私は、高校生のころ、硬式野球部でした。

毎日、来る日も来る日も、野球しかしていませんでした。地方大会では、上位に行くこともあり、甲子園が目標の多くの高校球児の一人でした。ありがたいことに、一年の春からベンチに入れてもらいながら、一年の秋にはレギュラーになっていました。

しかし、うまくいくことばかりではなく、右肩に打球が当たり筋挫傷、肘が炎症を起こす、足の疲労骨折など、ありとあらゆる怪我をしました。そして怪我の痛みが引いてきたにもかかわらず、普通のキャッチボールもままならない状態になりました。いわゆる、イップスというやつです。コーチには実力不足と言われましたが、小学生の学童野球の頃から日常的にしていたことができないことは、精神的に自分を追い詰めていきました。実力不足と言われた手前、練習しないと試合には出してもらえない、練習すると痛い、自分が何しているのかわからなくなる、悪循環でした。逃げ場を求めて、多少勉強に励んだ結果、大学に行くことができたことには少しだけよかったと思っています。

二年の秋もあっという間に過ぎ去り、冬の練習の中で、投げるという負担が減り、ごまかしながら投げられるようになりました。

三年の春、その年甲子園に行った相手にサヨナラ負けをしてしまうのですが、もしかしたら目標の甲子園が手に届く位置にいると感じました。そして最後の夏に向けて練習していましたが、ここで事件が起きました。夏の大会一か月半前の練習試合中、相手と交錯してしまいました。相手に全く過失はなく、すべて自分が悪かったのですが、何も考えれなく、ほんとに周りがスローモーションに見えました。気が付くと、口から血が滴り落ち、下の歯がないという周りの声、もうろうとした意識の中、救急車で病院へ、偶然近くで大きな事故が起きたタイミングと重なったため、救急病院とはこんなに恐ろしいものなのか、自分も危ないのかなと思いながらこのあたりで痛みが相当強く気分が悪いことに気づきました。いままでの怪我とは比べ物にならない痛み、止まらない出血、野球人生終わったなと思いました。痛みに耐えながら検査を受け、(今の技術があれば、痛みの出ない検査できると思っていた)そのまま入院とだけ告げられ、自分がどうなったのかはわかりませんでした。病棟に行く直前に、救急の診察室に呼ばれ、ストレッチャーのまま入り、レントゲンを横目で見ると、人間の頭蓋骨に亀裂がきれいに二本入っていました。

 

実際の画像になるので、苦手な方はごめんなさい。

 

 

 

 

 

下の歯あるじゃんっていう、誰か言ったかも忘れましたが、自分はずっとわかっていて伝えていたつもりでしたが、この現状、声を発しても聞き取ってもらえることはありませんでした。野球が生活の中心で生きてきた人間からすると、最後の夏なにがなんでも出たいが現実的でないなという思いもありました。なにより高校球児には、お金も時間もかかります。高校生になると親の負担にも気づき、両親にとても申し訳ない気分でした。会話できる状況ではありませんでしたが、病室で親と対面したときは強がったことを覚えています。そして、自分の拙い口から出た言葉に、自分でも驚いたことを覚えています。”大会でれる?”聞き取れたのかはわかりませんが、”大丈夫だよ”と言われました。非現実的なことでも、自分で可能性を信じた、あの頃の自分が生命力ってすごいなと思います。でも何といっても下顎の二箇所もの骨折、食べることも飲むことさえもできません。喉はからからなまま点滴で水分と栄養だけ、まさに生き地獄でした。痛み止めの薬は、点滴だけでは追い付かず、座薬、最初は羞恥心がありましたが、慣れてしまうものなんですね。それよりも痛みが勝りました。即日手術してくれるものかと思っていましたが、病院の都合でこの状態で一週間過ごすことになります。早く手術してくれよと思いましたが、周りを見ると、ほんとに生きるか死ぬかの現場、若干の恐怖も感じながら、ただ痛みに耐える一週間。この入院中、こんなに考える期間はなかったというぐらい、自分の将来や周りのことについて考えましたが、一つ心に決めていたのは、絶対に周囲の親やチームメイトには弱みをみせないことでした。昔から痛み強いのと根拠のない自信だけあるといわれていたので、夏の大会に戻るのが命題となり、そこから自分なりにたどり着いた結論でした。周りから見ると相当ひどかったらしく、腫れあがった顔をみて、リアルクッキングパパと言われましたが、それ以上顔の原型はなかったです。

 

なんとなく痛みにも慣れてきた日、手術をする日、全身麻酔、まあ何となくいけるしょぐらいの自分に現実を突きつけてきました。

麻酔から覚めると、妙に機械音が多く、自分の病室に戻れるはずが戻っていないことに気づきました。うまく嚙み合わせがいかなかったらしく、予定よりも手術時間が、2時間ほど伸びたことで、麻酔の時間が長くなり、集中治療室にいました。慌ただしく動く看護師さん、骨折した日以来ぐらいの強い痛み、麻酔による朦朧とした感覚、麻酔から覚めなければよかったと思いました。

そこから嚙み合わせをするために、顎間固定でまともに食べれない二週間、退院してから二週間で大会の初戦という日程でした。

まず顎間固定の期間が相当きつかったです。金具と輪ゴムで上下の歯をくっつけますが、しゃべることもできない、飲み物は注射器のようなもので奥歯の隙間から流し込む、生きるための点滴、痛みも腫れも引く気配がありません。心が折れそうになりながらも、毎日こんな顔を見に来てくれる人のために最後なにか形として恩返しがしたいと思いました。監督からデブと呼ばれるぐらいの体が、ベットの上にしかいないと小さくなっていきます。人生最大のダイエットでしょう。どうしても痩せたいという人は、顎の骨でも折ると勝手に痩せます。絶対に進めませんが。

医療と人間の治癒力はすさまじいと思うほど、一週間たつと思いました。顎間固定のゴムを外してなんとか食事ができるようになり、最初に食べた、病院の売店で買ったプリンは、どんな高級店のお高いものよりもおいしく感じました。食事のありがたみを体全身が感じました。その後も自分で鏡を見ながら、歯に輪ゴムをかける生活、早く家に帰りたいという気持ちでいっぱいでした。歩けば響く、ろくに咀嚼もできない状態でしたが、大丈夫と言って退院させてもらいました。

やっと野球に戻れる、間に合ったと思いましたが、そんなに甘くはなかったです。

練習に行って、歩くことから軽いジョグ、素振りぐらいをして、キャッチボールの相手を探していた人がいたので、いつも通りやろうとすると、10mも投げれませんでした。女子のソフトボール投げ以下でした。肩が、肘が、腰が痛いわけではありません。噛み締める、踏ん張ることができなくなっていました。

ベットでの三週間から急ピッチで上げようとしたため、発熱して、一日またベットでつぶしたこともありました。それでもなんとか痛み止めをうちながら練習して、野球がなんとかできる体にしました。

大会前最後の練習試合の日、地方大会は甲子園の18人と違い、ベンチ入りの枠が20人あるので、そこに入れてもらう、ぐらいの痛みと体調でしたが、人間のアドレナリンはそれを越えてきました。前日にやっと前からくるボールを打ち出したぐらいの自分を、代打で出してもらい、人生で一番のあたりかもしれないぐらいの、センター前を打った時、ベンチの沸き方、周りの声、試合に出れることのありがたさ、すべてが感動的でした。

そして、最後の夏、満足いくプレーはできず、甲子園には行けませんでしたが、試合でまたヒットも打つことができ、仲間と悔し涙を流すことができました。あの時病院であきらめていたら、この達成感はなかったと思うとやってよかったと思っています。(病院からは止められていましたが)

この怪我がなく、普通に最後まで全うして、たとえ甲子園に行けていても、この達成感は感じることはできなかったと思い、貴重な経験をさせてもいました。

 

日常が日常でなくなったとき、人間の生き方、その人強さが顕著に出てくると思っています。コロナで、これまでのあたりまえが消えて、ニューノーマルな生活の中で、生きぬけていけるかが、これからの時代、必要とされる力だと思います。自分で招いたことではありますが、この経験が、生きていくうえで、自分に必要なことをおしえてくれたのではないか思っています。

 

長々と書いてきましたが、野球をしている人、全く野球を知らない人、顎の骨が折れてしまった人、いろんなひとに読んでもらって感じることがあれば、コメントしただけると大変うれしいです。