人間は誰でも何かを不足するように出来ている。

だから需要と供給がうまれる。

「そんなの当り前だ。」あなたはそう言うかもしれない。

そう、たしかに当り前だ。

しかし、ここに大きな示唆が含まれているように思うのだ。

得てして私たちは不足している状態に、不満足を感じるように出来ている。

つい人と比較して、自分に不足していることを意識して傷ついてしまったりする。

でも、そうじゃないんだ。

不足しているのが当たり前で、その不足した状態でどう自分らしく楽しくやれるかっていう

ゲームみたいなものなんだ人生は。

もともと私たちの体に宿っていると思われる「たましい」のようなものは

不足のない世界にいたと。

その世界では、飢えもなく寒さも暑さもなく、人間関係で悩むこともなく、

何も不足のない世界だ。

そして、そんな不足のない世界がとても退屈なんだ。

私たちはそんな退屈な世界から、やってきた。

で、退屈ではない世界とは制約の強い世界だ。

肉体という制約があり、人間関係という制約があり、経済という制約があり、

物理的な制約、精神的な制約、様々な制約が存在する世界だ。

「あれがない」「これがない」のが常な世界だ。

制約があるからこそ、ハラハラドキドキ出来るのだ。

制約があるからこそ、冒険は成り立つのだ。

制約があるからこそ、退屈から解放されるのだ。

告白すれば必ずOKされるとわかっている告白など、全くドキドキしない。

フラれるかもというリスクがあるからこそ、いいのだ。

僕たちは不足した世界にいて、冒険している。

不足があるからこそ、需要と供給がうまれる。

足りない人に、僕の足りているものを与えれば喜ばれる。

逆に自分の足りない部分にばかりフォーカスしても、自信がなくなるだけだ。

どんな人でも誰かの役にたっている。

はじめはお母さんの役に、お父さんの役に、お姉ちゃんの、お兄ちゃんの、妹の、弟の、

姪っ子の、甥っ子の、おじさんの、おばさんの役にたつ。

君が笑えば、「まぁかわいい!」って誰かが喜んだんだ。

絶対誰かの役にたっている。

11歳くらいから16歳くらいに、今度は自分自身の人生のテーマを探し始める。

それは、誰かの役にたとうとすること。

自分の得意なことを見つけようとして、一人歩き始める。

そうやって、自分にあるもの(=充足しているもの)を、それが足りない人に与えて

満たしてあげるんだ。

それが人の役にたつってこと。

需要と供給は消えることなどない。

もし、この世界から不足が消えたら、もし、この世界が天国になったら

僕たちは退屈になってしまうから。

だから、リスクのある制約の強い世界をまた欲しがるんだ。

不足した世界を楽しもう。

足りない自分を楽しもう。

誰だって死んでしまえば、退屈すぎるほど不足のない世界を経験するんだから。

せっかく意図して不足した世界に来たんだから、不足した人生を楽しもう。

今日の、ブログはここまで。

では、また。