DV加害更生プログラム参加者の中には、プログラムでの学びを続けていく過程で、パートナーとの関係性が変わっていく場合があります。

 例えば、それまでは別居しており対面で会うことは皆無だったけれど、何らかの事情により、対面で会っていただける機会が増える(あるいは、半分同居のような状態になる)というケースです(私の場合もそうでした)。

 

 「対面で会う機会が増える」ときに、注意しなければならないことがいくつかあると(過去の自分自身を省みて)感じています。

 

 一つ目は、「対面で会う機会が増える」ことと、「パートナーが自分のDV加害更生に関する自分の変化を認めてくれるようになる」ことは、必ずしもイコールでないということです。

 結果的に「対面で会う機会が増え」たとしても、その理由は様々です。DV加害をした側が、「対面で会えるようになったから、自分の変化を認めてくれた」と思い込んで、軽はずみな行動をしてしまうと、パートナーの心身を一層傷つけることになりかねません。

 

 二つ目は、これと関連しますが、「対面で会う機会が増える」ことと、「DV加害行為が許される」ことは全くの別物だということです。

 対面で会う/会わないは、パートナー側が何らかの必要性に迫られて、ということも少なくありません。必ずしも、パートナーが「DV加害行為を許した」から対面で会えるようになったとは限りません。それなのに、会っていただく機会が増えたことで、「もう自分は許されている」と勘違いした行動をとると、それがさらなるDVとなっていく恐れがあります。

 

 三つ目は、二度とDVをしない覚悟を持ち、実際に遂行するということです。

 (別居を経て)初めて再び対面でパートナーと会ったときには、もう二度とDVを繰り返さないようにと細心の注意を払うでしょう。「対面で会う」ことが、自分にとって極めて特別な出来事となるからです。

 真価が問われるのは、その先です。対面で会う機会が増えるにつれて、一つ一つの「対面で会う」ことが、「日常」に近くなってきます。いわば、「素の自分」が試されるようになるということです。

 そうしたときに、素の自分として、本当に二度とDVをしない自分に変化できているかが問われます。

 

 対面で会う機会が増えることは、とても嬉しいことです。だからこそ、一層気を引き締めて、DV加害更生プログラムでの学びを実践し続けていくことが必要なのだと感じています。

 

 DV加害更生プログラムに通い始めてから、それ以前の自分と比べて、幸せを感じられる機会が圧倒的に増えました。特に最近は、毎日本当にたくさんの幸せを感じることができています。ありがたい限りです。

 

 最近の取り組みで、特に効果があると感じているのは次の二つです。

 一つ目。日記に、感謝したいと感じた内容を三つ、「〇〇をありがとう」という形で記すこと。

 二つ目。寝るときに、《妻さん》と《娘さん》のことを想って、「今日もありがとう。幸せだなあ」と口にすること。

 

 この二つの取り組みは、DV加害更生プログラムでの学びを踏まえて、自分が日々の課題として設定し、実施することとしたものです。

 

 たったこれだけ?と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、これだけです。

 これらを毎日積み重ねていくことで、幸せを実感する機会が一層増えました。

 

 「〇〇をありがとう」と日記に記す事項を探しているうちに、日々の出来事の中で感謝したいことに意識を向けるようになりました。すると、自分の周りには、多くの「感謝したいこと」があふれていることに気が付きました。

 また、「幸せだなあ」と口にすることで、自分が実際に幸せを感じていることを心から味わえるようになりました。そうすると、そんな自分をいとおしく感じ、さらにそれが自分の幸福感を高めてくれます。

 この二つに取り組んでみて本当に良かったと思います。

 

 私が通うDV加害更生プログラムでは、まず、行動を変えることが大事だと学びます。そうすることで、自分の思考と価値観が変わっていくからです。

 

 「行動を変える」選択を実際にするかしないかは、本当に大きな違いがあります。

 いくら「感謝したいことを一日三つ日記に書く」ということを知識として学んだとしても、それを実行に移さなければ、実際に幸せを感じられることにはつながりません。

 

 グループで学ぶだけでなく、知識を身に付けるだけでなく、実際の自分の行動の変化につなげていくこと(そうすることで結果として思考と価値観を変化させていくこと)。それこそが、DV加害更生プログラムで学ぶことの本当に重要な意味だと私は考えています。

 

 《娘さん》が、試験の勉強をしています。

 このブログでも何度か書きましたが、私は《娘さん》が小さい頃、今でいう「教育虐待」をしていました(心理的虐待の一つだと考えています)。

 私は当時未就学児だった《娘さん》に、勉強を無理やり教えようとし、《娘さん》が正解に辿り着かないと不機嫌になったり、さらに追加で問題を解かせようとしたりしていました。

 

 《妻さん》から、「《娘さん》がしんどいんじゃない?」と疑問を呈されたこともありましたが、当時の私は、勉強を教えるのが親の役割と思い込んでおり、「親の役割を果たしているのだから、当然のことをしているまで。褒められることはあっても非難されるのは筋違いだ」と考えていました(そして意見を伝えてくれた《妻さん》のことも否定していました)。

 今の私は、当時の自分の行為が、《娘さん》の学びたいという意志や自分自身のペースで成長したいという想いを踏みにじるものだったと、反省しています。

 

 今、私は、《娘さん》に対して直接勉強を教えることはしていません。けれども、以前よりも、「《娘さん》の勉強を応援できている」と実感できています。

 

 なぜか。それは、《娘さん》が私に求めているものを理解できるようになってきたからです。

 《娘さん》は、私に勉強を教えてほしいわけではありません。基本は自分のペースで勉強を進められますし、分からないところは学校や習い事の先生に聞くことができるからです(加えて、「教育虐待」の影響で、私に勉強を教わるのが嫌だという感覚を持っているのかもしれません)。

 

 けれど、私は勉強を教えなくても、《娘さん》が勉強することを応援することができます。

 例えば、《娘さん》が喜ぶようなご飯を作ることで、勉強を応援できます。家庭内の雰囲気を安心・安全なものとすることで、《娘さん》がリラックスして勉強に集中できるようにすることも、大事な役割です(この中には、私が二度とDV・虐待をしないことも当然含まれます)。

 《娘さん》のリラックスタイムに付き合うことも、《娘さん》の応援につながっています(最近は、寝る前に一緒にトランプをすることが、《娘さん》にとって良い息抜きとなっているようです)。

 これらは全て、《娘さん》が私に求めているものです。

 

 《娘さん》の勉強を応援する。それは、《娘さん》のリクエストに誠実に答えるということなのだと感じています。

 少し前のことです。《娘さん》が、「朝は和食が食べたい」と言いました。

 朝が遅くなりがちなので、早起きの習慣を身に付けたい(朝六時には起きてご飯を食べたい)。ついては、今は朝にパンを食べているけれど、朝は和食を食べたい、とのことでした。

 私は、《娘さん》の早起きに協力したかったので、OKしました。

 

 ただし、《娘さん》が朝六時に和食を食べるとなると、それまでに準備をしなければなりません。私はもともと五時四十五分には起きていたのですが、さらに早起きをして、和食の朝ごはんを作る日々が始まりました。

 (ちなみに、ここでいう和食の朝ごはんとは、ごはん+味噌汁+焼き魚+小松菜のおひたしなどです。)

 

 最初の数日は、私が作った和食を喜んで食べてくれていました。しかし、数日経つと、「あまりおなかが空いていない」とのことで、残すことも出てきました。

 朝食として用意された和食を、冷蔵庫に入れておいて夕ご飯として食べる、ということもありました。

 

 《娘さん》が朝の早起きを始めてまだ間もありません。体調次第で食が進まないこともあるでしょう。また、和食の気分じゃないときもあるでしょう。

 「こういうときもあるよね」、「まあいいか」というようなスタンスで私はいます。

 

 ふと、以前のDV・虐待をしていたときの自分だったらどんな反応をしていたかを想像してみました。

 DV・虐待をしていたときの自分だったら、

「前に和食を食べたいって言ったでしょうが!」

「そんなんだったら、もう二度と作ってやらない!」

と怒鳴っていたと思います。

 

 表面上は、《娘さん》のためと言っておきながら、実は心の中は、「《娘さん》のために、わざわざ毎朝早起きして和食を作っている俺スゲー」という気持ちが優先していたと思います。あくまでも、《娘さん》のためではなく、自分の満足感を満たすための行動となっていたのでした。要は、自分本位だったということです。

 だからこそ、「私が作った朝食を完食しないという《娘さん》の行動は、俺スゲーという気持ちを傷つけた」という理由で、矢印を《娘さん》に向けて攻撃していただろうことが、容易に想像できるのです。

 

 《娘さん》に協力したいという想いからの行動なのか、それとも、自分の承認欲求を満たす手段としての行動なのか、その違いがとても大事だと感じています。

 

 私が通うDV加害更生プログラムでは、グループに参加した後に、自分が学んだ内容や日常生活で気づいたことを記録し、提出するプロセスがあります。

先日、プログラムの主宰者から、「提出される文章の内容や量が、参加者一人ひとりで全然違う」という事実を教えていただきました。自分とどれぐらい深く向き合って、気づきや振り返りを提出するかが重要ということだと理解しました。

 

 確かに、自分自身の過去の経験を振り返ってみても、自分の学びが進んでいると感じるときは、自分の中で「これを学んだ」という感覚を文章化する努力ができており、実際に提出する文章の記述量も増えていました。一方で、自分の学びが停滞していた時期や、自分の調子がよくなかった(と言い訳したい)ときは、おざなりな文章で提出していました。自分と深く向き合うことから逃げていた自分がいたのです。

 

ここで重要なポイントの一つが、(私が学んでいる)DV加害更生プログラムでは、「どれだけ自分と深く向き合えているかを評価しない」ということです。

(私が学んでいる)DV加害更生プログラムでは、参加者から提出される文章について、「この人は深く自分と向き合えています」というように、何らかのお墨付きを与えることはしません(まして、「この人はDVしない人に変化しました」などと証明することもありません)。

 

ただし、参加者が本当に自分と深く向き合っているのか、それとも、深く向き合っているポーズをしているだけで実際は向き合おうとしていないのか。それは、参加者本人なら分かるはずです。

自分がどれだけDV・虐待の加害行為と向き合おうとしているか、どれだけより良い関係を築ける自分に変わっていく営みを続ける努力をしているか、それは自分が一番知っています。

自分以外の誰かに、評価を委ねることはできません。自分の胸の中にしか、答えがないからです。

 

 自分は深く自分と向き合えているか。それを自分に問うた上で、気づきや振り返りを提出したいと思います。

 

 

《妻さん》と《娘さん》は、私のDV・虐待に耐えかねて、当時三人で住んでいた家から避難することになりました。

そのとき《妻さん》と《娘さん》は、必要最低限の荷物しかもっていきませんでした。なので、三人で住んでいた家には、数多くの《妻さん》と《娘さん》の持ち物が残されました。

その後、私も《妻さん》と《娘さん》のリクエストと許可を受けて、二人が新たに住む家の近くに引っ越すことになりました。

私が引っ越すにあたって、《妻さん》と《娘さん》の持ち物は、捨てませんでした。私が原因で家から避難することとなった《妻さん》と《娘さん》の持ち物を、私が(自分が引っ越すからという自分の事情で)勝手に捨てるのは間違っていると感じたからです(加えて、私が引っ越す際に、捨てないでほしいと二人から言われたこともあります)。

そういうこともあり、今私が住んでいる家には、《妻さん》と《娘さん》の持ち物がたくさんあります。

 

 先日、《妻さん》が、今私が住んでいる家に来てくれて、自身の持ち物を整理してくれる時間がありました。

 一時間ぐらいかけて、自分が今後も必要とするもの、不要なのでリサイクルに回すもの、ゴミとして捨てるものを、丁寧に分けていました。

 

 その数日後のことです。

「あれはしんどかった」と《妻さん》は私に言いました。持ち物整理の時間が、しんどかったとのことです。

 

「自分が大事にしていたもの。それを奪われて、もうなかったことにしようと思っていた。だけれど、今またこうやって目にすることになり、心がざわざわして、整理がつかない。」

という趣旨の発言をしてくれました。

 

 私は、《妻さん》の発言を聞いて心から共感するとともに、私が犯したDVを改めて本当に申し訳なく思いました。

 《妻さん》には、私のDVが原因であきらめざるを得なかったこと、選べなかったこと、捨ててしまったこと。そうしたものが、たくさんあります。それらをすべて「失った」上で、今の生活を始めたのです。それなのに、今回の持ち物整理が、過去に「失った」ものを思い出させるきっかけになり、それが「しんどさ」を感じさせる原因になったということなのだと思います。

 

 私は、《妻さん》が今感じている「しんどさ」に対して、自らの責任を感じます。自分のDVがなければ、《妻さん》は、こうした「しんどさ」を経験する必要がないからです。

 

 DV加害更生プログラムでは、DVが与えた影響を認めて共感を示すことが重要であると学びます。DVが与えた影響は、何年も何年も残ります。そのことを改めて認識するとともに、自分の加害に対する責任と共感の想いを、今後もずっと持ち続けたいと感じました。


 ブログで繰り返し書いてきているように、DV加害更生プログラムの目的は、「自分がDVを犯した責任を認め、DVを手放せるような自分に変化していくこと」です。「パートナーや子どもとの関係性を良くすること」ではありません。
 とはいえ、「関係性が二度と変わらない」、ということではありません。自分がDVを手放した人間へと変化していく中で、そのプロセスをパートナーや子どもが認めて、結果として、「関係性が良くなっていく」ことはあり得ます(もちろん、パートナーや子どもが望めば、という前提での話です)。


 ここで重要なポイントがあります。
 それは、パートナーや子どもと(DV加害をした)自分との関係性が、いつ、どのようなタイミングで変わっていく(改善していく)かは、「自分ではコントロールできない」ということです。
 DV加害をした側は、「関係改善を願う」ことはできますが、「関係改善を強制する」ことはできません(例えば、「オレはもうDV加害更生プログラムで学んだのだから、再同居させろ」などと主張する方がいるとしたら、それこそまさに、更なるDVを犯している(=DV加害更生プログラムでの学びが表面上のものとなっており、実践できていない)ことに他なりません。
 だからこそ、関係性の変化は、DV・虐待の被害を受けたパートナーと子どもが望んで、初めて生じるものです。


 だからこそ、関係性が変わっていく瞬間は、(DV加害をした)私たちの側にとっては「突然」というように感じられることがあります。
 例えば、私の場合、《妻さん》とは、離婚調停で離婚が決定し、《娘さん》との面会交流が始まってしばらくして、ひょんなことから「手紙の交換をする」という形で、交流が始まりました。
 それまでは、離婚調停では弁護士を介したやり取りのみで、直接言葉を交わすことはありませんでした。《娘さん》と私との面会交流の場面でもでも、DVを犯した私と《妻さん》が直接面会しなくて済むように、第三者機関を介していました。
 それが(私から見たら)突然、「手紙のやり取りをしましょう」ということになったのでした。

 そして、この、「突然」に上手く対応できるか。それが学びの真価が問われるときだと感じます。
 「突然」の出来事で慌ててしまい、以前のようにDVを繰り返してしまう。それでは、「DV加害更生プログラムで学び続けていても、結局変わらないのね」と愛想をつかされてしまいます。せっかくの関係性の改善に向けた機会が台無しになってしまいます。

 そうならないようにするには、いつでも、「突然」が起きても大丈夫なように、いつでもDVを手放している自分に変わっていくこと(根底から自分を変えていくこと)が必要不可欠だと私は思います。
 

日本にも(数は多くありませんが)DVの加害者プログラムが幾つかあります。その中で私は、あるDV加害更生プログラム(仮に「プログラムA」とします)で学び続けています。
 「なぜあなたは、幾つかあるプログラムの中で、現在通っているプログラムAを選んだのですか?」と尋ねられることがあったので、今回はこの点について書いていきます。


 正直に述べると、「当時、インターネットで検索して引っ掛かったプログラムのうち、条件に当てはまるのがプログラムAしかなかったから」というのが答えです。
 私がDV加害更生プログラムで学ぼうとしたきっかけは、《妻さん》と《娘さん》が家から避難した(出ていった)ことです(今から10年近く前のことです)。その日から、《妻さん》と《娘さん》とは一切連絡が取れなくなりました。そうした中で、自分のDV加害行為を自覚して、「これはマズい」と危機感を抱き、急いでインターネットで検索しました。

 幾つかあるプログラムのうち、私の家から通えそうなものは、片手で数えるぐらいしかありませんでした(注1)。そして、それぞれのウェブサイトをのぞいてみると、後に私が通うこととなるプログラムA以外では、「プログラム側とパートナーが、連絡を取れる参加者のみ受け入れ可」とされており、《妻さん》と連絡を取る手段がない(したがって、プログラム側とパートナーが連絡を取ることができない)私は、受け入れてもらえそうにありませんでした(注2)。
 
 積極的な理由でプログラムAを選択したというよりも、私にはプログラムA以外に選択肢がなかった、というのが実態です。


 このようなきっかけで、プログラムAに通い始めることとなりましたが、今の私は、プログラムAで学び続けられることを、とても有意義に感じていますし、感謝しています。

 プログラムAの魅力はたくさんありますが、その最大のものは、「一緒に学んでいる仲間」です。

 プログラムAには、一緒に、DV加害行為を認め、反省し、二度とDVをしないために取り組もうとする仲間がたくさんいます。仲間が更生に向けて懸命に取り組む様子をそばで見ていると、自分も頑張ろうと前向きな気持ちになれます。
 また、仲間からの言葉が、自分の変化のきっかけになることも数多くあります。自分ひとりでは気づけなかった多くの観点から、気づきを与えてくれます。
 しかも何より、プログラムに通う仲間は対等な関係です。年齢や社会的属性は様々ですが、「DV加害をしてしまった」という点で学びにきている私たちの関係性は、対等です(逆に、プログラムの参加者の中で上下関係を作ったり、相手を支配しようとしたりしたら、それこそ、DVを手放せていないことの証になってしまいます)。


 プログラムは、主宰者だけが運営するものではありません。プログラムで学ぶ参加者(仲間)とともにつくっていくものです。
 私は、(DV加害をしてしまったという過去は過去としてきちんと認めつつ、それを手放すために一緒に学び続けている)仲間と一緒に学べることを、ありがたく感じています。
 これからも、仲間と共に学び続けていきたいです。

(注1)今はオンラインでのプログラムも複数ありますが(プログラムAもオンライン)、コロナ禍前だった当時は、対面での開催がほとんどでした。
(注2)現在は仕組みが変わっているかもしれません(あくまで私が体験した当時のものです)。


 


 ある方に、私のDVを犯した事実と、その事実に気づいて以来ずっとDV加害更生プログラムで学び続けていること、《妻さん》と《娘さん》との関係が結果として以前よりも良いものに変化したことを伝えた際のことです。
「それは、クリエイティブ・イルネス(創造の病)ですね。神様は、それを乗り越えられる人にしか試練を与えません。あなたにとってDV加害の経験は、自分の人生をより意味あるものにするために必要な出来事だったのですね」

との言葉をいただきました。


 当初この言葉をいただいたときに、違和感がぬぐえませんでした。そもそも、DVは病気ではないので、「イルネス」(病)ではありません。
 それに何より、今までの私は、自らがこれまで過ごしてきた人生について、
「もしも、DV・虐待を犯さない人生があったとしたら、DV・虐待を犯してしまった(現実の)人生よりも望ましいに決まっている。」
と考えていました。

 実際、《妻さん》や《娘さん》の立場に立ったときに、万が一私が、
「DV・虐待を犯した人生も、犯さなかった人生と同じぐらい望ましい」
などと言ったら、私のDV・虐待がもたらした傷について無自覚だ、責任を放棄していると考え、失望すると思います(だから、「DV・虐待を犯した人生が望ましかった」とは今でも思いません)。


 ただし、私が自らのこれまでの人生の中で、DV・虐待を犯してきたという事実は変えられません。そうしたときに、私がDV・虐待を犯したという事実を、
「自分の人生をより意味あるものにするために必要な出来事だった」
と捉える視点は新鮮でした。

 私は、DVを自覚し、DV加害更生プログラムで学び続ける中で、今まで自分を形作ってきた思考や価値観を根本から見つめ直してきました。その中で、自分が「新たに創造される」ぐらいの大きな内面の変化があったように感じています。また、今の私は、DVをしていたときの自分よりも、今の自分の方が好きだと胸を張って言えるようになりました。
 そうした意味で、私のDV・虐待の加害経験が、結果として「自分の人生をより意味のあるものにする」ことにつながっているのも事実です。


 これからも様々な角度から、私のDV・虐待について、向き合っていきたいと思います。
 


 私がこれまで犯してきた様々なDVの中で、最もひどかったものの一つは、《妻さん》が大事にしていた「もの」を捨てたことです。
 《妻さん》が撮影した大事な写真を、「気に入らない」と言って捨てました。
 しかもよりひどいことに、自分自身で捨てるのではなく、《妻さん》に捨てさせました。

 《妻さん》は、自分が大事にしてきた「もの」を私に正面から否定されたばかりか、それを自らの手で捨てることを強いられました(私が強いました)。
 本当に申し訳ないことをしたと反省しています。


 今、私が住んでいる家には、《妻さん》と《娘さん》と同居していた時に使っていた「もの」が、数多く残っています。

 同居していたのは、今からもう何年も前のことです。
 なので、《妻さん》関係でいうと、当時《妻さん》が読んでいた(数年前の)雑誌や本、着ていた服があります。また、(今はだいぶ大きくなった)《娘さん》がまだ小さかった時に使っていた道具(哺乳瓶やおもちゃ)などもあります。

 私自身のものも含めると、結構な「もの」に溢れています。今私が住んでいる家のスペースに対して、「もの」が大量にあり、手狭だと感じることもあります。


 しかし私は、(自分自身の「もの」を捨てることはあっても、)《妻さん》や《娘さん》の「もの」は、もう捨てまい、と決意しています。
 DVをしていた当時の私は、《妻さん》が大事にしていた「もの」を、「価値がない」と自分勝手に判断し、捨てました(捨てさせました)。
 同じように、今回も私が、「これはきっと《妻さん》や《娘さん》も使わないだろう」との思い込みで、断りもなく捨てたら、それは、《妻さん》と《娘さん》の考えを尊重していないことになります(DVをしていた当時と変わりありません)。


 勝手に「もの」を捨てるということは、その「もの」を所有している人、大事にしている人をないがしろにする行為です。
 DVを犯したものとして、そして、DVを繰り返さないために学び続ける者として、もう二度と、勝手に「もの」を捨てることはしないと改めて決意します。