■小説・映画凱旋門
全編ウィットに富んだアフォリズムに溢れていて、パリのエスプリを感じさせながら、人間が運命とどう対峙していくかを描いた非常に骨太の作品だった。
小説のテーマを一言で言うとニヒリズムと、それに勝利するものとしての愛、だと思う。人生に対する無力感 = なにもしないという消極性に対して、勝利をもたらすのが「愛」であるという話だと思った。
取替え可能な無力な存在である人間が、無力なまま運命に勝つ物語だ。
■誰でもない男
小説を読んでまず衝撃を受けたのは、「ラヴイック」が偽名であったこと。
追放されるたびに名前を変え、三番目の名前だという。
今回追放されてまたパリに戻ってきたときに、「また同じ名前を使うのか」とボリスに聞かれ、「気に入ってるんだ」と答えている。
通俗な小説だと、ボリスと別れるときにでも「ほんとうの君の名前は?」とでもやるんだろうが、最初から最期までラヴイックは 「ラヴイックという偽名を語っている男」のままでいる。
「ラヴィック」 は誰でもない取替え可能な存在であること、生と死もたやすく入れ替わってしまうというモチーフが小説では繰り返し出てくる。
ラヴィックが外科手術をし、術者を取替えるシーンは、宝塚版では 「何事も表と裏」 というユーモラスな歌で、社会の縮図のように歌われていたが、原作では、体・命すら誰のものがわからず、誰の責任かわからない取替え可能な不確かな存在、というところに重点が置かれている。
映画でも、ラヴィックの行う手術の術野と視界が真っ白くぼけていき、現実感を喪失していく演出がされていた。
ラヴイックは手術で救えなかった命に対して殺人者のような罪の意識をもっているのと同時に、救った命を自分の勲章のように愛情をこめて扱う。娼婦のリシェエンヌにわざわざ金をやるのは、自分が命を救ったという、決しても誰も知らない、自分が確かに存在した証であるから、愛情をこめて扱っている。
■未来のない男と、現在を愛する女
ラヴイックは、常に心を閉ざしている。
自分が誰であるかを語らないし、誰にも心を開きはしない。
過去の拷問と恋人の無残な死の記憶、幾度も幾度も逃亡し逮捕されることを繰り返す生活に疲弊し、人生を真に生きようとする力を失っている。
劇中でも酒の歌が出てくるが、原作に出てくる酒の種類と量は尋常ではない。
コニャック、デュボネー、ウオッカ、ヴァン・ローゼのカラフ、アルマニャック、シャンペーン・コクテール、クールボアジュエ、ぺルノー・・・・そして、カルヴァドス。
ラヴィックにとって酒はモルヒネと同じ鎮痛剤で、苦痛を麻痺させるために飲んでいる。
飲んで、寝て、皮肉と乾いた笑いでその日その日をやりすごす。
だから、恋はしない。というより、できない。
逃亡の邪魔になるからでなく、精神が死んでいるから。
小説ではラヴィックの絶望と人生に対する諦念、孤独に対する描写が実に美しく、実に執拗に描かれている。
ジョアンと知り合い、関係を持っても、ラヴィックはどこかうわの空に見える。
そこがジョアンに不安を覚えさせる。
-「なぜ、抵抗なさるの?」
-「抵抗なんかしないよ、いったい僕が何に抵抗するっていうんだ?」
-「あなたのうちには打ち解けないものがあって、あなたはひとであろうとものであろうと、けっして中にいれまいとしているのね」
ラヴィックにとって愛は、「人間」を知って始まるもの。
それまで生きてきた記憶、家族、信条から成り立っているその人間を知って、関わっていくこと。
だから、名前もなく、家族も失い、記憶も語れない彼は、愛することは不可能だ、と思っている。
「幸福、それはいったいどこではじまってどこで終わるのかね」 というラヴィックの問いに、もしラヴィック自身が答えるなら、「過去に始まって未来に終わる。」となるだろう。
だから、「愛というのは、一緒に年をとりたいと思う」 ことなのだ。
ジョアンは違う。
-「あなたにはじまってあなたに終わるの、簡単よ」
-「きみはまだ僕という人間をほとんど何も知ってやしないよ、ジョアン」
-「それが何の関係があって?」
ジョアンは、過去の文脈や背景を全く気にしない。何も考えず、目の前にあるものを愛し、没頭する。
幸せ、傷つく、愛しているというラヴィックにとっては地雷のような言葉を、飴玉を転がすように口にするジョアンの軽さに、ラヴィックは違和感を隠せないが、同時にそれが救いになる。
ラヴイックがどこの誰だろうが知りもせずに愛するジョアンの、必要な現実しか見ないしたたかさな強さに驚いて、次第に本気で心を開いていく。
ラヴィックが愛を自覚するシーンは実に感動的だ。
アンリとともにいるジョアンと出逢い、彼は揺れ、みじめさを感じながら、自分の感情が激しく揺り動かされていることを発見し、「俺は生きている!」 と、もはや人生の傍観者でなくなった自分に気づく。
ジョアンとの関係は、話し合いで終わる。
二人は普通の男女が別れるように、平凡に別れる。
後日ジョアンと酒場で偶然あってももうなんともならない。
恋の終焉のあっけなさ、(間抜けさ)、ドラマティックでなく生活がつづいていく様子の残酷さがいいと思った。
ジョアンの死に対する態度も、原作はもう少しドライだ。
愛は終わっているが、自分と関わり生かしてくれた女に対する誠意に見える。
■ラヴィックが収容所に行った理由
彼がハーケヲを殺した後の心情も興味深かった。
脱力し、嫌悪感にさいなまれるかと思いきや、命を取り戻したと感じている。
真っ白だった手に、血の気が戻っていくように、ふつうの生活をとりもどす。
同じ亡命者であったゴールデンベルグの自殺、ケートとの別離 (彼女は健常人のふりをした末期患者で、未来の生活を失っているという点でラヴィックの同志として描かれている。二人の男女の関係でない同志としての友情が、とても切ない)、 ジョアンの死を経て、ラヴィックは運命を引き受けることを決める。
どんな状況に置かれても、自分は選び、真の意味で生きることができるのだ、という確信を持ったからだ。
「運命は、泰然自若としてこれに直面する勇気よりも強力であることは決してない。
ひとはもはや運命に耐えられなくなれば、自殺することができる。
だが、人間は、生きている限り、完全に失われることはけっしてないということを知っておくこともまたよいことである」
同じくユダヤ人医師・フランクルが収容所体験を描いた「夜と霧」を彷彿とさせた。
自分が運命を選べなくても、運命に対してどういう態度をとるかを決めることはできる。
「何もかも、これでよいのだ。すでにあったものも、まだこれからくるものも。それで十分だ。」
宝塚版の「君(ラヴィック)はロマンチストだ」 の意味がわからなかったのだが、原作では 「運命論者」になっている。
ラヴィックが身分証の受け取りを拒み、収容所に行くことを選んだとき、ボリスは尋ねる。
-「つかまったら、なんて名前だというんだ?」
-「本名さ」
■映画版 凱旋門
原作より恋愛のシーンが強調されていて、いかにもモノクローム時代の映画らしい。
映像の強みで、心情表現の演出がとても美しい。
バーグマンはジョアン=男に媚びて生計をたてる女には全く見えないが、知的で凛々しく、気位の高い美しい女を演じていて、ラヴィックが恋に落ちることに説得力がある。
映画では、ジョアンがシェラザードで歌うシーンがちゃんとある!!!!
ラヴィックが3週間ぶりにジョアンに再会する夜、ジョアンは美声とはいえないが、味のある深い声で、ラヴィックから目を離さぬまま、妖艶に一曲のシャンソンを歌う。
ラヴィックが恋に落ちたのは、このときだったと思う。
このシーンを真彩ちゃんにくれえええええ!!と心の中で叫んだ。
■宝塚版凱旋門 初演
宝塚版では、戦争や運命に対する絶望的なニヒリズムの描写は減り、ロマンスと文化の死に重点が置かれている。
とても特徴的なのはカルヴァドスで、原作ではラヴィックが生の苦痛を忘れるための鎮痛薬として扱われているが、宝塚では男女の出逢いのための小道具になっている。
「デパートメントストア」 がショーのタイトルになっていた初演の時代、巴里の情景は、それ自体が登場人物だったと思う。
霧のセーヌ川、雨の石畳、ガス灯、アコーディオン弾きに巴里祭のシャンソン、五月の巴里の赤いテントのキャフェに可愛いカフエの女給。
安アパルトマンの屋根裏部屋や娼婦すらも、芸術の都・頽廃の都市、巴里を描く名脇役だった。
宝塚らしく、パリの叙情的な風景がふんだんに盛り込まれている。
映像で拝見して印象的だったのは、照明。
夜のシーンの照明はラヴェンダーと薄いグリーンとブルーを混ぜ合わせて作っていると聞いたことがあるが、街を覆う薄闇のニュアンスが繊細で、いかにも巴里らしい色彩感覚だと思った。
フィナーレが特に素晴らしかった。
「男と女」の曲にあわせて、菫色のソフト帽にソフトスーツでゆったり踊る男役達。
純白のボリスが見事なシャンソンを歌いながら降りてきた後に、白雪のような羽を生やした轟さんが現れる。
真っ白の羽扇を手に、うつむきながら銀橋を渡る轟さんは、それこそギリシャの美青年のように美しかった。
轟さんの憂いのある美貌は孤独なラヴィックにぴったりだったし、月影瞳さんの風貌もクラシックな作品とあっていた。(特に女優になってからの大物感はすごい)
とうこさん、コムさん、成瀬こうきさんはじめ、出演者も皆白黒映画時代の銀幕のスターを思わせる美青年で、文学作品原作の公演の雰囲気によくあっていた。
巴里の寂寥感のなかで、戦争と亡命者のような社会派の視点も絡めつつ、大人の恋愛と孤独を美しく描いたこと、それがトップコンビの硬質な美貌と寺田先生の宝塚調の美麗な旋律とあいまって高い評価を得たのではないかと、映像を見て想像した。