私は薄っぺらい人間である。
何をするにも人から評価されなければ気が済まない。他人軸でものごとを捉え、人に自分がどう映るかばかりを気にしてきた。何かにとりつかれ、夢中になったこともないから、なにも続かない。なんでも飽きてしまう。何かに没頭し、ただ楽しいからという理由だけで物事をやり遂げ、継続したことがない。推し活すら羨ましい。今までやってきた頑張りはいつも誰かに褒められるかもしれないという期待の皮算用でなりたっていた。昔から絵をかくのが好きだった。たくさん褒めてもらえたから。今思えばそれは周りより少し器用なだけで、本気で絵を好きな友人に勝てるはずもなかった。そのことにも私は早い段階で気づいていた。上達したいという気持ちよりも褒められたいという気持ちが勝り、人が評価しやすい、できるだけ写実的な絵を描いた。成長するにつれ自分の器用さだけでは周りに太刀打ちできなくなり、絵をかくこともすっかりなくなってしまった。本気で好きじゃなかったのだ。中学に入ると、自分は勉強に関してもそれなりに器用であることを知った。高校、大学と受験は大成功だった。そこそこ有名どころに進学し、多くの人から褒めてもらった。両親にとっても自慢であることと思う。それでも、大学2年が終わろうとしている今、こんなはずではなかったと思わざるを得ない。過去の自分の努力にすがり、今の自分の姿を棚に上げ、自分が持っているなけなしの輝きをなんとか守ろうとしている。大学受験から丸2年が経ったというのにまだ私のSNSのタイムラインには受験生の嘆きや浪人生の呟きが流れてくる。それらは私の優越感を未だに満たすのである。なんと滑稽であろうか。受験に失敗し、嘆いている人よりもよっぽどみじめな姿である。そんなタイムラインの中で見つけた、ミラノ五輪を終えた平野歩夢選手の言葉が私の心を刺し続けている。
「何かを失いながら生きる」
私にもそんなことができるだろうか。大したものも持ち合わせていないのに、それでもそのガラクタを失いたくない。手放したくない。何かを得るには何かを手放さなければならないということなんてわかっているはずなのに。私の器はいつまでも小さくて、その小ささを認める器さえもない。私は私のために何を失えるのだろう?何を差し出せるのだろう?能ある鷹は爪を隠すというが、私は短い爪を必死に見せびらかしてきた人生だった。まだ見せていない爪が隠れているのだと言いたげに振る舞い続けた。とにかく自分を大きく見せることに必死であった。得たいものはたくさんあるのに、今手にしているものを手放す勇気が私にはない。
長い春休みに入り、だらだらと毎日を過ごす日々である。それでも何かを変えたいと思い、この文章を書いているのである。もっと本を読んでおけばよかった。長々と支離滅裂な文になってしまうのがもどかしい。なんとなく、文豪風に、エッセイっぽく書いてみている。どこまでも浅はかで薄っぺらい。誰かの真似事ばかり。
今、私はたくさんの悩みを抱えている。人間関係や就職など様々。でもそんな自分と向き合いたい。いろんな後悔があふれ出している。ピアノをならっておけばよかった。そうすれば、恋人ができるのではと期待し入ったサークルにもうまく馴染めたかもしれない。もともと音楽なんて好きじゃなかった。そんな不純な理由で入って、うまくいくはずもないのに。恋人がほしいという感情さえも、他人軸で生きていることの証拠である。憧れはあっても本当は別にほしくない。いや、ほしいけど、別にいらない。でもこの歳でいないのは、普通じゃないから。恋人がいて、他者に愛してもらっているという事実が、人を輝かせるから。だからほしい。人が持っている幸せは自分も欲しい。しょうもない。本当にしょうもない。どうしたら良いのだろう。どこで間違えたのだろう。ずっと間違えてきたような気もするけど、でもこんな風に生きてきてしまった。これしか知らない。自分に期待をしては落ち込んで、他者に期待をしては落ち込んでいる。音楽も好きになれるんじゃないかと思った。誰かに好きになってもらえるんじゃないかと思った。でもだめだった。まだだめだというには早いと言ってもらえるのだろうか。書いていて自分にあきれてしまう。また人に言ってもらおうとしている。人に期待せずに、自分でだめじゃないと強く言えたらいいのに。やっぱりどう転んでも他人軸で生きてしまう。この文章も誰かに届くことを祈って書いている。いつかAIにしか寄り添ってもらえなくなったらどうしよう。AI曰く、こんな自分を認めることも大切らしい。ある意味社会に生きる人間らしい自分を認めてやるべきなのかもしれない。深夜テンションで書いてしまったが、どうかこの葛藤が誰かに伝わることを、今の自分は願わずにはいられない。