居を打ったことなどもあいまって、成田不動は庶民の信仰を集め、成田参詣が盛んとなる。

明治維新以降、新勝寺はお札を通じて、戦時下の人々の精神的な助けとなった。当寺の「身代わり札」は「鉄砲玉から身を守る札」として日清戦争当時から軍人らに深く信仰されていた。満州事変から1945年昭和20年)の敗戦に至るまで、『成田市史年表』から拾い出すだけでも、1933年(昭和8年)から1941年(昭和16年)までの間に、歩兵第57連隊の兵士や近衛兵たちが10回以上も参拝し、武運長久を祈願、お札を身につけている。 第18世住職荒木照定1928年(昭和3年)に新更会を設立、『成田町報』などを通じ、地域の民衆に対する日本古来の伝統的思想の教化を積極的に行った。日中戦争が激化していた1938年(昭和13年)には海軍に「新勝号」「成田山号」と名づけた戦闘機献納している。また、真珠湾攻撃の翌日にはそれぞれに当時の額で10万円を献納するなど、新勝寺は積極的に協力した。

寺の開基1000年でもある1940年、10年に一度の大開帳は、国家の一大イベントとなる行事である紀元二千六百年記念行事と重なるのを回避し、経済的に不利な状況(すなわち寄付の不足)になることを避けるため、二年前倒しされた。これより2018年の開基1080年を含めて現在まで、大開帳は開山の周年と二年ずれることになる[5]

本尊として安置されている不動明王及二童子像は、1964年(昭和39年)5月26日に国の重要文化財に指定された[6]。寺では平安時代の空海作としているが、鎌倉時代後期(13世紀14世紀)の製作である[7]

2007年(平成19年)11月28日、着工から3年8か月をかけたケヤキ造りの総門(高さ15m, 桁行14m, 梁行8m)が完成。

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