郡上八幡城とは?
第2回は岐阜県郡上市にある郡上八幡城について紹介いたします。
郡上八幡城の歴史はなかなかマイナーで筆者も実際に訪れて興味を持つまで、ほとんど知らなかった歴史である。(郡上へ行ったら渓流釣りばかりしていた笑)しかし、地方の歴史というのも奥が深く、しっかりメジャーな歴史に絡んでくる。雄大な郡上の川や山の景色の裏に数々のエピソードを簡単にではあるが見ていきたい。
郡上八幡城を説明する以前に、もともと郡上の中枢は八幡城ではなく1221年(鎌倉時代)下総国(千葉県)の有力御家人である東胤行(とうのたねゆき)が山田庄(八幡城の北部の大和、白鳥、高鷲等)に地頭職として阿千葉城や篠脇城を拠点とし一円を支配していた。
戦国時代末期まで東氏の郡上一円支配は続くが、東氏が八幡城の付近に流れる吉田川の対岸にある赤谷山城を居城としているときに事件は起こる。当時の領主、東常慶(とうのつねよし)と息子の東常堯(とうのつねたか)が家臣である遠藤胤縁(えんどうたねより)を暗殺する事態が勃発。それに対し、胤縁の弟である遠藤盛数(えんどうもりかず)と息子の遠藤胤俊(えんどうたねとし)は牛首山(八幡山)を陣取って弔い合戦を起こした。(1559年 戦国時代 赤谷山の戦い)この遠藤氏が陣取った場所が郡上八幡城の始まりである。そして遠藤氏がこの戦いに勝利し、郡上東氏は滅亡する。
その後、遠藤氏の身内内で争いがなんやかんや勃発するが、盛数の息子である遠藤慶隆(えんどうよしたか)が郡上一円を統一し織田信長が「天下布武だ〜」と出てきた際には信長に恭順することで本領は安堵された。
本能寺の変後の豊臣政権下では慶隆は織田信孝(おだのぶたか ※信長の三男)に着いたため、慶隆は加茂郡小原(現 岐阜県加茂郡白川町)に移封となり八幡城には稲葉貞通(いなばさだみち ※稲葉一鉄の息子)が入封する。
しかし、ここで所領を諦める慶隆ではなかった。日本が真っ二つに分かれた関ヶ原の戦い時、慶隆は東軍に所属し徳川家康に、西軍に属した稲葉貞通の八幡山城攻略を願い出る。それにより郡上の関ヶ原、郡上八幡城の戦い(1600年 安土桃山時代)勃発。この戦いは激戦を極めたものの勝敗はつかず、関ヶ原本戦で東軍が勝利したので、和睦となった。その結果慶隆は旧領復帰ができ稲葉貞通は九州の臼杵(うすき)に移封となった。(慶隆の執念あっぱれ)
江戸期には藩主が遠藤氏→井上氏→金森氏→青山氏と変わったものの八幡城は郡上の中心として位置し続けた。そして明治維新を経て、廃藩置県によって1870年(明治時代)石垣のみを残し、廃城となった。
1933年(昭和時代)当時の町長の決断のもと、天守台に初の木造模擬天守が建てられ、現在も郡上のシンボルとなり続けている。(続100名城にも登録された)
SOblog流、郡上八幡城の見所
①木造模擬天守
⑦北の曲輪群
駐車場から北尾根を歩くと、鬱蒼と繁った森が現れる。わかりにくいがここには駐車場のの堀切を隔てて、曲輪や堀切が存在する。八幡城は石垣部分のみを歩くと小さく感じるが、ここまで一体を含めるとかなりの要塞だったことがわかる。
SOblog流、評価
史跡度 ★★★★☆
歴史度 ★★★★☆
立地度 ★★★☆☆
石垣や北の曲輪群などかなりの遺構を残している為、史跡のロマンを感じられる。歴史度に関してもマイナーではあるがたくさんの生々しいエピソードがあり評価は高い。立地度は郡上は越前と美濃の交通要所ではあるが機関都市からは離れているため並とする。
周辺おすすめスポット
・八幡城下の古い街並み
江戸時代に作られた街並みが当時を彷彿させます。
・赤谷山城跡
東氏の居城です。石垣も残ってます。
・吉田川、長良川
キャンプや釣りに最適です。
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