「この世には悲しみの種が無限にあるが、ただいちにんの悲しみといえども
 それを他者が分け持つことは、つまりそれを救済するなどということは、
 不可能であるという自他の認識が、そこには深々と横たわっている。
 もちろんそういう自分の悲しみが根源になっていて
 空しい無数の、徒労の体験が、
 共同墓地のそれのように埋蔵されているのだろう。
 自分ひとりの埋蔵量だけでなく、ご先祖さまからの、そのような徒労の遺産を
 引き継いでいるということを、無自覚なまでに深く知っているゆえ、
 せめて、悶えてなりと加勢する無力な神、というものが
 生まれずにはいられなかったのかも知れない」
                      (石牟礼道子 『陽のかなしみ』より)


 不知火のほうでは、他者の悲しみを我が悲しみとして悶える人間のこと(ことに老女)を悶え神というそうだ。他者の喜びを我が喜びとする人間は喜び神様と呼ばれているとも。
 そういう他者の情緒に感応する資質を持つものは往々にして、知恵の遅れたものや老婆、あるいはいたいけな幼女である。



 「あるがままの存在のすべてを黙って大切にする。いやいや、役目をもたせて大切にする。そういう世界なのであった」。



 ボケてはいけない、家族に迷惑がかかる。老いてはいけない、みっともない。
 あるいは「死んだあと、ちょっとは残しておきたいじゃないの」と死亡保険の元気なコマーシャル。
 終活、なんて言葉。そんなの・・・「まやかし」じゃん、と思う。