このブログでは、百人一首好きの私が直訳・意訳を通して自分ならではのオリジナルストーリーを綴っていきます。

 

更新が遅くなってしまいました…。遅ればせながら、あけましておめでとうございます。新しい一年が始まりましたね。年末は、何をして過ごしていましたか?

私の中で、去年はあまり年末感がなくて、あっという間に年越しを迎えました。私は、AAAというグループが好きなのですが、12月31日を持って活動休止だったので「少し悲しい年末」という感じでした…。また観れる日を、待つしかないですね!

 

 

 

 

さて今回は、前回のブログで取り上げたように、漢詩から影響を受けている和歌について紹介していこうと思います!前回、李白と和歌の関係と書いたのですが、白居易について取り上げる事にします。いきなりの変更で、申し訳ありません。

 

 

 

 

 

白居易の紹介

 

 

 

ではまず、白居易の紹介です!

有名な作品としては、「長恨歌」が挙げられますね。皆さんも聞いたことがあると思います!

 

 

(画像はウィキペディアより借用)

 

白居易は、唐の時代中期に活躍した漢詩人です。政治家でもあり、大臣になるほどのエリートだったようです。

漢詩や文は、唐代の詩人の中で最多の約3800首が残っているそうです。そんな白居易の作品は、中国のみならず朝鮮や日本にまで影響を及ぼしました。紫式部の「源氏物語」にも、「桐壺の巻」で影響を与えていることが伺えます。また、「和漢朗詠集」(歌人の藤原公望が、漢詩・漢文・和歌を集めた歌詠みのための詩集です。)でも、漢詩句588首のうち白居易の歌が136句で詩句の中で一番多く取り上げられています。日本への浸透具合が伺えますね。

 

 

 

 

 

白居易の作品

 

 

 

それでは、白居易の作品の中から日本に影響を与えたものの一つ目を紹介したいと思います。

 

『白子文集巻六 閑居』

  深閉竹閒扉   深く閉づ竹間の扉

 靜掃松下地   静かに掃らう松下の池

 獨嘯晩風前   独り嘯(うそぶ)く晩風の前

 何人知此意   何人か此の意を知らん

 看山盡日坐   山を看て尽日坐し

 枕帙移時睡   帙(ちつ)を枕とし時を移して眠る

 誰能從我遊   誰(たれ)か能く我に従つて遊ばん 

 遣君心無事   君をして心に事無からしめん

 

(参考サイト)

 

 *帙…和本を包んで保存する装具 

  

  

〈現代語訳〉

深く閉じる竹の中の扉。

静かになびく松の下の池。

夜風の中で、独り詩歌を口ずさむ。

誰か私のこの気持ちを知っているだろうか。

山を見ながら終日座り、

帙を枕にして暇つぶしに眠る。

誰か私と一緒に遊ぶことができるだろうか。

君の心を無にさせられるだろうに。

 

 

 

 

 

とても寂しさが伝わってくる表現が多いですよね。「閑居」というだけあって、竹林の中でひっそりと一人で暮らしている様子が想起されます。誰かとの関わりを求めながらも。その相手を「無にさせる」という不器用で、いじっぱりな様子を私は感じました。

 

 

 

 

 

影響を受けた和歌

 

 

 

この漢詩に関して、詠まれた和歌を二つ紹介します。ちなみに、紹介する二つの和歌はどちらも

 

「深閉竹間扉 静掃松下地 独嘯晩風前 何人知此意」

 

の部分の句題和歌として詠まれました。句題和歌とは、「和歌などを詠む際に、古歌の一部を題として用いて詠まれた和歌のこと」です。

 

 

 

 

まず一つ目は、

 

夕ざれのながめを人や知らざらむ竹のあみ戸に庭の松風

 

 

和訳すると、

 

「夕方の景色を人々は知らないだろうか。竹の網戸に庭から松風が吹いてくるような、この景色を。」

 

これは私独自の訳なので、あまり自信はありません…。おそらくニュアンスは、このような感じだと思います。訳から考えると、「この景色を知らないなんてもったいない。」と目の前の景色に感動しているような感じがします。しかしその一方で、他人の存在を意識して、皮肉めいた言い方のようにも感じますね。果たして、どちらの読み方で詠んだのでしょうか。

 

 

 

そして、この歌を詠んだのは慈円という人物です。日本史の授業などで「愚管抄」を書いた人として習ったかもしれません。平安時代末期から、鎌倉時代初期の天台宗の僧です。

 

(借用元)

 

 

 

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二つ目は、

 

夕まぐれ竹の葉山にかくろへて独りやすらふ庭の松風

 

 

和訳すると、

 

「夕暮れの竹の葉や山の中に隠れて、ひとりでとどまろう。庭の松風を感じながら。」

 

慈円のものより、孤独という部分を強調して詠んでいるように感じます。他人の存在は別とした、自分だけの時間を楽しんでいるようです。やはり読む人によって、感じ方や捉え方は変わってくるのですね。

 

 

 

この歌を詠んだのは、藤原定家です。もちろんご存知ですよね!!

このブログで毎回取り上げている百人一首の撰者です!定家も、平安時代の末期から鎌倉時代初期の公家・歌人です。

 

(借用元)

 

 

 

 

 

白居易との関係

 

 

 

では、慈円定家は白居易とどのような繋がりがあったのでしょうか。

 

まず、慈円定家「白氏文集」の受容の状況は、平安時代の受容とは大きく異なっています。それまでほとんど触れなかった、閑適詩・感傷詩から多く詠まれるようになりました。ちなみに、閑適詩とは日常生活の中で沸き起こる興味について詠んだものです。そして感傷詩とは、文字通りの感傷的な作品のことです。

今回取り上げた『白氏文集巻六 閑居』は、おそらく感傷詩にあたります。

時代によって、好まれる歌も変わってくるのですね。

 

 

 

 

ではなぜ慈円定家は、白居易の感傷詩を詠むようになったのか、参考資料を引用して考えていきます。

 

 

これは隠遁生活への強い憧れを持ちながらも、最後まで官僚として生きていった白居易の人生に慈円が親近感を持ったためである。それは、九条家の柱としての重責をつねに感じながら、遁世に憧れるの気持ちでもあった。しかも、それ以前の文学は『白氏文集』に学び、吸収するという姿勢であったのに対し、慈円のそれは漢詩に和するといういわば互角の姿勢で臨んでいる。よって作られた和歌 は、漢詩句題をどこまでも契機として、あくまでも自己の感情の発露として詠まれている。 対し、専門歌人としての誇りを持つ定家は、漢詩句題を結題の手法で読み、己れの感情をださず、物語的色彩を込めた芸術作品として作り上げた。

 

(引用文献)

 

線や色は私が加えました。

 

 

もしかしたら、慈円は精神的に白居易の漢詩によって支えられていたのではないかと感じました。私たちが好きな歌手の歌詞に共感したりするような、そんな感じだと思います。それゆえ、勉学のためというより慈円という一人の人間に対する影響が大きかったように感じました。

 

 

一方で定家の場合は、歌人としてのプライドを強く持っており、学ぶ対象として白居易の漢詩を見ていたと思います。そのため、歌人としての定家に対する影響を与えたのではないかと推測します。

 

 

以上のことから、白居易との直接的な関わりはないにしても、慈円定家がどのように思って白居易の歌を詠んでいたのかが少し分かりますね。自分と重なる面を白居易に見出し、さらに自分の気持ちを添えて詠んだ慈円と、あえて自分の気持ちを出さず作品そのものの良さを尊重する定家。歩んできた道が異なる故に、一緒の句題で詠んでも、ここまで違くなるのですね。和歌一つを見ただけで、まるで人生までわかってしまうようで不思議な感じがします。

 

 

 

 

 
まとめ

 

 

ここまで、白居易の漢詩を通して慈円と定家の歌を取り上げ、その影響について考えてきました。今より遥か昔のことですが、悩みを抱えていた慈円の姿や、歌人としてのプライドを持つ定家の姿を感じられて面白かったです。白居易という存在が、人によって異なる影響を与えていて興味深かったですね。

 

いつもは、ひとつの歌を取り上げ、その歌を詠んだ歌人の中での比較しかしないので新鮮でした。いくらすごいといわれる歴史上の人物でも、何かから影響を受け、成長してきたのだと感じました。どんどん人間味が感じられて、なんだか嬉しいです。もしかしたら、白居易も何かから影響を受けて、漢詩を詠んでいたのかもしれませんよね。

 

 

 

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

何かあれば、コメント欄にお願いします。また読んでくださると嬉しいです。よろしくお願いします!