第1話:運命の引き金は、琥珀色の杯

王都の喧騒が引き、深い藍色に包まれた夜。

任務を終えたルアナは、町娘の変装のまま、一人でカウンターに座り酒を楽しんでいた。

 

ルアナ(……はぁ。なんなの今日の仕事。

お父様に押し付けられたあの大公の調査、汚いやり口ばかり見せられて本当に気分が悪いわ。

あんな男に頭を下げなきゃいけないなんて……あー、イライラする! 

誰かに八つ当たりでもしないと、やってられないわ!)

 

ルアナの実家は、表向きはしがない男爵家。

だがその実体は、王国最大の情報組織の元締めである。

幼い頃からあらゆる潜入術を叩き込まれてきたプロの情報屋である彼女にとって、任務の不快感は安酒で流し込むしかなかった。

 

「……マスター、もう一杯。一番強いのを、あとナッツも頂戴。」

 

叩きつけるように置かれた空のグラスが、カランと虚しい音を立てる。 そんな時だった。

 重い木製の扉が静かに開き、淀んだ空気の中に、場違いなほど清涼な夜風が流れ込んできたのは。

 

 その風に背中を押されるようにして、一人の男が店内に足を踏み入れる。 

フードを深く被り、徹底して顔を隠したその男――レオンハルトは、周囲を拒絶するような冷ややかな空気を纏っていた。

 

レオンハルト(……ようやく、息ができる)

 

次期国王という逃れられない宿命、完璧な王子を演じ続けなければならない、凍てつくような義務感。

一分一秒を他人の視線に晒され、自分という存在が摩耗していく日々。

彼には、誰の目も届かない場所で、ただ独りの男として呼吸する時間が必要だった。

だからこそ、冷たい王宮を抜け出し、この静かな夜に身を投じたのだ。

 

街を歩き、ふと目に留まった一軒の安い酒場。煤けた看板に誘われるように扉を開けたその時――。

どんよりと淀んだ空気の漂う店内の隅。揺れるランプの光に照らされて、夜の静寂をそのまま形にしたような、凛としたルアナの姿があった。

 

レオンハルト(……っ、なんだ、あの人は。まるで月明かりのような……)

 

そこには、質素な服を纏いながらも、誰にも媚びず背筋を伸ばして座るルアナがいた。

騒がしい世界から切り離されたかのように静かで、柔らかな光を放つその横顔。

それを見た瞬間、レオンハルトの全身を縛っていた見えない鎖が、ふっと緩んだような気がした。

 

理由のない安心感に突き動かされるように、彼は彼女の隣の席へと歩み寄った。

 

使い古された木のカウンターの端、彼女のすぐ隣。

レオンハルトは吸い寄せられるように腰を下ろしたが、至近距離で見る彼女のあまりの美しさに、思考が白く塗り潰された。

瞬きすら忘れて、ただひたすらに彼女を凝視してしまった。

 

(……っ、いけない。俺としたことが)

数秒の沈黙の後、ハッと我に返ったレオンハルトは、取り繕うように、マスターに声をかけた。

 

レオンハルト『……一番強い酒を。それと、彼女と同じものを』

 


 

静まり返ったレオンハルトの視線にさらされながら、ルアナはグラスの縁を指でなぞり、

怪訝そうに隣の気配を探っていた。

……何かしら、この人。さっきから隣に座ったまま、石像みたいに固まって。……まさか私の正体に気づいた刺客? 

……ふふ、まさかね。こんなに隙だらけで挙動不審な刺客なんて、いるわけないわ)

 

あまりの場違いな気配に、呆れ半分で鼻を鳴らそうとしたその時。

 

『……一番強い酒を。それと、彼女と同じものを』

 

不意に耳元を掠めたその声に、ルアナは思わず眉を跳ね上げた。

 

ルアナ(……あら? この薄汚い店には、これっぽっちも似合わない品のいい声ね……。

一体どんな男か、少し拝んでやろうかしら)

 

そう思い立ち、案外よく観察してみれば、男がカウンターに置いた手の角度、座り直した時のわずかな肩の動き――その一つ一つが、隠しようもなく洗練されていた。

 

(……あら、よく見れば所作が完璧。こんなところに来るくらいだから、どうせ訳ありの坊ちゃんでしょ? 

ふふ、この「訳あり君」をちょっとからかって、今日のイライラの口直しにさせてもらおうかしら)

 

世間知らずな坊ちゃんなら、毒にも薬にもならない。そう高を括ったルアナは、獲物を定めるように、不敵な笑みを浮かべた。

 

ルアナは余裕たっぷりの微笑みを男へ向け、声をかけた。

 

ルアナ『お兄さん、そんなに綺麗な手をして、強いお酒を飲むの? 見ない顔だけど、

どこかから来た「旅人さん」かしら。よければ、お姉様が良いところを教えてあげましょうか?』

 

ふいに向けられた、ルアナの月光のように透き通った瞳。その妖艶なまでに静かな眼差しと視線がぶつかった瞬間、

レオンハルトは、肺の空気をすべて奪われたような錯覚に陥った。

 

レオンハルト(……っ!?)

 

今まで誰に対しても、何に対しても動じなかった鋼の心が、音を立ててきしむ。 

氷のように冷え切っていた彼の胸の奥に、正体不明のどろりとした熱が火を灯した。

それは彼がこれまでの人生で一度も感じたことのない感情だった。

 

レオンハルトは運ばれてきた強い蒸留酒を一気に喉へ流し込み、その熱を無理やりねじ伏せるように、フードの奥から琥珀色の瞳でルアナを鋭く見据え返した。

 

レオンハルト『……旅人? ふっ、面白いことを言う。君こそ、その細い体で随分と豪快に煽るじゃないか。……お姉さん』

 

 

その言葉に、今度はルアナの眉がピクリと動いた。

 

ルアナ(……は? 細い女? 煽ってるの? 日々死線を潜り抜け、

極限まで己を鍛え上げてきた「この私」を……ただの「細い女」?)

 

今日の任務のイライラに、目の前の男の不遜な態度が追い打ちをかける。

ルアナは持っていたグラスをカウンターにトン、と置き、挑発的な笑みを深めた。

 

ルアナ『ふふ、見かけで判断するなんて、『旅人さん』はよっぽど世間を知らないようね。

……いいわ、その生意気な口、どっちが先に潰れるか試してみる?』

 

ルアナは顎で、並べられた強い蒸留酒のボトルを指した。

 

ルアナ『飲み比べよ。私が勝ったら、そのフードの下に隠してる顔、しっかり拝ませてもらうから。……逃げたりしないわよね、旅人さん?』

 

レオンハルトの琥珀色の瞳に、挑戦的な火が灯った。

 

レオンハルト『……面白い。その勝負、受けよう。負けた方が相手の願いを一つ聞く、というのはどうだ?』

 

ルアナ『望むところよ。後悔しなさい、旅人さん』

 

カウンターには、喉を焼くような安物の強い蒸留酒が次々と並べられた。 

一杯、二杯。ルアナはアルコールを分解する呼吸法すら心得ているつもりだった。

しかし、今日の彼女は**「イライラ」という最悪の隠し味**を抱えていた。

 

ルアナ『…… あなた、意外とやるじゃない……。でも、私の……勝ち、ね……』

 

彼女はレオンハルトの肩に小さく頭を預け、震える指先で彼の袖をぎゅっと掴んだ。

 

ルアナ『……もう、やだなぁ。……なんで、私ばっかり……。

毎日毎日、嫌なものばかり見て……。

私だって、本当は……綺麗なお花に囲まれて、ただ……笑ってたいだけなのに……』

その瞳には、うっすらと涙の膜が張っている。酒の力で漏らした、か細い本音。

 

レオンハルト『……おいおい、大丈夫か? もうそのくらいにしておけ。……ほら、水だ』

 

レオンハルトは、彼女のあまりの脆さに息を呑んだ。

 (……なんだ、この人は。あんなに研ぎ澄まされた気配を纏っていたのに、

中身はこんなに……小さくて、今にも壊れてしまいそうじゃないか)

 

完璧な仮面を被って生きてきた自分と同じ、何かに耐え続けている横顔。 

その痛々しいほどの**「守ってあげたくなるギャップ」**に、レオンハルトの心は強く、激しく揺さぶられた。

 

レオンハルト(……たまらないな。この人を、このまま放っておけるわけがない)

 

店を出ると、冷たい夜風が吹き抜けた。

レオンハルトは、糸の切れた人形のように崩れ落ちる彼女を、迷わず横抱きに抱え上げた。

 

ルアナ『……あったかい。……離さないで。……お願い……』

完全に泥酔したルアナは、彼の胸に顔を埋めたまま、小さな寝息を立て始めている。 

 

レオンハルト『……おい、寝るな。しっかりしろ』

 

返事はない。

 

ただ、彼女の柔らかい体温と、酒に混じった甘い香りが、ダイレクトに彼に伝わってくる。

レオンハルト『……ふっ。仕方ないな。……行くぞ』

 

独り言のように呟き、レオンハルトは腕の中の重みを確かめるように抱き直すと、宿屋の扉を蹴開けた。