前触れなく静かに流れた。
頬を伝うそれは、器に注がれてこぼれ出した情動。
いつもいつも押し込んでしまっていた。
知らず知らずのうちに溜め込んでいたものが抑えられなくなって両目からあふれ出す。
この世界で私の全てを吐き出すことなんてできるわけもなかった。
ただそっとふっと白く冷たい雪が降るように。
一つ一つの雪の結晶はなんて事のない重さであるのに、気が付けば何もかもを押しつぶしてしまうほどに高く積もっている。
一度足を入れたら抜けることがないほど深く深く突き刺さる。
足は雪に捕らえられてその場から身動きが取れなくなる。
体も冷えてきてガタガタと震え始め、手足の感覚は無くなってきた。
それでも雪は容赦なく、また優しく、しんしんと私の上に降り積もる。
遠くから見ると綺麗な雪景色にしか見えないであろう。
そして誰もその下に埋まっている人には気が付かないのである。
そんな世の中である。
蒸し暑い夏の夜の波打ち際。
浜辺に一人で座って、ただぼーっとしていた。
もう疲れてしまった。
おもむろに立ち上がり裸足のまま海に入っていく。
スボンも下着も濡れてしまった。着替えは持っていない。
だが一向に構わないのである。
だって、もうきっと最後だろうから。
夜のひんやりと冷たい海水はそろそろ首元まで来ようかというところ。
進む足は止まらない。からっぽのまま歩き続ける。
服が海水を吸って重くなっていく。
それでも止まらない。止まらない。
ついに体はすっと軽くなり、全身が海水に浸かった。
なんだかちっぽけな人生だった。
私の体はゆっくりと沈んでいく。
月の光が海中に差し込む藍色の海は幻想的であった。
満月のように丸い水泡を下から眺める。
水泡は途中からはぐにゃりゆらりとクラゲのように形を変化させて遠ざかっていき、最後は消えてしまう。
私の口からぽこりぽこりと漏れる水泡は止まらない。止まらない。
そろそろ苦しくなってきたな。
このまま静かに目を閉じて眠りたいのに、体だけは上へ戻ろうとする。
戻ったって意味なんてないのに。
この後に及んでまだ未練でもあるのか。
本当に悲しくなるほどダメなやつだなぁ私は。
私はもがき、手足をジタバタしていた。
まるで不恰好なダンスを踊っているようだ。
でもこの静かな世界では私を笑う人もいないのである。
そう思うと私は苦しさと嬉しさに身悶えた。
そうしてやっと本当の決心がついたようだ。
最後なのだから、このまま好きなように踊ってやろう。
そうしてこの舞台からの引退だ。
ごぼごぼと大きな空気の塊が最後の旅を始めた。
視界が暗くなっていく。
真っ暗な深海に落ちていく。
バイバイバイ。
すると突然、何かに体が引っ掛かった気がした。
そして体はくの字に曲がったまま、ぐんぐん上へ上へ上がっていくような海水の流れを全身で感じた。
うっすらと目を開けると腹部に白い板のようなものが見えた。
だが意識が朦朧としてそれがなんであるのか全く判然としない。
それでもどんどん上へ運ばれていく。
一体何がどうなっているのか。
されるがままに体を任せていると、ザパンッ!という音が聞こえてきた。
私は目をカッ!と見開き、反射的に大きく大きく息を吸った。
そしてその瞬間から私の身体中に酸素が駆け巡り始めた。
ドクンドクンと心臓が激しく脈打つ音が聞こえる。
なんなのだこれは。
靄のかかる頭で唯一わかることは海上へ戻ってきたのであろうということだけである。
しかもそのまま止まることなく空中を上昇しているらしい。
混乱する頭を必死に落ち着かせ酸素を肺に目一杯送り込んだ。
だんだん頭が冴えてきた。
満月の光がその物体の影を海面に映し出していた。
その影を見て息を呑んだ。
なんとそれは巨大な白鯨だったのである。
そのときの私は恐怖心など一切なかった。
ただ、どんどんと遠ざかる夜に煌めく海を眺めていた。
ただただ、美しかった。
一度は諦めた世界だったので、もうどうにでもなれという気持ちで白鯨の鰭に捕まって空を上昇していった。
山を越し、雲を突き抜けどんどんどんどん昇っていく。
すると突然、白鯨が夜空に停止した。
耳元をかすめていた風を切る音が消えた。
完全な静寂が当たりを包み込んだ。
満月と白鯨と私。
そして次の瞬間に白鯨は、ぱんっ!と弾けて私は宙に放り出された。
白い球体が四方八方に飛び散っていった。
数秒後、飛び散った球体たちが何かに引っ張られるように引き戻されていく。
私の後ろに飛んでいっていた球も戻ってくる。
その球が私の背中を押して私も白鯨がいた位置まで運ばれてゆく。
先に集まった球は互いにひっつき大きくなっていく。
ぼこぼこひっつき、むくむくと形を変えていく。
私が元の位置にたどり着くまでには白鯨と同じくらいの大きさの別の物体が出来上がっていた。
私はワクワクした。
それは巨大な宇宙ロケットであった。
背中の球体に運ばれて私はロケットの搭乗口にたどり着いた。
そして、私はロケットに乗り込んだ。
ロケットは私が中に入るとゴゴゴゴと轟音を響かせ上昇を再開した。
ロケットには丸い窓が一つ付いていた。
白鯨よりもさらに速い速度で駆け上がっていく。
もう何もかもが小さくなっていた。
ついに大気圏まで来たらしい。窓の外が赤くぎらついている。
大気圏を抜け、静寂が訪れた。
ロケットのエンジンは切れたらしい。
だがそのままロケットはまっすぐに進んでいく。
宇宙は真っ暗で静かで、遠くには光る星がいくつも煌めいている。
どこへいくのだろうか。私は窓を覗き込みながら思った。
まぁどこでもいいか。
この胸の高鳴りを感じながら宇宙遊泳を楽しむとしよう。
バイバイバイ。
