息子とさくと箱根に行った、久しぶりに好きなものが似ているMちゃんと一緒に谷中へ行った^^
今日は日野市高幡不動から少し先の「ポワント」さんへ体のケアに行ってきました。
急性膵炎で入院後に一度行ったっきりでした。
首、肩がバリバリに張っている状態からの施術。
身体は正直![]()
施術開始から間もなく、滞っていたものが流れたのでしょう。
汗が出始めましたwww
施術が終わってからも、変わらず汗が出て来る出て来るw
自宅に戻ってから、ひしひしと楽になった体にホッと一息ついている所でございます^^
して・・・
昨日はさくと国立市は大学通りで開催されていた「天下市」へ![]()
今日は土曜日だが月に一度の出勤日![]()
おかがら火(庭燎祭)
本社拝殿の前に高さ3メートルにも及ぶ2基のマキの山を積み、午後6時に一斉に点火します。 炎の高さを競い御神木の転倒を防ぎ合う、関東における奇祭の1つと言われています。
おかがら火にあたると悪い病気にかからないと言い伝えられています。
この行事は養和元年(1181年)11月3日に天神島から現在の地に谷保天満宮が遷座した際、
その残木を神前で焚き上げたことから始められたと言われています。
当日、並行して、うそ替え神事も行われます。
うそ替え神事
11月2日と3日の両日、「うそ鳥」をお頒ちし、これを他の参拝者と交換し合うことによって、
その年心ならずも話したり行ったりしてしまったうそやいやなことを帳消しにし、
うそとして吉にとり(鳥)替える、とされています。
「うそ」とは、「うそ」という小鳥の形を柳の木を刻んで作り、腹部に空洞があり中に天満宮のおみくじを蔵しています。
谷保天満宮の「うそ鳥」は端正でユーモラスな風体が特色となっています。
昔からの村行事として、こうして谷保天の境内が賑わっていたのでしょう。
仕事で国立駅前に向かう途中、本田家の前を通った。
「本田家」
平成28年、本田たか(注)夫(ほんだたかお)氏より国立市に、貴重な文化財として活用しつつ
後世に遺すため、国登録有形文化財(建造物)である本田家住宅主屋(おもや)・薬医門(やくいもん)ならびに本田家旧蔵資料が寄贈されました。
本田家住宅主屋は江戸時代中期以前に建造され、現在まで下谷保の地で280年以上風雪に耐え、明治維新や戦火を潜り抜けてきました。国立市は市制施行から50年を迎えましたが、その歩みを市民の皆様と共に前身である国立町・谷保村の頃から見守り続けてきたのがこの家屋です。
それと同時に、国立市の近世・近代を語る上で、本田家は無くてはならない存在です。
歴代の当主は下谷保村の名主や谷保村村長を歴任するだけではなく、村医者・文人としても地域社会に貢献してきました。
十一代当主「本田覚庵」
日記では近藤勇、土方歳三の名が度々登場するが、二人の書の師としても知られている。
甲州街道に面して「医者本田」「新屋(覚庵の生家)」「本家(写真の本田家)」があり
覚庵は、「新屋」の本田郡司と妻トキの長男として文化十一年(1814)に誕生した。
母トキは本田随庵(九代)の娘で、随庵の弟子であった郡司(貫井村産)と結婚して
本田家の分家(新屋)となった。
本家では、子孫が相次いで早世したため、覚庵が本家十代昂斎の養子として迎えられ、
昂斎没後二十歳そこそこで本家の十一代当主となる。
また、覚庵の妻ギンは石田村(現東京都日野市)土方氏の産(過去帳・墓碑によると昂斎の娘)である。
中略
天保八年頃から覚庵は自らの医療活動を開始したようである。
時期は下るが、万延年間以降の日記には、連日のように往診に出向く村医者としての活動の様子が記録されている。
その行動範囲は、谷保のごく近隣から始まり、分梅・戸倉・国分寺・貫井・府中・立川・日野・砂川などにおよぶ。
本田家十二代定年(退庵)は書道のみを継いだ。
この退庵は、函館から長崎までを筆一本で歩いたという。
その大旅行の目的は、近藤勇の首の行方や、土方歳三の忘れ形見などを探すことであった。
同時期、小野路の34ヶ村の寄場名主であった小島鹿之助(1830〜1900)の四男「誠之進」が
明治二十九年六月に滋賀県へ出張し、県議会の速記の仕事をしていた。
兄守政の「小島日記」には、大津の旅館に宿泊し、七月十四日着の郵書によると、
滋賀県の仕事が終わって京へ向かうとある。
京都寺町綾小路法然寺に滞在していた本田退庵と誠之進が合流したことがわかる。
退庵は約一か月を誠之進と行動を共にしている。
誠之進は退庵に案内されて近藤勇の首級を埋めた場所を訪ねている。
日野宿名主であった佐藤彦五郎の長男「俊宜」は、
「武蔵野叢誌」二十三号に家伝の薬の広告として戯文「日東家傳勅命丸」を書き、
これが拡大解釈されて天皇陛下に対する不敬罪事件となり投獄された。
本田退庵も同誌の文芸欄の編集などをしていたため、本田はいち早く逐電し、
三年にもわたって家を留守にした。
俊宣は辛苦の五年間を送り、憲法発布の大赦により帰宅するも、義兄の退庵が諸国漫遊すること三年に及び、まだ帰っていない。
そのため、九州の熊本にいる退庵を俊宣が迎えに行った。
明治二十二年五月八日に熊本の退庵を訪ね、
同六月六日、人車にて壬生寺に行き、近藤勇の首級埋葬地をここの墓守に聞いたら、山野八十八の住所を教えてもらったので、尋ねたところ「知らない」という返事であった。
その後、土方歳三の愛妾の行方を尋ねたところで「聞きがき新選組」は終わっている。
本田家は、日野宿の佐藤家・石田村の土方家との姻戚関係があり、
十一代昂斎に石田村土方家より「チカ」が嫁し、後代に至り覚庵娘「トマ」が佐藤俊宣に
嫁している。
※「本田家の人々が見た時代」参照
※ 誤字・脱字があるやも知れん
※ スマホで読み直してみると 誤字だらけだ><
土曜日の11時頃、突然決めた高尾山山歩き
勿論原付で向かう![]()
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両親の墓前参りをすませ、近くの「桂福寺」へ立ち寄る。












































































































































