私は、職場の親しい同僚や上司に対し、自分がDV加害当事者であり、DV加害更生プログラムに通っているという事実を伝えています。伝えるに当たっては、ためらいもありました。「実はDV加害当事者で、DV加害更生プログラムに通っています」と打ち明けるのが、心理的にハードルが高かったからです(もちろん、DV加害をした私が全面的に悪いのですが)。

 私が打ち明けた当時(数年前)は今よりも、DV加害更生プログラムの存在も知られていませんでした。そのため、私がDVについて打ち明けたところ、

「お寺に行ってお祓いしてくる?良いお寺を紹介するよ」

と(善意で)返されたこともありました。きっとその方も、何か悪気があったわけではなく、その人なりに一生懸命考えて「アドバイス」してくれたのだと(今は)思います。

 

 立場を変えてみて、今度は自分自身が同僚や部下から「パートナーにDVをしてしまっています」と言われたらどう対応すればいいだろうか、を考えてみます。

 

 きっとまずは、「ただ話を聴く」ことが大事なんだろうと思います。

 「DVをしている」という打ち明け話をしてくれている時点で、自らの行為が「悪かった」ということを認めているからです。だから、それに畳みかけるように「あなたの行為は間違っている」などとジャッジしたところで、状況は変わりません。それよりはまずは、打ち明けてくれる同僚・部下が、何をどう考えているのか、評価を下さずに話を聴くことが大事なのだと感じます。

 

 その上で、アドバイスを求められたならどうするか。今の私なら、(仮に同僚や部下がDV加害更生プログラムに繋がっていないのだとしたら)やはり、DV加害更生プログラムに通うことを勧めます。

 「DVをしてしまった」と認めるということと、「DVをしなくなる」との間には、大きな壁があるからです。

 「反省は一人でもできるけれど、更生は一人ではできない。」という言葉があります。打ち明けてくれた同僚・部下はきっと、打ち明けてくれた時点で、「反省」はしているのでしょう。ただし、それが「更生」に繋がっているかは分かりません。

 そして、(同僚・部下の)パートナーやこどもにとっては、その人が反省しているかどうかよりも、本当の意味で更生しているか(二度とDVをしないような人間に変わっていけるか)の方が、重要だからです。

 前回に引き続き、昔の日記を読み直していて感じたことを書きます。今回は、離婚調停の時期の日記です。

 当時の私は、離婚調停の際に提出する書類や、調停委員さんに伝えたい内容をまとめた文書の草稿を日記に記していました。その内容を読み返した感想です。

「自分が前面に出過ぎている。」

 

 私は、離婚調停で伝えたい内容として、

 「自分はDVをして本当に申し訳なく想っている。心の底から更生したいと思っている。そのために、DV加害更生プログラムに通っている。プログラムでも学んでいるように、離婚する/しないの決定は《妻さん》次第だということは理解している。けれども、もし可能なら、婚姻関係を続けたままやり直せたらありがたい。」

といった内容を、沢山記していました。

 今読み返してみると、とても「グイグイくる」感じがしました。当時の(DVを受けて傷ついている)《妻さん》からしたら、怖い感じ、不信感が募る感じがしたように思います。

 

 なぜこうした内容の文書になったのか。それは、当時の自分が、「自分中心だった」からだと思います。

 当時の(学びの途中にあった)私は、「婚姻関係を継続する」ことを重視していました。プログラムの目的は、「自分が変わる」ことですが、当時の私は、「変わりつつある自分を見てほしい。できればそれを認めて婚姻関係を継続してほしい。」というように、プログラムで学ぶことをアピールとして使っていました(少なくとも、そういう側面がありました)。

 だから、例えば、離婚調停を提起した《妻さん》がどれだけ不安な気持ちで臨んでいるかとか、家から避難した《妻さん》と《娘さん》が、避難先の施設でどれだけ心細い日々を過ごしているか、といった点に想像力を働かせることができていませんでした。

 一言で言うと、自分中心で、周りが見えていなかった、ということです。

 

 DV加害更生プログラムでの学びを通じて、少しずつ私は、自分以外の視点を獲得できるようになってきました(今でも不十分な点はありますが、前よりはだいぶ増えてきました)。当時の自分に対し、今の私から、「今すぐ、自分中心を手放そう」と伝えたいです。

 《妻さん》と《娘さん》が家から避難して以降、私は日記を書いています。今回、ふたりが家から避難してすぐの頃に書いた日記を読み返す機会がありました。

 

 読み返してまず感じたのは、「迷っているなあ」ということです。

 プログラムに藁をも掴む思いで通い始めたのですが、一方で、「本当にプログラムでの学びを通して自分は変われるだろうか」という不安が繰り返し書かれていました。

 今振り返ってみると、「変われるか変わらないか」は自分次第なので、自分が強い決意を持っていれば、不安を覚えることはないはずです。ただ、当時の私は、(変わっていこうとする)自分自身を信じ切れていなかったので、それが不安として現れていたのだと思います。

 

 また、「変われるとして、本当に《妻さん》や《娘さん》とよい関係が築けるだろうか」という悩みも書かれていました。その後、プログラムで学んでいく中で、「よい関係を築けるかどうか」は、自分自身が変わるかどうかとは別の話であり、自分がコントロールできない部分もある(悩んでも仕方がない)ことを理解しました。ただし、日記を書いていた当時の自分は、そのことを十分に理解しきれていなかったので、「よい関係が築けるか」どうかという点で、とても深く悩んでいました。

 

 一方で、日記を書いていた当時の自分(DV加害更生プログラムに通い始めたばかりの自分)が、「何か」を掴もうと一生懸命学んでいたことも、再認識できました。

 プログラムでの学習内容を復習するために、日記の中でまとめ直したり、古今東西の本を読んで自分に引き付けて感想を書いたりしていました。毎日沢山の日記を記し、自分自身と向き合っていました。

 「人生で一番学んだのはいつか?」と問われたら、多分、この頃(DV加害更生プログラムに通い始めたばかりの頃)だったと思います。

 (《妻さん》や《娘さん》と一緒にいさせていただいている今も、もちろん学び続けています。ただしそれは、「学んでいる」というよりも、「学んだ内容をどのように実践するか」という点に重心が置かれています。自分に向き合って「学ぶ」という営みを一番純粋に行っていたのは、この時期でした。)

 

 昔の日記を読んで、私は、今の私ももっと頑張っていきたい、と前向きな気持ちになれました。DVをしてしまったという事実も消せない過去ですが、「学びを積み重ねてこられた」という事実も、私の過去の一部になっているからです(もちろん、奢ってはいけません。逆戻りは一瞬ですから)。

 これからも、学ぶこと、学びを日常生活の中でいかしていくことを、前向きに続けていきたいです。

 《娘さん》は、《妻さん》や私との関係だけでなく、本当に様々な人との関わりを持っています。

 学校の仲間だけではありません。習い事Aの先生のことを信頼しているようですし、習い事Bでは近い年齢の友達と良く話すそうです。習い事Cは逆に異年齢の子と関わる機会が多くて楽しいようで、習い事Dは、同年齢の子と学びあうのが楽しいようです(様々な習い事をしているのは、私の目から見ると大変かな、と思うのですが、全て本人が強く希望しているので、それを尊重しています)。

 

 《娘さん》と話をすると、学校やそれぞれの習い事の話題が良く出てきます。《娘さん》が、それぞれの場所で「つながり」を作って、心地よい関係性を彼女なりに築けているのだということを認識しています。

 

 同様のことは、《妻さん》についても言えます。私や《娘さん》との関わりだけでなく、今の職場の人との関係、以前の職場の人との関係、習い事先の人との関係など、様々な「つながり」を作って、それを大事にしています。

 

 こうした「つながり」を認識して改めて思うのは、私が犯してきた精神的DVの一つである、「孤立させる」というDVです。

 私は以前、《妻さん》や《娘さん》が家族以外の人と関わるのを嫌がりました。そして例えば、《妻さん》に、「家事もしっかりできていないのに他の人と遊びに行くなんて順序が違っている」というように伝え(脅し)、他の人との「つながり」を断絶させようとしていました。そうすることで、「私自身の思い通りに行動してくれるようになる」という動機があったからです(精神的DV)。

 

 《妻さん》や《娘さん》は、(元々同居していた)家から避難することで、これまでの(元々同居していた場所で築いてきた)「つながり」が文字通り断ち切られてしまいました(断ち切ったのは、DV加害をした私です)。

 

 だからこそ、今、《妻さん》や《娘さん》が新しい地で、様々な人との温かい「つながり」を築いていけていることを、私は(申し訳なさとともに)、本当にありがたいなあと思って眺めています。

 

 その上で、二度と「孤立させるという精神的DV」を私が犯さないようにするために、私はどう行動したらよいでしょうか。

 もちろん、自分の「孤立させるという精神的DV」を反省することが大事ですが、それだけでは十分ではありません。

 なぜか。

 それは、反省するだけでは、私の中にある「家族依存」は脱却できないからです。

 私自身が「孤立させるという精神的DV」をしていた背景には、「自分が孤立するかもしれないというおそれ」がありました。だから、「絶対に孤立しない」ように、「自分が家族に依存し、家族を自分に依存させよう」としていました。

 こうした価値観を手放していかない限り、どんなに表面的に反省したとしても、「孤立させるという精神的DV」を本能的に繰り返してしまうおそれがあります。

 

 そうならないために、どうするか。私は、「私自身が、様々な人とのつながりを築いていくこと」が重要だと感じています。

 例えば、職場の同僚・元同僚との関わり。加害更生プログラムのグループの仲間との関わり。近隣住民との関わり。同級生との関わり。(このブログを読んでくださっている方との関わりもそうです)。。。

 私には、数多くの「関わり」があります。こうした「関わり」を一層大切にして、関係性を育んでいくことで、私も(《娘さん》や《妻さん》ができているように)様々な「つながり」を築いていけるようになると思います。

 

 そうなれば、自ずから、自分の家族依存も脱却することができ、その先に、「孤立させるという精神的DV」を手放すことができると思います。

 

 みんなの、様々なつながりを、大切にしていきたいです。

 最近、DV加害更生プログラムで学んでいる中で、自分の中に、大きな手応えを得られたものがありました。それは、「自分の中にある複数の自分たち」という概念を手に入れられたことです。

 

 今まで、例えば怒りを表現したり、美しい景色を見て感動したりするときに、私は、「まるで別人格のようになる」と感じる時がありました。「怒る自分も感動する自分も含め、どんな自分も自分自身だ」という形で認識していましたが、そこでいう「私」は、「単一のもの」という認識でした。

 「単一のもの」という意識だとどうなるか。

 

 例えば、私が「怒る」とき、私は100%で怒ってしまっていました。

 つまり、「怒りだけではない別の気持ち(例:悲しみ)も持っている別の自分がいる」という考え方や、「私の中に、「怒り」とは別の方法で気持ちを表現しようとする(例:冷静な気持ちで議論しようとする)別の自分がいる」という考え方を持つことができませんでした。

 そのため、ひとたび自分の中で、「怒り」が作動すると、「怒る自分」だけが自分にとっての全てになってしまい、他の自分(それ以外の自分)として振る舞うことができなくなりました。ひどい場合には、自分の中で「怒り」をどんどん自己増殖させていき、150%、200%となった「怒り」を他人にぶつけていました。

 

 プログラムでの学びにおいて、自分の中に、同時に「複数の自分」が存在するという概念を身に付けられました。

 そうすることで、どんな良いことがあったか。

 

 例えば、「怒っている自分」が存在するときも、「怒っている自分」だけが100%なのではなく、「悲しんでいる自分」や「傷ついた自分」、「相手の事情を理解しようとしている自分」など、様々な「(複数形の)自分」がいて、その総計が100%になっているのだと気づくことができました。そうなったことで、「怒る自分」がいたときも、それをすぐに100%表現するのではなく、「自分の中にある複数の自分たち」が話しあった上で、自分の行動を選択できるようになりつつあります。

 

 この気づきは、私にとって大きなものとなりました。

 今までは、「ゼロか100か」「白か黒か」で判断する癖がありました(それは、相手だけでなく、自分自身に対してもです)。その癖に気づけるようになったことで、自分自身が同時に複数の気持ちを持つのは自然であること、自分自身の中で「複数の自分たち」が対話をして行動を選ぶのが重要であることを、日々の実践の中で認識できるようになりつつあります。

 「自分の中にある複数の自分たち」という概念、とてもおススメです。

 こどもへの性暴力を防ぐための取組として、日本版DBSという仕組みが作られることになりました。英国の仕組みをまねしたもので、ざっくり述べると、性犯罪歴のある者が、こどもに関わる職業に付けないようにする仕組みです。議論の過程で、「性犯罪した者の更生の在り方」についても焦点が当たっていました。ギャンブル依存症で他人のお金を盗んだという事例もありましたが、最近、「加害」やその「更生」について、注目を集める事例が多いように感じます。

 

 私は、DV加害行為を犯し(虐待も犯し)、DV加害更生プログラムに通っています。しかし、「加害」をしてそれを「更生する」営みが重要となってくるのは、DVや虐待にとどまりません。性犯罪や性犯罪以外の他者に危害を加える犯罪もそうですし、いじめなども同様です(より幅広く捉えると、ギャンブル依存、薬物依存なども同様かもしれません)。

 

 自分が「加害」したことを自覚した場合の対応は、大きく二つに分かれます。一つは、加害を認めること、もう一つは、加害行為を「なかったことにする」ことです。

 加害を認めることは、自らのアイデンティティの一部として、「加害」を位置付けることとつながります。自分自身の過去(歴史)の中に「加害」の事実を認め、それを更生していくこと。そして、そうした一連の営みも、自分自身を構成する大切な要素の一つとして受け入れていくこと。それが、加害を認めることです。つまりここでは、アイデンティティの揺らぎが生じます。

 

 これに対して、加害行為を「なかったことにする」ことは、当該行為を、自分のアイデンティティとは切り離して理解することなります。そうした行為を、「たまたま生じたもの」、「相手に原因がある」などという形で捉えるので、これまで自分が有していたアイデンティティが修正されることはありません。

 

 DV・虐待に限らず、あらゆる分野において、「加害」を認めることは、苦しいことだと思います(私も苦しみを覚えていました(一方で、更生することに充実感も覚えていましたが))。

 なぜなら、自分自身のアイデンティティを揺らがせることにつながるからです。これまでの自分が傷つくこともあるでしょう。

 

 そうした中で、「なかったことにする」のではなく、「認める」ことや「更生」することにつなげていくために、社会としてどのように後押ししていけるか。アイデンティティを修正していく営みを、どのように後押しできるか。

 

 加害をした当事者、そして、加害を認めて更生を続けていきたい当事者の一人として、(自分自身の問題と地続きの問題として)この問題を考えていけたらと思います。

 うろ覚えですが、以前読んだ、DV加害更生プログラム参加当事者の声が記された書籍の中に、「DV加害更生プログラムに通うことで、以前のようにギラギラしていた自分でなくなってきた。良い傾向だと思うが、以前の自分でなくなってしまったような気もする」といった内容の記述があったと記憶しています。

 

 「ギラギラ」。この言葉は、以前の(DVをしていたときの)私を表現するのにぴったりの言葉です。そこで今回は、上記の記述について考えてみたいと思います。

 

 DVをしていたときの私は、「ギラギラ」していました。職場では、他人を押しのけてアピールし、自分が優れている存在だと周囲に見せつけようとしていました。職場でも家庭でも、相手が間違っていたら一刀両断に切り捨てて、自分の正しさを主張していました(まるでナイフのように尖っていました)。

 勝ち負け思考も強く、いつも自分は勝利を求めて努力すべきだと思っていましたし、そのための努力を惜しみませんでした(努力が足りない人間を蔑んでしました)。

 

 確かに、DV加害更生プログラムに通って学び続ける中で、私の中で、こうした「ギラギラ」した部分が激減しています。

 前のめりに、「オレが!オレが!」とアピールするよりも、「仕事全体をうまく回していくために今の自分に何ができるか」といった観点から考えるようになってきています。また、相手を一刀両断することについても、「相手がそのように考える背景には何があるのだろう」と想像することが増えたので、一刀両断することもだいぶ減ってきています。勝ち負け思考についても、「勝ち」や「負け」以外の捉え方をするようになっています。

 

 では、「ギラギラ」していない私をどう思っているか。今の私は、「ギラギラ」していない私の方が、むしろ好きです。

 

 「積極性が失われた」ように見えるかもしれませんが、それは、周囲と一緒に協働する力を身に付けられるようになった、と言い換えることができます。また、切れ味が悪くなったように見えるかもしれませんが、それは、「切る必要のないものを切って、知らず知らずに周囲を傷つけていた自分を手放した」ということでもあります。

 「ギラギラ」を手放すことで、自分自身がより幅が広がった生き方ができるようになったと実感しています。

 

 DV加害更生プログラムに通うということは、これまでの自分自身の人生と向き合うことになります。その過程で、自分自身の中で、手放す必要のあるものは手放していきますし、より良く変化させることができるものは、変化させていきます(もちろん、良いものはもちろん残っていきます)。

 私にとって、「ギラギラ」した自分は、手放したり、より良く変化させることができるものだったりしたのかもしれません。

 職場の上司が主導する新規プロジェクトをサポートする機会がありました。プロジェクトの構成員は私の所属する部署(A)のみですが、扱うテーマがB・C・D…と複数の部署にまたがるプロジェクトなので、上司(Xさん)は、別の部署に連日説明に走り回っていました。

 Xさんの話を聴く限り、おおむねどの部署も好意的だったようですが、一部の部署の方からは、「本来は別の部署Bが行うべきでは?」、「おたく(A部署)で完結するなら良いけれど、うちの部署(C部署)からは人は出せない」、「趣旨は分かるけれどしばらくしてから(先送り)でいいのでは?」といった反応もあったようです。

 

 こうした反応の一つ一つは、それぞれ背景事情があるでしょうし、理解できるものです。

 しかし私は、こうした反応を耳にした時に、DV加害更生プログラムへの参加をためらう、言い換えれば、何かと理由を挙げてプログラムに参加しようとしない加害当事者との類似性を感じました。

(※私自身も、もし同居していたときに《妻さん》からDV加害更生プログラムに通うことを提案されていたら、何かと理由を見つけてプログラムに参加していなかったと思います)。

 

 プログラムに「通わない」理由として、例えば以下が考えられます(カッコ内はそれに対する突っ込み)。

・「平日は仕事があって忙しいから」(←本当に週1回2時間のグループ参加の時間を捻出できないほど忙しいのですか?)

・「休日は疲れているし、趣味の時間も必要だから」(←DVを手放すことよりも趣味の方が大切なのですか?)

・「お金がかかるから」(←本当にプログラム参加費を捻出できないほど、生活が厳しいのですか?例えば、嗜好品費や飲み会のお金を節約すれば、参加費を捻出できませんか?)

・「効果があるか分からないから」(←そもそも通わなければ、効果は出ないと思いませんか?)

・「もう少し様子を見てから」(←本当に、様子を見ていられるほど余裕があるのですか?)

 

 私自身の経験を振り返ってみてもそう思いますが、「通わない理由」を探すのは本当に簡単です。現状のままで良いのだから(つまり、自らのDV加害行為と向き合う必要もないし、反省する必要もないのだから)。

 そうしたときに、それでも「通わない理由」を乗り越えて、最初の一歩を踏み出せるか、そこが問われているのだと思います。

 (※私の場合は、《妻さん》が家から避難してくれたことで、「通わない理由」をつべこべ並べ立てている状況になくなったため、通い始めました。完全に他律的でした。自ら一歩を踏み出そうとしていなかったのは、今振り返っても大きな反省点の一つです。)

 DV加害更生プログラムに通いながら、日々実感していることがあります。

 それは、「自分自身が更生するため、あるいは、大切な人とより良い関係を築けるような自分に変わっていくためには、100%の力で自分自身と向き合えるかがとても大事だ」ということです。

 

 私自身は、プログラムに通い始めた当初、(本人としては一生懸命通っているつもりでしたが、)100%の力で自分自身とは向き合っていませんでした。

 どういうことか。

 

 私は、「自分自身が更生するため、あるいは、大切な人とより良い関係を築けるような自分に変わっていくために私は努力している」と思っていましたし、そのためにプログラムに通っていました。しかし一方で、そうした自分を心から信じていた訳ではありませんでした。

 

 「もしかしたら更生できないかもしれない。」と考えたり、「たとえ自分が更生しても、《妻さん》とより良い関係を再び築くのはできないかもしれない」と思ったりしていました。

 このように考えたり思ったりしていたのには、理由があります。それは、万が一自分が更生できなかったとしても、《妻さん》とより良い関係を再び築くのができなかったとしても、「仕方ないよね。そういう未来も想定していたから」と自分自身の中に、「逃げ道」を残しておきたかったからです。

 

 だから、(プログラムに通い始めた当時の私は、)100%の力で(全力で)自分自身とは向き合っていなかったのです。別の言い方をすれば、自分自身と向き合う「覚悟」がなかった、とも言えます。

 自分自身の経験に引き付けて考えると、この覚悟が持てていなかったとき、私は本当の意味で、更生への一歩を踏み出せてはいませんでした。

 100%の力で向き合えるか。言い換えると、「ここまで頑張ってダメだったら仕方ないと思えるぐらい、自分自身が(自らの更生のために)努力できるか」ということ。つまりは、その「覚悟があるか」ということが、問われていたのだと思います。

(思い返してみると、100%の力で向き合えていなかったときの私は、口では「更生したい」「関係性をより良いものにしていきたい」と言っていましたが、それは、単に旗印だけ掲げたパフォーマンスと似たり寄ったりだったと感じています。)

 少し前のブログで、DV加害更生プログラムに通う上でのハードルの一つとして、(当時の)私が、「加害更生プログラムに通うと、自らのDV加害行為を認めることになるのではないか。そうすると、例えば離婚調停などで、面会交流が実現できなくなるなどの不利益が生じるのではないか」との懸念を抱いていた旨を書きました。

 

 本来であれば、DV加害をした人が、自分のDVを認めずにいるよりも、きちんとDVを認めて、反省し、前向きに更生していける社会の方が「より良い」と私は思います(私自身も、結果として自らが犯したDVを認められるようになったことで、更生の道を進んでいくことができて、良かったです)。

 しかし残念ながら、今の社会は、全ての人にとって、DVを認めて前向きに更生していける社会とはなっていません。

 

 では、どうしたら、(私のように)DV加害をした者の多くが、正直にDVを認め、前向きに更生していけるようになるでしょうか。二つの方法があると思います。

 一つは、実際にDV加害更生プログラムに通っている人が、より発信力を高めていくことです。DV加害更生プログラムに通い、自らのDVを認めるようになったとしても、自分自身が不利になるわけではないこと。むしろ通うことによるメリットが大きいことを、多くの当事者が自らの言葉で記し、発信しけたらいいなと思います(私自身も、当事者の一人として、本ブログなどを通じて、引き続き発信していきたいと思います)。

 

 もう一つは、社会制度に関するものです。

 例えば、離婚協議や離婚調停などの場において、以下の二つの方法があったときに、どちらを選択するでしょうか。

(1)自分のDVを隠して、相手の欠点をあげつらい、「相手が悪い。だから親権は自分にある」などとまくし立てる。

(2)自分はDVをしていたと認め、謝罪し、加害更生プログラムで学んでいると伝える。

 おそらく、(実際にDV加害をした人のうち)一定数が、「本当は自分がDVをしたことも薄々気づいている。だから、(2)を選びたい。けれど、そうすると、子供に一生会えなくなったり莫大な慰謝料を請求されたりするのではないか。そうなるぐらいなら、(1)の方がまだ可能性がある」という発想で、(1)を選んでいるのではないでしょうか。

 こうした発想の方々が(2)を選んだ方が「良い結果になる」と思える(少なくとも、(1)より不利にならない)社会制度であれば、実際にDV加害をした人の多くが、DV加害更生プログラムにアクセスして、前向きに更生していくことができると思います。

 私自身も、結果として(2)を選ぶことができ、そして今の自分があります。そうした人間の一人として、多くのDV加害当事者が(2)を選びやすい社会制度にしていけるように、この社会の一員として取り組んでいきたいです。

 (今はまだ、「それではどうしたらいいか?」具体的に提案できる段階ではないのですが、引き続き考えていきたいと思います。)

 

※このブログでは、「良い」「不利」といった表現が出てきます。何をもってして「良い」のか、「不利」なのかは、それ自体が議論になるところだと思います。しかし、私の中でまだ考えがまとまっていないこともあり、少しぼんやりしていますが、そのまま書いています。