【あらすじ】
治療院を開業したものの、閑古鳥が鳴き続けることに頭を悩ます、宏典と奈穂美。
仲の良かった夫婦の歯車がギシギシいい始めた。
何が悪いんやろ?と暗中模索する二人は、ある症候群からくる「コミュニケーション能力の欠如が人間関係をギクシャクさせる」ということを指摘してくれた著書に巡り会う。
「宏典はこの症候群や」と奈穂美は思った。
1
「これや、これっ~!」奈穂美が意をえたりと、治療院で患者待ちの宏典に携帯で検索した記事を見せた。
宏典はその記事に目をやる。
「空気が読めない、失礼な言葉を言う、共感性がない、それは性格が悪いのではありません、もしかしたらアスペルガーかも?」と記載されていた。
読み進めるうちに、ジグソーパズルの欠けていたピースが見つかった気がした宏典だった。
テレビ番組内で自閉症スペクトラムのひとつアスペルガー症候群の紹介をしていたのを奈穂美は食い入るように見入っていた。
空気が読めない、同じ失敗を何度も繰り返す、自分のペースで生きているから他人のアドバイスが素直に聞けない等、宏典に当てはまる項目が次から次かへと紹介される。
奈穂美は「生まれつきの脳の障害なんや…」と気づきを番組からもらった。
「なんで私の言うことがわかってくれへんの」といつも悶々としていた奈穂美に一条の光が射した気がした。
表札の名字を口に出して言ってしまう、これなどはアスペルガー症候群の大きな特徴である。
口に出されたお宅の方は大きな迷惑である。
「〇〇さんて珍しい名字やなあ~」
「そんなこと大きな声で言うのやめとき、聞いてはったら失礼やろ」と諫める奈穂美、そんな会話は今まで何度もあった。
「ひとつずつわかるように私が説明してあげなあかんのやな」と奈穂美は決心した。
される人の嬉しい嬉しくないは別にしてサプライズが大好きな宏典。
症候群の特徴としてあげられる「サプライズ好き」に以前、72回ローンで利息をまるで考えずに車をプレゼントしてくれた宏典の嬉しそうな顔が奈穂美の心に浮かんだ。
「私やったから良かったものの高額プレゼントを人間関係の距離感を考えずにやってしまいそうな事、気を付けとかなあかんなあ…」と言う難しさに、少しため息がもれた。
「やるしかないか、夫婦やもん」と一条の光に向かって奈穂美は歩き出した。
2
アスペルガー症候群を取り上げていたテレビ番組の中で「ダーリンはアスペルガー」と言う漫画が紹介されていた。
すぐに宏典と奈穂美は熱中して読んだ。
著者は野村恒子と言う女性でアスペルガーによる情動剥奪症候群、いわゆる「カサンドラ症候群」になった漫画家である。
ギリシャ神話の中で太陽神アポロンの寵愛を受け予知能力を授かった王女カサンドラが、アポロンの怒りに触れて予知能力を封印されてしまい、誰も予言を聞いてくれなくなった様(さま)から、「優しいいい旦那さんじゃないの」と回りから話を聞いてもらえないアスペルガーの伴侶に悩む人たちの症状をカサンドラ症候群と言う。
「なるほど、自分の欲しいものが優先なのでそれを買うためには借金は平気でする…か」と書かれたアスペルガー症候群の特徴に大いにうなづく奈穂美であった。
「京都に居た時、あんたが消費者金融に借りてたお金、全部私が返したん覚えてるよね?」
「あのときはありがとう」
「ありがとうとちごて、なんでまた、銀行のフリーローンからお金借りるの?」
「ライクやアトムのサラ金と違うからええかなと思て」
「利息が増えていくのは一緒やろ?」
「…」
「なあ、聞いてる」
「聞いてる」
「聞いてんねんやったら答えてよ」
「…」
「黙ってんと、利息が増えていくのになんで借りたん?」
「…」
対話ができないもどかしさに奈穂美の心はちぎれそうだった。
今、現在しか見えないアスペルガー症候群の特徴は今、お金が足りないのなら借りたら良いと言う短絡的な発想になることを普通の金銭感覚を持つ人には理解ができない。
「後輩たちにおごったり、ええ格好するために借金するか…考えられん」これは前途多難と奈穂美は頭を抱えたが「ダーリンはアスペルガー」を読む以前よりかはずいぶん心は楽である。
人間関係の機微がわからないのもアスペルガー症候群の特徴である。
治療院に来る患者さんと楽しく話が盛り上がったと思ったらそれが良い治療をした事になる宏典。
「患者さんと治療家は友達ではないんやで」と奈穂美が口酸っぱく言っても威厳がない友達治療家を続けてきた。
それでは患者さんは頼りがいのない治療家でどんどん離れていくはずである。
そして、患者さんに毎月、旅先から葉書を送る、来なくなった人にメールをする…独りよがりで空気が読めない行動がエスカレートしていく。
院のチラシをポスティングは威厳がなくなるからやめてと奈穂美が言っても陰でこっそりやってしまう宏典であった。
「これで新患さん来たら、奈穂ちゃんビックリするぞ~」と努力する方向が真逆を向いていた。
それに時間をかけても治療技術がダメだったらいつまでもポスティングを死ぬまで続けなければならないことに気がつかず閑古鳥のループにはまりこんでいく宏典であった。
3
奈穂美は「ダーリンはアスペルガー」と言う漫画と著者の野村恒子さんに感謝していた。
なんでわかってくれへんのやろう…と思っていたことが、少しずつ溶けて雪解け水が小川を流れて行くように思えてきた。
脳の構造が違っていて、「アスペルガー症候群ではない人」とは違う発想をしてしまうことがわかれば、「そうなのか」と怒りが収まることもある。
発達障害がそういう思考をさせる、性格の悪さだけではないと考えられるようになった事に心が軽くなる。
「なんでそういうことをするの!」「なんでそういう言い方をするの!」「なんでもっと早く言わないの!」という言い方はアスペルガー症候群の人を黙らせてしまうと言うことも「ダーリンはアスペルガー」から学んだ。
気持ちを、すぐに言葉で表すことが困難な脳の造りなのだから、黙っていながら考えているんだと待てるようになった。
そして宏典も「思ったままをすぐ口に出してしまう」事を改善しようと思った。
そして人の言葉を聞き入れる柔軟性を持とうと思えたのもこの漫画のおかげである。
自分の関心のないものには極端に共感性が持てないという特徴も合点がいった。
「なあパパ~今日、幼稚園でお絵描きしたら先生から金メダルもらった」と二女の佳奈が言うと「やったー」と言う気のない返事しかでない宏典であった。
「佳奈はパパがもっと喜んでくれると思って言ったのになんでそんな気のない返事しかできへんのやろ?」と奈穂美は二人の会話を聞いていた。
共感性がないことで「二人でいても一人と思う孤独感」を相手に感じさせているなど宏典は微塵も考えていない。
そんな宏典だから子供たちは遊んでくれるときは楽しいが、父親が一人の世界に入るときは「信頼ができない」と思うようになった。
子供が幼い頃「なあ佳奈、フライドチキン食べに行かへん?」と誘われるとふたつ返事で「行く行く!」と喜んでついてきた。
しかし子供の人格が芽生え始めると対応ができない時が多くなっていった。
アスペルガー症候群の特徴に「人間関係の変化についていけない」と言うものがあるが、これこそほぼ一人っ子として甘やかされて育った伊丹家の長男を引きずり威厳のある父親としての役目は果たせていない宏典そのものである。
宏典はなんのジレンマも感じていない。
4
「生きにくくはないの?」
「うーん、あんまり感じた事は無いなあ~」
「たぶんそうやろとは思ってたけど、かなり自分勝手で人の気持ちがわからないことは、治療院の経営に関係してると思うねんな、私」
「そうかな…」
今日も今日とて閑古鳥の泣いている治療院で作戦会議中の奈穂美と宏典である。
「アスペルガーの特徴って、マイペースを崩せないとか自分本意とかって本に書いてあったけど、あんたにぴったり当てはまるのよ」
「自分本意か?俺」
「気づいてないよね…私、受付で帰る患者さん見てると、不満足な顔して帰る人多いよ」
「多いってどれくらい」
「80パーセント」
「80…」
「そう80パーセント、治療院は治療家と患者さんとの相性もあるから全員を満足させることは不可能やけど、受付の私が思うに80パーセントの患者さんは満足させてほしいなあ。後20パーセントの人が満足してなかったとしても、それは“縁がなかった”とあきらめもつく」
「そんなに満足させてないか…」
「そう、満足させてないというか治せてない」
「おかげさんで治りましたていう人もいるやん」
「それが20パーセントですわ」
「…」
ぐうの音もでない宏典であった。
本人が生きにくくなければ、人間は変われない、「ダーリンはアスペルガー」の中にもそういう記述はある。
自分の治療方針や患者とのコミュニケーションがこれでいいと思っている宏典にとって奈穂美の提案は馬の耳に念仏である。
奈穂美はだんだん疲れてきていた。
「もう何を言っても聞いてくれない、私を馬鹿にしているとしか思われへん」と心が折れていく。
貯金がどんどん無くなっていく。
このままやったらつぶれるで、と言う奈穂美に宏典は明日頑張ると言う。
この問答の繰り返しにも疲れてきていた。
なんだか、寝ても寝ても疲れがとれなくなってきている奈穂美であった。
「おかしいなあ、なんか疲れがとれへん…まぁいいか年齢も年齢やしそんなこともあるわ」自分の体の事はほったらかしにしている奈穂美。
頑張って行ってたジムも家計が苦しいのでやめた。
運動をしないと余計に気が滅入るが背に腹は代えられない。
明日はきっと良い日だ!と渾身の力をふりしぼって、不安に打ち克とうとする奈穂美であった。
