引っ越しをする前の話です。

 あるとき、隣に住む方から、

「朝、お宅が玄関を開け閉めするときに音が鳴るの。そうすると、その音で私は起きてしまうの。」

という趣旨のご指摘をいただきました。

 

 私は、申し訳ない気持ちになりました。私は毎朝、早い時間に出発します。静かに扉を開け閉めするという配慮が、まだ寝ている(かもしれない)隣人への配慮が、足りていなかったことを反省しました。

 

 思えば、住み始めた当時は、意識して気を付けていました。それがだんだん、朝早く出勤することがルーティンになるにつれて、音に対する感度が鈍ってしまった(自分が立てる音で他人に迷惑をかけるかもしれない可能性を意識しなくなってしまった)のです。

 

 全てのことは、DVとつながっています。

 自分で「これで大丈夫だろう」とか、「これぐらいなら許されるだろう」と考えていることが、取り返しのつかないことになる可能性があります。私は、ご指摘いただいた事項を深く反省し、それ以来毎日、静かに、丁寧に扉を開け閉めするようにしています。

 

 意識すれば、できます(少なくとも今までは、継続できています)。大事なのは、「意識し続けること」です。しばらくして繰り返すようでは、DVを繰り返していた自分と同じです。これから先も(引っ越し後の家でも)丁寧に扉を開け閉めする、生活の音に気を付ける、ということを意識していきたいと感じています。

 

 それともう一つ、改めて自分の弱点に気が付くことができました。

 実は私は、耳があまりよくありません(どちらかというと視覚の方が優位なタイプです)。

 なので、自分が「うるさい」と感じないことについて、周囲の方が「うるさい」と感じることも、数多くあると思います。

 けれど私は、自分の鈍感さの上に胡坐をかいて、

「自分が気にならないから、相手も気にならないだろう」

と高をくくっていました。

 

 だいぶ昔にこのブログでも紹介した、以下の少女漫画のセリフを思い出しました(もちろん、物語の中と私とでは、文脈は全く異なるのですが)。

 

 「鈍さに慣れるな!!」(椎名軽穂さん『君に届け』第9巻)

 

 改めて、肝に銘じたいです。

 引っ越しのために、荷物の整理をしていると、《妻さん》の筆跡で「●年●月」と書かれた封筒が、何十と見つかりました。中を確認すると、それぞれの封筒の中には、大量のレシートが詰まっています。

 私は、この大量のレシートをみて、自分の経済的DVを改めて思い返しました。当時専業主婦やパートだった《妻さん》に対して、私は毎月一定の金額しか渡しませんでした。そして、月の支出がその金額を超えると、

「何で金銭管理もできないのか!」「無駄遣いしているに違いない!」

と責めていました。

「どんなことに使ったのか報告できないとおかしい」

と言ったこともあります。

 そうした背景があったので、《妻さん》は、私から責められないよう、レシートを保存するようになったのだと思います。

 

 Ⅰで触れたレシートのように、私が今住んでいる家には、私が犯したDVを想起させるものがたくさん眠っています。

 

 例えば、

・《妻さん》が昔通っていた学校の教材(私は学校を無理やり辞めさせるというDVをしました)

・《娘さん》の習い事の道具(私のDV・虐待が原因で《妻さん》と《娘さん》は家から避難することになったので、《娘さん》はある日突然、習い事に通えなくなることとなりました)

 

・・・などなど、挙げればきりがありません。

 

 引っ越しに当たって、《妻さん》私で一緒に荷物の整理をしているのですが、時々《妻さん》の手が止まることがあります。

 《妻さん》が、

「あなたにとっては、単にモノを処分するだけかもしれない。けれど私にとっては、DVの記憶をよみがえらせるものになっている。だからしんどい。」

という言葉を伝えてくれたこともあります。

 

 私のDV・虐待は、「過去のもの」ではありません。その影響は、今もなお、《妻さん》と《娘さん》に残っているのです。

 再同居の機会をいただいたからと言って、その影響の大きさを決して忘れてはならない。今日またここで、その想いを新たにします。

 

 引き続き、再同居に向けた話題です。

 引っ越しの予定が、当初の予定よりも延びています。厳密にいうと、私が住んでいた家の荷物は引っ越しを済ませたのですが、《妻さん》と《娘さん》が住んでいる家の荷物の引っ越しが、まだ済んでいないという状態です。《妻さん》がいうには、「引っ越しの準備で気持ちが焦るのが嫌だから、一か月ぐらい延期したい」とのことでした。

 

 以前の私だったらどう対応していたかを想像してみます。きっと、「予定していた期日までに引っ越しの準備を済ませるのが当然だ。それなのに、準備ができていないなんて段取りが悪すぎる」と責めていた(精神的DVをしていた)と思います。

 

 今の私は、「そういうこともあるよ」という気持ちで、《妻さん》の考えを尊重しています。もう二度とDVを繰り返したくないと思いますし、そもそも、《妻さん》が希望するタイミングで引っ越すのが最善だと感じているからです。

 焦って引っ越すこととなり、《妻さん》がネガティブな想いを抱いたまま新しい場所で生活せざるを得なくなるのは、私も望みません。新しい生活のスタートが、《妻さん》にとっても幸せなものであったらいいなと心から想っています。

 

 もう一つ、思い出したことがあります。それは、引っ越しにまつわるDVです。

 私は、《娘さん》がとても小さかったころ、《妻さん》が望んでいないのにもかかわらず、無理やり引っ越しをさせたことがあります。

 《妻さん》は、せっかく《娘さん》が生まれて近所の方々とも交流もできるようになってきたのに、新しい場所に引っ越さなければならないのは嫌だと、泣きながら自分の気持ちを伝えてくれました。

 しかし、当時の私は、《妻さん》の気持ちを全く無視して、「今の家は家賃が高いから。新しい家の方が半分以下の家賃になるから。」と言って、有無を言わさず引っ越しを強行しました。《妻さん》が大事にする近所の方とのつながりよりも、経済的理由を優先したのです。

 引っ越しが終わった後、《妻さん》はふさぎがちになりました(それが引っ越しを強行するというDVも理由の一つだったということに、当時の自分は気づいていませんでした)。

 

 今回は、《妻さん》と《娘さん》が希望して(もちろん私も希望して)、実現する引っ越しです。この先再び引っ越しを行う機会がもしあれば、引き続き、《妻さん》と《娘さん》の気持ちに耳を傾けられる自分でありたい、と思います。

 再同居に向けて、《妻さん》と《娘さん》と一緒に、引っ越し先の候補となる物件をインターネットで探していたときのことです。

 《妻さん》から、「こんな家に住みたい」との声が上がりました。

 

 物件の詳細を見てみると、確かに三人で住むには十分なスペースがあります。最寄り駅からの利便性も抜群です。良さそうな物件だと私も思いました。

 

 しかし、表示された家賃を見て、私はびっくりしました。自分が今住んでいる家賃の二倍近くなる物件だったからです。

 

 《妻さん》は、家賃の高さに驚いている私を見て、

「大丈夫だよ。私も半分負担するし、今だけだから」

と言いました。そして、「《娘さん》が大きくなって独り立ちしたら、もっと狭くて安い部屋に引っ越せばいい。今は、家賃でお金をかけても、アクセスが良く、広々としたスペースのところで生活したい。」という趣旨のことを伝えてくれました。

 

 私は、《妻さん》の発言を聞いて、二つのことを頭に思い浮かべました。

 

 一つは、自分にはなかった発想を《妻さん》は持っている、ということのありがたさです。

私は、多少不便でも家賃が安い方が良いに決まっていると思い込んでいました。しかし、《娘さん》が成長して一人暮らしをするまでの時間は、長いように見えて短いです。だから、それまでの時間を、(多少値段が張ったとしても)利便性の良い場所で暮らしたいという《妻さん》の意見は、私にとって、言われてみればなるほどその通り、というものでした。

 「時間や便利さをお金で買う」という発想は、今までの私には抜けていた視点だったので、学びになりました。

 

 もう一つ、「自分が家賃を全部負担する」と思い込んでいたことにも気づかされました。

 私はDVをしていたとき、《妻さん》に対して経済的DVをしていました。無駄遣いがあると言って怒ったり、家計管理もできないのかと責めたりしていたのです。そうした過去があるので、今の私は、経済的DVを繰り返さないように意識しています。そうした流れの中で、「自分が家賃を全部負担するものだ」と思い込んでいました。

 しかし、《妻さん》が、自分の働いている分から家賃を負担したいと思っていることを知って、それが自分だけの思い込みであることに気づきました。

 これから住む場所は、《妻さん》と《娘さん》と私が暮らす場所です。その家賃を《妻さん》が自分も負担したいと考えるのは、自然なことです。

 そうした《妻さん》の想いを無視して、私が一方的に「自分で家賃を全部負担する」のは、かえって(違った形の)経済的支配に繋がりかねません。

 《妻さん》の想いを尊重したいと改めて感じました。

 ありがたいことに、《妻さん》と《娘さん》と再び同居する方向で話が進んでいます。

 DV・虐待をされた《妻さん》と《娘さん》が、DV・虐待をした相手(=私)との再同居を決断するのは、とても勇気がいることだったと想像します。そうした機会をいただけることに、心から感謝します。

 再同居に至ることができたのは、私自身の努力という側面もあるかもしれませんが、決してそれだけではありません。むしろ、(《妻さん》と《娘さん》はt峰全のこととして、それに加え)周囲の様々な皆さんに支えていただいたおかげだと実感しています。

 

 例えば、DV加害更生プログラムのファシリテーターや共に学ぶ仲間のおかげです。私が自らのDV・虐待を自覚し、それを手放してより良い人間に変わっていく学びを続けられたのは、プログラムに関わる皆さんのおかげです。

 職場の同僚も同様です。プログラムの受講を後押ししてくれたり、親身になって相談にのってくれたりしました。

 友人もそうです。私の心が沈んでいた時、友人は私のリクエストに応えて、一緒に海に沈む夕陽を見るのに付き合ってくれました。

 皆さんのおかげで今の自分がある。そう思います。

 

 他方で、とても身が引き締まる思いも感じています。

 今までは、頻繁に会う機会はありましたが、状態としては別居でした。つまり、(するつもりは全くないですが)万が一、私がDV・虐待をしてしまった場合、「別居した状態を継続する(そして会わない)」という選択肢を、《妻さん》や《娘さん》は選ぶことが可能でした。

 しかし、再び同居することとなった後は違ってきます。(するつもりは全くないですが)万が一、私がDV・虐待をしてしまった場合、《妻さん》と《娘さん》は、「再び同居を解消し、再度別居した状態に変える(そして会わない)」ということになるだろうからです。

 私がDV・虐待を犯した場合に、《妻さん》や《娘さん》に掛かる負担やダメージが一層大きくなります。

 

 再び同居することを認めてくれたのは、《妻さん》と《娘さん》が私を(ある程度)信頼してくれたからです。私には、その信頼に応える責任があります。

 だからこそ、これからの人生で二度とDV・虐待を犯さないという決意を新たにし、いつでもそうした選択をし続けられるような自分であるよう、学び続けていきたいと思います。

 自分がDV加害更生プログラムで学び続ける中で、自分のDV・虐待に関して言語化できるようになるときがあります。

 最初は、言語化するのは難しいです(私は難しかったです)。自分の犯したDV・虐待を矮小化したくなりますし、仮に加害行為を認めたとしても、その背後にある自分の思考や価値観を省みるには、時間が掛かるからです。

 しかし、DV加害更生プログラムで学びを続けていく中で、ある時、言語化ができるようになる場合があります。

 「自分がどのようなDV・虐待の加害行為を行ったのか。自分が有していたどのような思考や価値観から、そうした加害行為を行うに至ったのか。自分のそのときの気持ちはどんなだったか。」といったことだけでなく、「被害を受けたパートナーや子どもはどんな気持ちだったと想像しているか。二度とDV・虐待をしないために自分はどうした取り組みを行うつもりか。」まで、自分の口で語れるようになる場合があります。

 

 ただし、ここで注意しなければならないことがあります。それは、「自分のDV・虐待の加害行為について言語化できるようになるということと、それを実際にパートナーや子どもに伝えることとは別」ということです。

 

 かくいう私も、「伝えたい」という気持ちになったことがあります。

 例えば、自分自身を省みる中で、自分がDV・虐待を犯した背後にある思考や価値観を言葉化できるようになるとします。

 すると、「こういう思考や価値観があったから、自分はDV・虐待を選択したんです」と(パートナーや子どもを含む)周囲の人に説明したいという気持ちになるのです。

 

 しかしこれは、危険です。

 (もちろんパートナーや子どもの中には、「加害をした側がどんな思考や価値観でDV・虐待を犯したのか」を知りたい方もいるかもしれません。しかし、パートナーや子どもは、)自らが被ったDV・虐待について、自分の中で心の整理がついていないかもしれません。「加害をした側の考えなんて、(まだ)聞きたくない」と思っているかもしれません。

 そういった状況であるにも関わらず、自分が「伝えたい」という気持ちを優先してしまったら、自分が「伝える」ことで、相手をさらに傷つけることになりかねません。「伝える」ことが更なるDV・虐待になってしまいます。

 

 あくまでも、パートナーや子どもが「聞きたい」というときに初めて、「伝える」ものだと思います。

 

 世の中では、多くの場面において、生成AIの活用が進んでいます。

 ただし、(今後どうなるかは分かりませんが)少なくとも現在、私が学んでいるDV加害更生プログラムでは、グループの活動において、生成AIを活用していません。

 理論上は、DV加害更生に関する膨大な書籍を読み込ませて、教材を作成することもできるでしょう。過去のDV加害更生プログラムにおけるファシリテーターの発言をデータとして用いて、ファシリテーターのアバターを作成し、そのアバターがファシリテーター役を担うことだってできるかもしれません。

 しかし、そうしたことは、現在行われていません。ではなぜ、プログラムで生成AIが活用されていないのか、それを考えてみました。

 

 一つ目は、(私を含む)DV加害更生プログラム参加者が、「生身の人間としてのパートナーや子どもを傷つけてきたから」というものです。

 私は、《妻さん》や《娘さん》に、身体的DV・虐待をしてきました。それは抽象的な概念としてのDV・虐待ではなく、「今まさにそこに居る」《妻さん》と《娘さん》を実際に傷つけた行為としてのDV・虐待でした。

 これは、直接身体的な接触を伴わない精神的DV・心理的虐待でも同じです。私の怒鳴り声や乱暴な態度は、「今まさにそこにある」《妻さん》と《娘さん》の心をずたずたにした行為でした。

 DV加害更生プログラムで学ぶのは、DVについての知識だけではありません。DVが与えた心と身体への影響も学びます。そしてそれを本当の意味で学ぶためには、生身の人間であることが必要です。

 今まさにそこに存在する、生身の人間としてのファシリテーターや仲間。そうした方と共に学ぶからこそ、自分のDV・虐待がパートナーや子どもに対して与える影響を、共感を持って理解しようとできるのだと思います。

 

 もう一つは、それと関連しますが、DV加害更生プログラム参加者同士、あるいは参加者とファシリテーターとの間に、「人と人との関わり」が存在しているということです。

 例えば、DV加害更生プログラムに参加しているのにも関わらずDV・虐待を繰り返してしまった方(Aさんとします)がいるとします。

 すると、他の参加者やファシリテーターは、そうした事実に直面して悲しむでしょう。なぜなら、Aさんと他の参加者やファシリテーターとの間には、ともに学ぶ仲間としての関係性が、成り立っているからです。

 

 プログラムでの学びの中で、DV・虐待を繰り返さない理由を問われた際に、参加者の中には、「仲間を裏切れない」ことを理由に挙げる方もいます。

 「DV・虐待を手放すためにともに学んでいるにもかかわらず、自分がDV・虐待を繰り返してしまうならば、それは、共に学んでいる仲間への裏切りとなる。自分は仲間を裏切ることはできない。だから、DV・虐待を繰り返さないようにしている。」ということなのだと思います。

 

 「人と人との関わり」の存在の上に、DV加害更生プログラムが成り立っています。だからこそ、生身の人間であることが、本質的に重要になっているのだと思います。

 

 これから先、生成AIとどう向き合っていくことになるのかは分かりません。しかし私は、人と人とのつながりを大事にしていけたらいいなと考えています。

 

 DV加害更生プログラム参加者の中には、プログラムでの学びを続けていく過程で、パートナーとの関係性が変わっていく場合があります。

 例えば、それまでは別居しており対面で会うことは皆無だったけれど、何らかの事情により、対面で会っていただける機会が増える(あるいは、半分同居のような状態になる)というケースです(私の場合もそうでした)。

 

 「対面で会う機会が増える」ときに、注意しなければならないことがいくつかあると(過去の自分自身を省みて)感じています。

 

 一つ目は、「対面で会う機会が増える」ことと、「パートナーが自分のDV加害更生に関する自分の変化を認めてくれるようになる」ことは、必ずしもイコールでないということです。

 結果的に「対面で会う機会が増え」たとしても、その理由は様々です。DV加害をした側が、「対面で会えるようになったから、自分の変化を認めてくれた」と思い込んで、軽はずみな行動をしてしまうと、パートナーの心身を一層傷つけることになりかねません。

 

 二つ目は、これと関連しますが、「対面で会う機会が増える」ことと、「DV加害行為が許される」ことは全くの別物だということです。

 対面で会う/会わないは、パートナー側が何らかの必要性に迫られて、ということも少なくありません。必ずしも、パートナーが「DV加害行為を許した」から対面で会えるようになったとは限りません。それなのに、会っていただく機会が増えたことで、「もう自分は許されている」と勘違いした行動をとると、それがさらなるDVとなっていく恐れがあります。

 

 三つ目は、二度とDVをしない覚悟を持ち、実際に遂行するということです。

 (別居を経て)初めて再び対面でパートナーと会ったときには、もう二度とDVを繰り返さないようにと細心の注意を払うでしょう。「対面で会う」ことが、自分にとって極めて特別な出来事となるからです。

 真価が問われるのは、その先です。対面で会う機会が増えるにつれて、一つ一つの「対面で会う」ことが、「日常」に近くなってきます。いわば、「素の自分」が試されるようになるということです。

 そうしたときに、素の自分として、本当に二度とDVをしない自分に変化できているかが問われます。

 

 対面で会う機会が増えることは、とても嬉しいことです。だからこそ、一層気を引き締めて、DV加害更生プログラムでの学びを実践し続けていくことが必要なのだと感じています。

 

 DV加害更生プログラムに通い始めてから、それ以前の自分と比べて、幸せを感じられる機会が圧倒的に増えました。特に最近は、毎日本当にたくさんの幸せを感じることができています。ありがたい限りです。

 

 最近の取り組みで、特に効果があると感じているのは次の二つです。

 一つ目。日記に、感謝したいと感じた内容を三つ、「〇〇をありがとう」という形で記すこと。

 二つ目。寝るときに、《妻さん》と《娘さん》のことを想って、「今日もありがとう。幸せだなあ」と口にすること。

 

 この二つの取り組みは、DV加害更生プログラムでの学びを踏まえて、自分が日々の課題として設定し、実施することとしたものです。

 

 たったこれだけ?と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、これだけです。

 これらを毎日積み重ねていくことで、幸せを実感する機会が一層増えました。

 

 「〇〇をありがとう」と日記に記す事項を探しているうちに、日々の出来事の中で感謝したいことに意識を向けるようになりました。すると、自分の周りには、多くの「感謝したいこと」があふれていることに気が付きました。

 また、「幸せだなあ」と口にすることで、自分が実際に幸せを感じていることを心から味わえるようになりました。そうすると、そんな自分をいとおしく感じ、さらにそれが自分の幸福感を高めてくれます。

 この二つに取り組んでみて本当に良かったと思います。

 

 私が通うDV加害更生プログラムでは、まず、行動を変えることが大事だと学びます。そうすることで、自分の思考と価値観が変わっていくからです。

 

 「行動を変える」選択を実際にするかしないかは、本当に大きな違いがあります。

 いくら「感謝したいことを一日三つ日記に書く」ということを知識として学んだとしても、それを実行に移さなければ、実際に幸せを感じられることにはつながりません。

 

 グループで学ぶだけでなく、知識を身に付けるだけでなく、実際の自分の行動の変化につなげていくこと(そうすることで結果として思考と価値観を変化させていくこと)。それこそが、DV加害更生プログラムで学ぶことの本当に重要な意味だと私は考えています。

 

 《娘さん》が、試験の勉強をしています。

 このブログでも何度か書きましたが、私は《娘さん》が小さい頃、今でいう「教育虐待」をしていました(心理的虐待の一つだと考えています)。

 私は当時未就学児だった《娘さん》に、勉強を無理やり教えようとし、《娘さん》が正解に辿り着かないと不機嫌になったり、さらに追加で問題を解かせようとしたりしていました。

 

 《妻さん》から、「《娘さん》がしんどいんじゃない?」と疑問を呈されたこともありましたが、当時の私は、勉強を教えるのが親の役割と思い込んでおり、「親の役割を果たしているのだから、当然のことをしているまで。褒められることはあっても非難されるのは筋違いだ」と考えていました(そして意見を伝えてくれた《妻さん》のことも否定していました)。

 今の私は、当時の自分の行為が、《娘さん》の学びたいという意志や自分自身のペースで成長したいという想いを踏みにじるものだったと、反省しています。

 

 今、私は、《娘さん》に対して直接勉強を教えることはしていません。けれども、以前よりも、「《娘さん》の勉強を応援できている」と実感できています。

 

 なぜか。それは、《娘さん》が私に求めているものを理解できるようになってきたからです。

 《娘さん》は、私に勉強を教えてほしいわけではありません。基本は自分のペースで勉強を進められますし、分からないところは学校や習い事の先生に聞くことができるからです(加えて、「教育虐待」の影響で、私に勉強を教わるのが嫌だという感覚を持っているのかもしれません)。

 

 けれど、私は勉強を教えなくても、《娘さん》が勉強することを応援することができます。

 例えば、《娘さん》が喜ぶようなご飯を作ることで、勉強を応援できます。家庭内の雰囲気を安心・安全なものとすることで、《娘さん》がリラックスして勉強に集中できるようにすることも、大事な役割です(この中には、私が二度とDV・虐待をしないことも当然含まれます)。

 《娘さん》のリラックスタイムに付き合うことも、《娘さん》の応援につながっています(最近は、寝る前に一緒にトランプをすることが、《娘さん》にとって良い息抜きとなっているようです)。

 これらは全て、《娘さん》が私に求めているものです。

 

 《娘さん》の勉強を応援する。それは、《娘さん》のリクエストに誠実に答えるということなのだと感じています。