そのとおりだった。さとうさんは、薬を飲み始めてから、おいっちょ、と言う回数が減り陽気な人だった。溶接の仕事をしていたのだが、病気を隠して。薬を飲むことを怠ったため再入院してしまったと言っていた。

 さとうさんと僕の会話で思い出すことがある。僕は、運命を信じ始めていた。というかそういうことにして、僕は自分の今を保っていた。僕はさとうさんに問うた。

「僕、運命なんかなと、思ってるんです。僕が病気になったのは」

 するとさとうさんがこう答えた。

「そんなん、中西君言うてたら、霊感商法ひっかかるで。おいっちょ。壺買わされてまうで」

 と。僕ははっとした。僕は、自分を保つために運命を信じていることにしていたが、さとうさんは、しっかり現実を見据えていた。

 さとうさんは、明るい人だった。それは閉鎖病棟にいて、とても素晴らしいことだった。

そして優しかった。

 水曜日がやってきた。スポーツをしに、看護師と患者の多くが近くのグラウンドに行ってソフトボールをする。それに付いていけるようになった。入院して4ヶ月が経った。

 体力は衰えて、グラウンドに行くまでの道のりがやけに遠かったのを覚えている。果汁園みたいなところを抜けてひたすら病院からまっすぐ向かっていくと、グラウンドが見えてきた。

 モーターサイクルダイアリーズという映画を見たことがある。

 サッカーを原住民とエルネストチェゲバラとその友達がやるシーンを思い出した。

 ソフトボールの準備を終える。僕はセンターを守った。センターからホームベースを見た。大きな空。看護師の坂本さん、篠田さん患者、みんなを一望した。

 僕は人生で一番、感動したことはなんですか?と問われたら、この景色だと答える。僕は泣いていた。こんなことになってもなにも変わらない。そう思った。ソフトボールのために用意された会話にさらに感動した。

 僕は生きている。僕はそれに感動した。

 

 帰ってきて、シャワーを浴びた。僕の人生のハイライトはたぶんこの日なんだろうなと思った。

 入院して6ヶ月が過ぎてなお僕の手は震え続けていた。薬を受け取ることも震えて出来なかった。洗濯をするようになり、火曜外出をするようになっていた。

 火曜外出とは、火曜日に退院が長引いている人もしくは、退院が近づいた人が車で出かけてスーパーマーケットまで行って買い物をする。そのスーパーには、普段食べることが出来ないものがいっぱい売られていた。あのマクドナルドも併設されていた。

 しかし、僕は手が震えていて、しかも対人緊張で買い物が出来なかった。鎌田さんは太っていた。鎌田さんは、スーパーに着くやいなやマクドナルドに飛び込んだ。大量のバーガーとポテトと飲み物を注文していた。ボストン大学を出たとうわさのなんちゃらさんは、カツどんを注文していた。

 僕はうらやましかった。僕は、対人緊張で注文出来ないから、火曜外出の40分間をひたすらエレベーターを登って本屋で立ち読みし、またエレベーターを降りて時間経過を待った。僕はこの時、火曜外出を重ねることを頑張っていたのだ。火曜外出が出来るようになって退院していく人を見てきた僕は、なにも買わない買い物という苦痛を嫌というほど味わった。

 ここで恨み節をひとつ。病院のご飯は少ない。ある火曜外出の日、僕は決死の覚悟で、ボンチ揚げ、200円を買った。レジを見た時、僕は高層マンションから飛び降りる覚悟だった。ボンチ揚げは、ちょうど2つで200円。僕はレジにボンチ揚げを置いて200円を渡せるかどうか不安だった。顔が醜く震えて、手が有り得ないほど震える姿をイメージしてしまう。

 でも食べたかった。食欲が恐怖に勝り、僕はボンチ揚げを買うことに成功した。

 その時、僕は鎌田さんと2人部屋で、ボンチ揚げをロッカーに入れて寝た。

 そのボンチ揚げは、翌日なくなっていた。というかボンチ揚げの袋だけロッカーに入っていた。むちゃくちゃ悲しかった。

 鎌田さんだ!と思った。僕は決死の覚悟で買ったボンチ揚げを、病院食のご飯280グラムに制限されているデブの鎌田さんにかっさわれたのだ!

 でも、それを責めるわけにはいかなかった。睡眠薬を飲んで夜九時に寝る患者は、意識がなくなってなお行動する健忘という現象が起こることがある。脳が寝ていても、体は起きている現象だ。つまり、僕が食べたということも考えられるのだ。

 しかし、今、思い出しても腹が立つ。食べ物の恨みは深く根深いということだね。

 食べ物と言えば、また鎌田さんがらみ。一週間に2つ、カップヌードルを詰所で注文することが出来た。食べ物が少ない我々にとってカップヌードルは命とも言うべきものだった。

 それをあの鎌田が!思い出しただけで腹が立つ。僕は大ホールの食事場でカップヌードルを食べていた。すると鎌田さんがやってきて、うらやましそうに見ている。

「少し、食べますか」

 と僕は社交辞令で言った。

 するとじゃあ

「じゃあスープだけ」

 と鎌田さんが答えた。僕はスープを飲む鎌田さんをしっかり見ていた。麺をすすっているではないか!俺は鎌田を本当に許さない。

人生で一番悲しかったことはなにかと聞かれたら、麺をすすられたことだと答える。

 単調な日々は続いた。僕は外泊をすることになった。それは喜ばしいことだ。家に帰れる。それは単純にうれしかった。でも怖いこともあった。家が神殿みたいな配置になっている幻覚を確かめなければならないからだ。

 両親が迎えにきた。いろんな人が、いってらっしゃいと言ってくれた。

 家に帰る。玄関を開ける。怖かった。僕を王にするために全ての家具が変な意味のある配置をしていた家。

 扉を開ける。なんの変哲もない実家がそこにはあった。ここで僕は、忘れられない一言を、母親に言ったらしい。

「帰ってこれた…。俺、病気やってんなぁ」

 母親は、おいしいもん今日作るからなと言ってくれた。父親もゆっくりしなさいと言ってくれた。

 その日、兄から電話がかかってきた。

「明、ゆっくりし。大変やったな」

と言われた。僕は謝りたかった。結婚して間もない兄に迷惑をかけてしまったことを誤りたかった。

「ごめんな。兄ちゃん。迷惑かけた」

「そんなこと言うなよ。ゆっくりし」

 僕は謝りつづけて、兄は、僕にゆっくりするようにという言葉だけが続いた。

 本当に申し訳ない。

 外泊を重ねて、ついに退院できるときが来た。僕は退院できることをその前日に知った。ずっと退院が出来ないと思っていた。というのは僕の手の震えは治っていなかったからだ。

退院出来る。そのことはうれしかった。でも複雑だった。こんな状態で退院しても、社会でうまくやっていけるのだろうか?

 無理だ。

 鎌田さんは入退院を繰り返していた。それでやけに今後に詳しかった。僕は退院したら、デイケアというところに行くのだそうだ。それは、病院とあまり変わりがなくて、むちゃくちゃ暇なんだそうだ。

 僕は退院した。僕を見送るためにたくさんの患者が3階のエレベーター前に来てくれた。

 帰りの車、病院が遠くなっていく。僕はどうなるんだろうかという思いのほうが強かった。でもいろんなものが食べられることがうれしかった。