平滑筋肉種、、、聞いたこともない病名だった。
2019年の年末に一身上の都合により退職し、
休んでゆっくりしながら、転職しようと思い、活動をしていた。
2020年4月、本格的にコロナが流行りだした頃、
父親が39℃の熱を出した。私たちは、コロナの疑いもあるから
といって、父親を隔離し、様子をうかがった。
その後、本人が胃が痛いと言い出したこともあり、近くのかかりつけ医に
電話をして、感染対策をして、胃カメラをしてもらい、結果を待った。
先生は、胃の裏に影があるから、
早急に大きな病院でみてもらいなさいと紹介状を書いてくれた。
ゴールデンウィーク前ぎりぎりの日に予約がとれ、
検査をしたら、みたこともない腫瘍だから、
もっと大きな病院に行ってくださいと言われた。
紹介状をもらい、少し大きな市の病院へ、
高速道路で30分くらい??かけて向かった。そこで、検査したのだが、
正確な病名が分からないといわれ、1か月も要した。
その間にも、父の腫瘍がどんどん大きくなって、手術が出来ないくらい大きくなってしまっていた。
病名が出るまで、病気が待ってくれるわけもなく、痛みを訴えたりして、何回か病院へ連れていき、痛み止めがどんどん強い薬へ変わっていった。
結局、病名が出たのが6月初め。病名は “後腹膜 平滑筋肉腫” 。聞いたこともなかった。
先生がセカンドオピニオンを勧めた為、がんセンターに母と二人で出かけた。
診察室に入ると、先生は詳しく病気について教えてくれた。
希少がんで同じ病気でも同じ箇所に出来ることがあまりないらしい。
10万人に1人の病気で、完治は難しいとのことだった。でも、いま出来ることは、延命の為に、抗がん剤治療だけ。とのことで、そこから抗がん剤治療が3週間おきに始まった。
大きな病院で、抗がん剤治療が始まり、副作用が出始めたのは、初めて2回目を終えた後からだった。
嘔吐はなかったが、髪が抜け、やせ細っていく父を見るのが何となく辛かった。
4回目の抗がん剤治療をしようと思い、病院へいくと、心臓への負担が大きくなっていたことがわかり、
結局、それ以降は打てなくなってしまった。。。病気がわかり、3か月後のことだった。
その後、父に頼まれ、東京国立がんセンターまで出かけたが、先生からは「役所関係は時間がかかるから、はやく介護申請等をして環境を整えてあげなさい。」としか言われなかった。帰り道、母が少し小さくなったような気がして、むなしかった。
その頃、無情にも父の体のがん細胞はどんどん大きくなり、転移もみられるようになった。肺に転移していた。
10月に、父は最初にみてもらった地元の総合病院に自分で通えるうちは通いたいと言い出した。
肺に転移していたこともあり、長距離で動くのはつらかっただろうし、抗がん剤投与出来ない=死 を意味するので、決断するのはすごく辛かったと思うが、私たちは父の気持ちを尊重し、転院をした。
11月の初めには既に片方の肺に水がたまり、呼吸がかなり苦しくなっていた。先生に診て頂き、すぐに肺の水を抜く治療が始まった。
本人はかなり痛かったらしい。それもそのはず、歯医者で打つ局所麻酔周辺を麻酔しているが、全身麻酔のように効くわけでもないのに、太いストロー状の針を打たれて、管を入れられたのだから。。。この頃、本人は先生から入院中に自分の余命があまり長くないことを言われたらしい。私たちも同じ頃、先生に呼び出され、今できることをすることと、最後はどうするか考えてくださいとのことだった。この日の夜、私はお風呂に入りながら、将来に対する不安と悲しみのあまり、号泣した。
それから、血の混じった肺の水が抜けていき、2週間で退院となった。入院していたのと、体に負担のかかる痛み止めを飲んでいた為、
ぐったりする父を迎えにいったとき、頑張って歩くといって聞かなかったのを覚えている。呼吸は、楽になったみたいだったので、しばらくは安心かと思っていた。年末を迎え、不安を抱えながら、新年を迎えた。
12月からは、訪問看護師を頼ることに。週1だったのが1月からは2回まで増やした。父親は皆、そうなのかは知らないが、人に弱いところを見せたくないプライドが高い父でも、やはり、心とは裏腹に、体がいうことをきかないので、娘にはそういう部分を見せたくないのか、訪問看護師に頼っていた。お風呂にも途中から一人では入れなくなり、母に体をふいてもらっていた。その頃には、腫瘍がすでに胃を圧迫し、たべるのもやっとで、体は、おなかを除いてガリガリになっていた。
12月の終わりに、輸血をした。すでに、ヘモグロビンの数値が最低ラインに達していたためだった。もうその頃の診察では、母が先生に余命があと少しであると言われ、覚悟してくださいと言われていた。母もこの時、覚悟をしていたようだった。
1月の終わり、ついに、、眠れなくなる程、体が痛くなり始めていた。
夜中に母の携帯がなり、父がそばにいてくれと呼び出した。やはり、眠れないとのことで、睡眠剤を貰ったが、意識が朦朧とし、ハッキリスッキリしない状況が怖かったのだろう。私も交代で見ようかと母に提案したが、弱いとこを見られたくないんだよ、だからいいよと言われて何も言えなかった。
2月に入り、だんだん呼吸もしづらそうにし、眠れていないのもあって、意識が朦朧になりながら、本人はかなり我慢をしていた。
病院にいこうかと何回も言ったが、まだいいよの一点張りだった。
2021年2月9日、先生に前日に連絡していて、痛み止めの薬がもう本人が飲みすぎて足りなかった為、
私が取りにいくことになった。午前中は訪問看護師さんが来てくれるとのことだったのですが、看護師はだめなら、言ってねと言って、帰っていった。多分、父が強がったのと、病院へいったら、もう家に生きて帰れないと悟っていたのでしょう。。。それでそう言ってったのかと、後になって思った。
私は、病院へ行き、先生がその時に、延命治療をするかしないかというのを今度の診察時に意思表示して欲しいとのことだったので、延命措置の有無の書類を貰い、薬を貰って、すぐ、「父に今から帰るけど、大丈夫??」 といったら、「もうダメ・・・」っていったので、急いで家に帰りました。そのあと、午後になると、自分でご飯も食べられないくらい、白目をたまにむくようになったので、もうダメなら救急車呼ぶからね。と言いましたが、嫌だの一点張り。仕方なく、私が着替えをさせて、車に乗せて病院へ息を切らしながら、連れて行った。
この時、私は意識が途切れる父に話しかけ、病院までなんとか意識があるように努めた。
病院へは、違うところで看護師をやっている妹が、電話を先にした方がいいとアドバイスをくれたので、話は伝わっていたのと、ちょうど、病院につくと、病院の診察がおわる頃になっていたので、先生がそれから2時間ちかく後でしたが、来てくれたので、みてくれましたが、もう入院してどれだけもつかですねと言った。
延命については、本人の意思はなかったので、なしでサインしてくれと途切れる意識の中で頼まれていたので、私が書いた。かなり、勇気がいりました。ですが、父の意見を尊重してあげたかったので、すごく頑張った。
後から、先生にいわれ、モルヒネに近い医療用麻薬の痛み止めを使うことになった。もうすでに、一人でトイレにいくことも、歩くこともままならず、尿管も入れられたと翌日に着替えを取りに行ったときに言われた。父に連絡をとりたくても、本人はスマホを握りしめていただけで、触ることが出来ないのに、病院では何もしてくれなく、苛立ちを覚えた。
2021年2月11日、朝の6時過ぎにいきなり私のスマホが鳴った。病院からかと思い、急いで画面をみると、父からだった。「今な、変なとこに閉じ込めてるから、助けてくれ。体も縛られているから警察呼んでくれ。どこにいるか分かるか。」という電話だった。その後も、母や妹のところに何回も何回も電話がかかってきた。それなのに、看護師に連絡しても、よくあることで片付けられ、地元の病院にいら立った。
母と妹と一緒に、父に大丈夫ということと、いま病院に入院してるだけだから大丈夫と何回も言い聞かせましたが、本人は意識が混乱して、不安で仕方ないのと、死という恐怖があったのでしょう。すぐに来てほしいと何回もいうので、母が泊まり込むことになった。
その後、父の症状は日に日に悪くなり、一時、薬の一時的な症状で良くなったような感じがした時もありましたが、口も回らず、食事もしておらず、水しか飲んでいなかった為、日に日に痩せていき、医療用麻薬の作用で、話すこともままならなくもなった。
わたしは、そんな姿をみていることが出来ず、妹へ看病を変わってもらうことが度々あった。
地元の病院へクレームもしましたが、父への対応が悪くなり、食事もとれないのに出してきたり、意識も朦朧としているのに、ゴシゴシ力任せに口腔ケアをされたり、挙句の果てには、まだ死なないと思ったからか、先生を通さずに転院の話をしてきたり。。。最悪だった。
そんなこんなで、本当に2月はとても私たち家族にとってつらかった。。
そして3月、病院から電話がきて、血圧が急に上がったので、もう今測れないくらい下がってきているので、皆さんに伝えてください。と言われたので、急いで祖父を連れて病院に行った。それでも、午前中は精一杯頑張って息をしていましたが、午後になって急におとなしくなったと思ったら、その後、苦しそうに息を引き取った。正直、それまでの時間、今までの中で一番どうしていいかわからなかった。
今まで、覚悟はしていたつもりなのに、いざ、本当にそういうときになると、やっぱり何も考えられず、現実逃避というか、自分のことではないような、、いままで感じたことのない感情ですごく複雑だった。
以前、先生に、解剖させてほしいと言われましたが、父はいいえにしていたのもあり、解剖することなく、そのまま父は天国へ旅立った。
本当であれば、今後の医学の発展のために、腫瘍だけでも切ってもらえたらよかったのかもしれませんが、それはできなかった。
同じ病気になって今も闘っている方もいるかもしれませんが、ごめんなさい、、
父は病気がわかってから1年も経たずして亡くなりましたが、それまでの治療や、最後の最後まで、苦しみもがき、頑張って生きてくれた。私は、父の遺志を尊重したかった。。もっと早くわかって、手術が出来ていれば、、、と何回も何回も思った。つらい思いをしたのだから、もう何もしてほしくなかった。。
私は、仕事を辞めてちょうど、内定をもらっていた時に、父のそばにいる決断をした。
何回も怒られたり、喧嘩もしましたが、1人しかいない父との最後の時間を一緒にいることが出来て、ほんとに良かったと思った。
今回、このことをいつかは忘れてしまうのが怖くて。どれも、父との大切な時間だったから、残そうと思い、ここに記録しておきたかった。
最後に、お父さん、いままで本当にありがとう。
まだまだ甘えたかったし、親孝行もろくにできていなかったから、もう少し一緒に居たかったけど、
仕方ないね。まだそっちには行けないけど、それまで、見守っててね。
ありがとう。
2020-2021 記録おわり。(笑)



とか、









