今の私の職場には、ワンフロアに数十人の同僚が働いています。誰が今どんな仕事を抱えているのか、具体的には分かりませんが、誰と誰が会話している、という様子は察することができます。

 今の部署に異動になってしばらくの時が経過しました。その中で、気づいたことがあります。それは、ある人(Aさんとします。)は、周囲の方からたくさん話しかけられているのに、別の人(Bさんとします。)は、あまり話しかけられていない、というように、人によって話しかけられる量に差があるということです。

 

 AさんとBさんの間に、職責上の違いはありません。また、行っている仕事の内容も、業績も、大差ないはずです。両方とも、優秀だと評判の方です。それなのに、この違いが生じるのはなぜでしょうか。

 二人を観察していて気が付いたことがあります。それは、Aさんは「話しかけやすい」雰囲気があるし、「耳を傾ける」力があるということです。

 

 Aさんは普段から周囲に挨拶を欠かしません。また、リラックスした表情で仕事をしていて穏やかそうな雰囲気を醸し出しています。さらに、周囲の方から話しかけられると(急ぎの仕事を抱えているときを除いて)、話しかけた側の方に身体を傾けて、話を聴こうとしてくれます。

 周囲の方は、何か問題が起こりそうになると、すぐにAさんに話しかけているようです。

 

 私は、職場で、Aさんのようになりたいなあと思います。

 家では、《妻さん》や《娘さん》から話しかけられやすい自分になるように努力し、ある程度達成できるようになりました。

 DV・虐待を犯していた私は、二人が話しかけにくい不機嫌オーラを醸し出していました。しかし、普段から笑顔でいること、いつでも話しかけやすい雰囲気でいることを意識した結果、少しずつ、《妻さん》や《娘さん》が話しかけてくれるようになり、今では、《妻さん》と《娘さん》が沢山お話ししてくれるようになっています(感謝です)。

 

 同じようなことを、職場でも実践できるようになりたい、と感じます。家では話しかけられやすい自分でいても、職場では話しかけられにくい自分、というのでは、良くありません。

 いつでも、誰からも、話しかけられやすい自分である。そうであることが、本当の意味で、ステキな自分であるということに繋がっていると思うからです。

 

 今年の目標の一つは、誰からも話しかけれられやすい自分であること、にしたいと思います。

 

 

 私は、DV・虐待を犯してきました。そのことを自覚してから、DV加害更生プログラムでの学びをずっと続けています。もう十年近くが経過しています。

 私が更生の道を歩み続けられるのは、《妻さん》や《娘さん》を始め、多くの方の支えがあってのことです。そしてその支えは、直接的に私と関わってくれる方だけがもたらしてくれるものではありません。

 

 私の更生を支えてくれたものの一つに、ある歌があります。Metisさんという歌手が歌う、「人間失格」(2011年)という歌です。

 歌詞の一部を引用します。

 

「人を従わせ支配しそんなに自分を大きく見せたいのですか?

君の庭に咲く花は寛大ですか?心のままにいつも咲いていますか?

涙を忘れていませんか?大事なことから逃げてませんか?

自分に嘘をついていませんか?諦めることに慣れ過ぎてませんか?

泣きたければ泣けばいい 叫びたければ叫べばいい

それでいいんだよ…君で良いんだよ…全ていいんだよ…きっといいんだよ…

明日は明日の風が吹く」

 

 私は、これまでの人生の中で、歌を聴いて涙するという経験は、ほとんどありませんでした。

 しかし、この曲を聴いて、DV加害更生プログラムに通っている私は、心を激しく揺さぶられました。気づくと、大粒の涙をこぼしていました。今も歌を聴くたびに胸が熱くなり、涙が出てきます。

 

 私は、DV・虐待をしていたとき、まさに、人を従わせ支配して、自分を大きく見せようとしていました。《妻さん》や《娘さん》、職場の同僚や友人を支配することで、自分が凄い人であるかのように見せたかったのです。

 その時の私の心の庭には、「寛大」さは何もありませんでした。自分と違うものは全て否定し、そして、自分自身をも否定していました。

 

 強くあろうとして、涙を流すことを自分に許していませんでした。他者を支配することにきゅうきゅうとして、本当に大事なことから逃げていました。

 自分に嘘ばかりついていました。自分の人生を諦めていました。

 

 そんな自分を、言い当てられているように感じたのです。

 

「泣きたければ泣けばいい、叫びたければ叫べばいい

それでいいんだよ…君で良いんだよ…全ていいんだよ…きっといいんだよ…

明日は明日の風が吹く」

 

 私は、泣いていい。叫んでいい。強さという鎧をまとわなくていい。自分を大きく見せなくてもいい。そのままの自分でいい。そう言ってもらえた気がしました。

 そしてまた、自分がDV・虐待を手放し、更生していくことを後押ししてもらった気がしました。

 

 この歌を聴いて、涙を流すと、穏やかな温かい気持ちになります。そして、未来に向けて頑張ろうという気持ちになります。

 間違いなく、私の更生を支えてくれている歌です。

 

 もちろん、Metisさんと私との間に、直接的な関わりはありません。しかし、この歌がこの世界にあることで、私の更生が、間接的にMetisさんに支えられているのも事実です(ありがとうございます)。

 

 多くの方の支えがあって、更生の道を歩むことができます。皆さんに支えられて生きている、という想いを新たにします。

 今年もありがとうございました。よいお年をお迎えください。

 将棋の話です。少し前に、女流棋士の第一人者である福間香奈さんが、日本将棋連盟に、規定の改善を求める記者会見を行い、その後一部改定されるというニュースがありました。

 (しっかりウォッチできている訳ではないので不正確でしたら申し訳ないのですが)報道によると、日本将棋連盟が2025年4月に定めた規定では、将棋のタイトル戦と出産前後の期間が一部でも被った場合は、タイトル戦に出られないものとなっていたようです。事実上、妊娠かタイトルかの二者択一を迫る当該規定の改善を福間香奈さんが求め、それが一部改善されたとのことです。

 

 私はこのニュースを目にして、自分のDVを思い出しました。

 結婚してすぐ、《妻さん》の妊娠が分かった時のこと。当時(働きながら)学校に通っていた《妻さん》に対して、私は、

「最終的には《妻さん》が決めることだけれど、学校は辞めるんだよね」

と言い放ちました。《妻さん》に、「妊娠か学校か」の二者択一を迫ったのでした。最終的に《妻さん》は学校を辞めることになりました。

 

 今考えれば、私が育児休業したり、短時間勤務を選択したりして、《妻さん》が学校を継続することもできたはずでした。しかし私は、自分は「子どもと仕事」を当たり前のように両立させながら、《妻さん》に対しては、「妊娠か学校か」の二者択一(事実上は学校を辞めること)を迫ったのでした。これは、紛れもないDVです。

 

 「妊娠かタイトルか」。そんな二者択一を迫られることは、それ自体がとても苦しいことだと思います。「選ばせるという暴力」をしてきた私としては、こうした状況に陥った福間香奈さんに、《妻さん》が重なって見えます。

 「妊娠もタイトルも」どちらも当たり前のように目指せる社会になってほしいと思いますし、そのために私も力を尽くしていきたいと思います。

 福間香奈さんを応援しています。

 

 《妻さん》や《娘さん》、周囲の方々に対して「ありがとう」と言うことが増えました。

 逆に、DV・虐待を犯していたときの自分は、「ありがとう」をあまり口にしていませんでした。

 「ありがとう」と言った後も、「私がありがとうと言わなければいけないことを○○さんがしてくれてしまった。だから私も、○○さんにありがとうと言われるような行為をしなければならない」と焦ったり、「私が《妻さん》の行為に対してありがとうと言ったのに、同じような行為を私がしたにもかかわらず、なぜ《妻さん》はありがとうと言わないのか」と怒りの源にしていたりしました。

 当時の私の頭の中では、「ありがとう」という言葉自体が、何らかの「通貨」のようなもののように捉えられていたのかもしれません。そして、その貸し借りをゼロにすることが正しいというように思って生きていました。

 

 今の私は、「ありがとう」と口にすることについて、素直に捉えられるようになってきました。

 私が周囲の皆さんに「ありがとう」と言っても、それで私に何か負債が生じる訳ではありません。していただいた行為に対して、素直に「ありがとう」と言ってもいいのだ。そう思えるようになったことで、「ありがとう」と口にする機会が増えました。

 また、私が何らかの行為をしたことに対して、「ありがとう」と言われるかどうかについても、あまり気にしなくなりました。私はただ、自分がしたいからその行為をするだけです。「ありがとう」と言ってもらうためにその行為をする訳ではありません。

 そのことに気が付いたことで、「ありがとう」と言われなくても怒らなくなりましたし、「ありがとう」と言っていただいたら素直に嬉しく感じられるようになりました。

 

 「ありがとう」に対する考え方の変化は、一見小さいもののように見えるかもしれません。しかし私にとっては、大きなものです。それは、「他人を信頼できるようになる」ということと繋がっているからです。

 DV・虐待をしていた時の私は、他人を信頼していませんでした。他人との関係を「貸し借り」のように捉えていました。だからこそ、他人からの「ありがとう」を素直に受け取れなかったのだと思います。今、他人を信頼できるようになったことで、「ありがとう」を素直に言えるようになりました。

 「ありがとう」と言える。小さいようで、大きな一歩だと感じます。

 

 

 

 DV・虐待を犯した背景は、人により様々です。また、様々な要因が積み重なっており、特定の何かが原因であると言うのが難しい場合があります。

 ただし、DV加害更生プログラムに通い続ける中で、「だいたい共通しているなあ」と感じる要因もあります。

 その一つは、パートナーや子どもに対する「不信」です。

 

 DV・虐待を犯す時、DV・虐待を犯す相手を信じているということは、まずありません。相手に対する不信感がベースにあって、例えば、

・どうせダメな奴だ。

・また馬鹿なことばかりしている。

・口で言っても変わらないから身体で覚えさせるしかない。

という発想から、怒鳴る、馬鹿にする、モノを投げる、突き飛ばすといったDV・虐待を犯す。そんな事例を数多く耳にしました(私も、《妻さん》や《娘さん》を信頼しておらず、だからこそDV・虐待を犯していました)。

 

 DV加害更生プログラムでは、自分自身を、そして他人を「信頼する」ことの大切さを学びます。それでは、どのようにして他人を「信頼する」ことを学んでいけばよいのでしょうか(※)。

 

 DV加害更生プログラム参加者にとって、他人を「信頼する」ための最も身近な実践の場は、実は、プログラムそのものです。

 

 DV加害更生プログラムで学ぶ仲間は、DV・虐待を二度と手放し、より良い人間関係を築けるように変化するという目的を共有しています。

 そうした仲間ですら信頼できないのなら、パートナーや子ども、周囲の方々を信頼できるようになることは、まずありません。(かくいう私自身も、DV加害更生プログラムに参加した当初、他の参加者を信頼することができませんでした。「この人たちとは違う」と思いこもうとし、共に変わっていこうとする仲間として信頼することはできていませんでした。)

 

 DV・虐待を認め、変化しようと努力を続ける仲間を、仲間として信頼できるようになる。

 そうなると、学びは進んでいきます。仲間からのアドバイスに耳を傾けられるようになりますし、お互いの変化に気づけるようになります。信頼する仲間とともに学ぶからこそ、自分が苦しくなったときも、学び続けるという選択ができるようになります。

 そうして、「信頼する」ことの価値を実感していく中で、次のステージとして、パートナーや子どもを含む、それ以外の他者に対しても、「信頼する」ことの重要性を認識し、実践できるようになっていきます。

 

 「不信」を手放し「信頼する」ことを学んでいく。その最初の一歩が、同じDV加害更生プログラムに通う仲間を信頼する、ということなのだと、今の私は感じています。

 

 

(※)他人だけでなく、自分を「信頼する」ということも大事なテーマなのですが、そこにも触れると議論が拡散してしまうので、この点は、今回は割愛します。

 《娘さん》から、会話の最中に、何かの拍子で言っていただいた言葉があります。

「かつての父は最悪だったよね…今はいいけど。」という言葉です(この言葉は今まで何回か出てきました)。

 私はこの言葉を聴いて、申し訳なさと共にありがたさを覚えました。

 

 一つは、《娘さん》が善悪をきちんと判断できていると感じたからです。当時の私が犯していたDV・虐待を正当化することなく、完全に間違っていると言いきってくれています。DV・虐待がいけないことなんだ、という価値基準を《娘さん》が育んでくれていることに、私はとても心強く思いました。

 

 もう一つ、私の前で「かつての父は最悪だった」と言いきってくれることも、ありがたいと感じます。

 《娘さん》には、「かつての父は最悪だった」と私に言っても、絶対に大丈夫だという安心感があるように思います。もしも《娘さん》が、「かつての父は最悪だった」と発言したことに私が「何を言っているんだ!」と逆上する恐れがあると判断していれば、《娘さん》はそうした発言をしないはずです。

 《娘さん》が私を信頼してくれているからこそ、そうした発言をしてくれるのだと思います。そのことに私は、感謝しています。

 

 「かつての父は最悪だった」と言われたとき、私は、「そうだったね。ごめんね」と返事します。

 自分の犯したDV・虐待行為を認めること、かつての私が最悪な父親であったと100%認めることが、《娘さん》との今後の関係性を誠実に築いていく上で最低限必要なことだと感じているからです(「そうだったっけ?」とか「良いところもあったでしょ?」というような返事はしない、ということです)。

 もう一点、「言い訳は絶対に言わない」ということも意識しています(そもそも言い訳したいとも思っていませんが)。

 私の犯したDV・虐待の全責任は私にあります。万が一私が、自らのDV・虐待の責任を私以外の誰かに帰着させようとする行為を見たら(例:「お父さんの父も最悪な親だったから遺伝だね」「昔はそういうのがまだ許されていた時代だった」)、《娘さん》はきっと私を信頼しないと思います。私はもう、これ以上信頼を失いたくないと思います。

 

 最悪だった私は、「今はいい」と言っていただけるようになりました。「これからもずっといい」私でいられるように、一日一日、信頼を積み重ねられる行動を選択していきたいです。

 胸を張って生きられる、そんな生き方にしていきたいです。

 

 

 

 

 今年《妻さん》に言われた中で、一番うれしい言葉が、

「あなたは我が家の「幸せ」製造機だね」

という言葉です。《娘さん》も含めて、三人で笑い合いながら夕ご飯を食べている時に、言っていただきました。

 

 DV・虐待をしていたときの私は、文字通り「「不幸」製造機」でした。《妻さん》や《娘さん》を心身とも傷つけ、苦しめていました。そんな私が、今は「「幸せ」製造機」だと思ってもらえるようになりました。

 「「幸せ」製造機」は、今の私にとって、最高の褒め言葉の一つです。私が今まで意識してきた言動を認めてもらえた気がして、非常に嬉しく、またありがたいことだと感じました。

 

 私は、《妻さん》と《娘さん》といるときは特に、自分には「上機嫌でいる責任」があると意識しています。DV・虐待をしていたときの私は、自分の感情をそのままぶつけていました(なので、楽しい時は笑顔ですが、不機嫌な時は不機嫌オーラをそのまま醸し出していましたし、怒っている時はそのまま怒りを表現していました)。しかし今は、自分の言動が、同じ空間を共にしてくれている《妻さん》や《娘さん》に影響を与えることを、(ようやく)認識できるようになりました。

 私は、家族とともにいる時間を「幸せ」に過ごしたいです。そしてそのためには、まず何よりも自分自身が上機嫌でいることが大事だ、と思って行動していました。

 

 また、気持ちのよい笑顔があふれる会話も心がけていました。以前の私は、《妻さん》との会話も、相手を「論破」するためのものが多かったです。また、笑わせると言っても、《妻さん》や《娘さん》、第三者を貶めて笑ったりするブラックなものが多かったです。

 しかし、今は、《妻さん》や《娘さん》がどんな言葉を掛けてもらったら気持ちが良いと感じられるかを意識して会話するようにしました。また、ユーモアも意識するようになりましたが、それは、他人を傷つけるような笑いではなく、皆が心から笑えるようなものを大事にするようになりました。

 

 今、《妻さん》も《娘さん》も、私と居ることを心から楽しいと思ってくれているようです。かつてDV・虐待を犯していた私と居ることを、「幸せ」だと思ってくれていることに、私は心から感謝しています。

 このブログで以前似たような内容を書いたことがありますが、今回新たな気づきがあったので、記します。家族旅行についてです。

 (私を含め)DV加害をしてきた者にとって、家族旅行は自分の変化が試される機会となります。家族旅行では、日常生活とは異なり、自分が思いもしない事態が多々発生します。そうしたときに、自分に余裕がなくなり、DVを繰り返してしまう(以前のDVをしていた自分に逆戻りしてしまう)ということが往々にして生じ得るからです。

 

 先日、《妻さん》と《娘さん》と、宿泊を伴う旅行に行きました。ありがたいことに、《妻さん》と《娘さん》も満足してくれたようです。私にとっても幸せな時間となりました。

 今回の旅行で、DVを繰り返さないようにという観点から、特に意識したことが二点あります。一つは予定を詰めすぎない、もう一つはきちんとお金を使う、ということです。

 

 一つ目についてです。私個人は、一日にたくさんの予定を積み込み、沢山の場所を巡るのが好みです。例えば、めぼしい観光名所が三つあったら、三つとも巡りたいと考えるタイプです。一方で、《妻さん》と《娘さん》は、その中の一つを、時間を掛けてじっくり堪能するのが好きなタイプです。

 DVをしていた以前の私は、《妻さん》と《娘さん》が私に合わせるように強要していました。そして、「もっと時間を掛けてじっくり観光したい」という二人に対して、「そんなことしていたら、今日中に三つの観光名所を巡れないじゃないか!さっさと見ればいいんだ!」と怒鳴り、不機嫌オーラをまき散らしていました。

 今回の私は、《妻さん》と《娘さん》の好みに合わせることにしてみました。つまり、観光名所を一つに絞り、それをじっくり堪能してみるような旅行の予定を立てました。

 すると、実際に旅行に行ったときに、「今日中に他の観光名所も巡らなきゃ」という(以前の私にはあった)焦りが無くなっていることに気が付きました。たくさん予定を詰めこまないことで、予定が狂ったときに焦って不機嫌になる、というDVを犯すリスクが減ったのだと思います。

 

 二つ目についてです。経済的DVもしており、ケチだった以前の私は、旅行先の移動手段もなるべく節約しようとしていました。有料の特急電車が走っていても、普通電車で移動できるなら、そちらを選好していました。また、たとえバスが走っていても、数キロぐらいなら、歩くことを選択していました。

 今回、《妻さん》と《娘さん》のリクエストで、前者の方法(有料の特急電車やバス)を利用してみることにしました。すると、《妻さん》と《娘さん》は以前DVをしていたときの旅行よりもはるかに楽しそうに一日を過ごしていることに気が付きました。

 以前のDVをしていた私は、自分基準で動いていました。「早起きしても普通電車の方が安いから都合がいいでしょ」「数キロぐらい歩けるでしょ」というようにです。しかしそれはあくまでも私基準であり、《妻さん》と《娘さん》にとっては負担が大きかったのだと思います。そして、負担が大きく顔が曇る《妻さん》と《娘さん》に対して、私は「せっかく旅行に「連れて行ってあげている」のに、笑顔じゃないのは許せない!」といって、旅先でDV・虐待を繰り返していたのです。

 

 一つ目も二つ目も、要するに、《妻さん》と《娘さん》の視点に立った行動がとれているか、ということが問われていたのだと思います。

 家族旅行は、自分ひとりでは成り立ちません。家族がいてくれるから、家族旅行ができるのです。自分目線でなく、どれだけ家族一人ひとりが楽しめるか、という観点を大事にする。それが重要なのだと再認識した家族旅行になりました。

 

 DV加害更生プログラムにおける学びで、大きな気づきとなったものがあります。それは、「家族といつも一緒にいる」と「家族を大切にする」の違いが理解できるようになったということです。

 私は、「家族といつも一緒にいる」=「家族を大切にする」だと思い込んでいました。私は「家族といつも一緒にいる」こと、つまり、平日も仕事が終わったら早く帰ること、土日も常に《妻さん》や《娘さん》と一緒にいることを努力していました。そして、そうすることが「家族を大切にする」ことだと思っていました。

 それだけでなく、《妻さん》にも同じように「家族といつも一緒にいる」ことを求めました。そして、《妻さん》が平日の帰りが遅くなったり、私や《娘さん》以外の人と土日に出かけたりすると、「家族を大切にしていないじゃないか」と非難していました(孤立させるDVを犯していました)。

 

 DV加害更生プログラムでの学びを経て、私は、「家族を大切にする」ことと、「家族といつも一緒にいる」ことはイコールでないと気が付きました。

 《妻さん》を大切にするということは、《妻さん》が《妻さん》らしく生きることを後押しできる自分になるということです。

 例えば、今、《妻さん》は、仕事をバリバリこなすことに喜びを覚えているようです。また、週末に一人で飲みに行くのが、楽しみだそうです。

 DVをしていたときの私は、「子どもがいるんだから仕事よりも家事を優先だろ!」と自分の価値観を押し付けていました。「一人で飲みに行くなんてありえない。家族を大事にしていない!」と激怒していました。しかしそれは、孤立させるDVにほかならず、《妻さん》が《妻さん》らしく生きることを妨げるものでした。

 

 今、私は、《妻さん》が働くこと、週末に一人で飲みに行くことを尊重することの大切さを認識できるようになりました。《妻さん》は、私がDVを犯していたときよりもはるかに幸せそうに、人生を生きています。

 

 「家族といつも一緒にいる」ことがすなわち、「家族を大切にする」わけではありません。

 家族を構成する一人ひとりの生き方を尊重する選択を続けること(その中には、家族以外の場所・時間における関係を尊重することも含まれます)が、本当の意味で「家族を大切にする」ことなのだと理解できるようになりました。

 

 それは、《妻さん》や《娘さん》だけではありません。私自身にとっても同じです。今まで私は、「家族を大切にする」ために、「家族といつも一緒にいなければならない」と自分に課していました。そのため、自分がしんどいときも、無理に《妻さん》や《娘さん》と(物理的に)一緒に居ることを優先し、結果として不機嫌オーラを出して《妻さん》や《娘さん》を萎縮させていました。

 しかし、「家族といつも一緒にいる」ことよりも、自分がしんどいときは一人でリラックスし(例:銭湯に行ってリフレッシュする)、上機嫌な自分でいることの方が、本当の意味で「家族を大切にする」ことになっているということに気が付きました。

 私自身も、「家族を大切にする」ことと「家族といつも一緒にいる」ことの違いを理解できるようになったことで、より幸せになることができました。

 DV加害更生プログラムに通っている人が置かれた状況は本当に様々です。

 パートナーや子どもと同居している方もいれば、別居している方もいます。別居している方の中にも、時々は会う機会があるという方、会う機会はないが連絡はとっているという方、会うことも連絡を取ることも全くないという方など、置かれた状況は本当に様々です。

 

 そしてまた、置かれた状況は、時とともに変化する場合があります。

 私の場合は、DV加害更生プログラムに通い始めた当初は、①会うことも連絡を取ることも全くなかったですが、その後、離婚調停を経て、②《娘さん》とは会うがパートナーとは会わない(ただし手紙のやりとりはする)、③《娘さん》と《妻さん》と三人で会う、④(ほぼ)同居する、というように変化してきました。

 

 様々な状況にある参加者が、同じDV加害更生プログラムで学んでいる、ということになります。

 

 DV加害更生プログラムで学び始めた当初、私は、人間関係を「対等」ではなく、「上下」で捉えていました(そうした考えの下に、《妻さん》よりも自分が「上」だからと考え、「下」である《妻さん》にDVをしていたのです)。

 人間関係を「上下」で捉えることに慣れきっていた私は、本来は対等であるはずのグループの仲間を、勝手に序列化していました。「同居している方が偉くて、自分のように別居している方がダメな人なんだ。」、「同じ別居しているという中でも、パートナーと連絡が取れる方が「上」で、自分のように一切連絡が取れない人が「最底辺」だ」、というようにです。

 また、「グループに長期間通っている方の方が上で、自分のように新参者は下なんだ」とも思っていました。

 そして漠然と、グループの中でより上位の方が行う発言の方が真実に近いんだ(下位の方が行う発言は軽んじてもいい)、と思い込んでいました。

 

 DV加害更生プログラムで学び初めて何回かしてのことです。

 私が(自らDV・虐待を犯したにもかかわらず)《妻さん》や《娘さん》と会えずにしんどいと口にしたところ、グループの仲間(Aさんとします。)から、それは自分本位の考えで、DV・虐待を手放すことの方が先ではないかとの指摘をいただきました。そして、

「たとえ会えなくても、連絡が取れなくても、想う時間が大事なんだ。少なくとも、自分はそう思っている。」

という趣旨の言葉をいただきました。

 

 Aさんのこの発言を聴いた瞬間、自分の中に光が差したように感じました。

 

 Aさんは私と同じく別居中であり、かつ、パートナーや子どもと連絡が取れていませんでした。また、私とほぼ同時期にグループに通い始めたばかりでした。

 私の基準では、Aさんは(私と同じく)グループの中で「下」の人でした。けれど、Aさんのこの発言は、私の胸の中にスッと入り込んできました。「この発言は真実だ」と直観しました。私は、Aさんという人間を尊敬するようになりました。

 

 それと同時に、私は、自分が勝手に抱いていた「序列」の有害さも認識しました。

 同居だから「上」、別居だから「下」、通っている期間が長いから「上」、短いから「下」。そうやって序列化することで、自分が(「下」だと思っている)グループの仲間の大切な発言を、自分が無視してしまうことに、おそれを抱きました。

 そうやって序列化している限り、自分の学びは次に進めない、との危惧も抱きました。

 「グループの仲間は対等」と、DV加害更生プログラムの主宰者が繰り返していましたが、その発言の真意を、理解できた気がしました。