【熊谷空襲】

終戦の日、天皇陛下による終戦の詔が放送されていた頃、まだ燃えている都市があったという歴史を多くの方に知って戴ければ…という私の思いです。。

昭和20年8月14日から翌日の終戦の日にかけて、米軍による太平洋戦争最後の空襲が行われていたことを知っている人はあまり多くありません。

私が少年時代を過ごし、実家のある埼玉県熊谷市は埼玉県下唯一の戦災指定都市です。

終戦前日14日の23時30分、房総半島から利根川上空を北上した89機ものB29爆撃機による無数の焼夷弾投下が始まりました。

米軍側の資料では15日0時23分から空襲を開始したとされています。

終戦の日に空襲が行われていたのです。

当時国民学校に通っていた私の両親は、現在の熊谷市郊外在住でしたので空襲による直接の被害はありませんでしたが、燃える市街地の炎が夜空を赤く焦がす様子や焼き出されて逃げてきた親戚の姿をはっきりと記憶しています。

学校からの帰宅途中にグラマンによる機銃掃射を避けるために、麦畑に飛び込み隠れて九死に一生を得たことや防空壕の中の様子など戦争の話は子供の頃からよく聞かされてきました。

住んでいた熊谷市北部には陸軍通信隊が駐屯しており、小規模の攻撃が頻繁にあったようです。

熊谷が空襲にあったのは、米軍が埼玉県の県庁所在地を熊谷と誤認していたこと、中島飛行機の部品製造の中心地であったこと、特攻機操縦者の養成を行っていた陸軍熊谷飛行学校があったためだと言われています。

4,000ポンド爆弾4発を含む8,055発の爆弾・焼夷弾は、平方マイル(約2.56平方キロ)あたり96,833トンという国内では2番目の量の投下量だそうです。

4,000ポンド爆弾4発の投入については、その被害状況から大日本帝国政府・軍部に国内3発目の原爆が投下されたと誤認させるために用いられたものとされています。

街の1ブロックが消失すると言われる2トン弱の爆弾が4発も、しかも終戦前日から当日にかけて、埼玉の地方都市に落とされたという事実に対しては言葉がありません。

空襲によって市街地の2/3を焼失し、15,390名の罹災者(内死者266名、負傷者3,000名)を出した火は翌15日の夕刻にようやく消えたといいます。

天皇陛下による終戦の詔が放送されていた頃、熊谷はまだ燃えていたのです。

熊谷空襲を行った米軍飛行隊は、ポツダム宣言受諾による攻撃中止命令を受けていませんでした。

グアムを飛び立つ前にラジオで戦勝を知っていたという説もありますが、日本のポツダム宣言受諾の電報が届く数時間の隙間が生んだ悲劇です。

同じ頃、群馬県伊勢崎市でも空襲があり、熊谷・伊勢崎を襲ったB29は、帰途小田原にも余った爆弾を投下しました。

改めて思うのですが、私の両親が空襲で命を落としていたら…当然私はこの世に存在しません。

戦地で腹部銃創を負ったことを実の妹である私の母にも話すことなく、生還後教育者として88歳まで生きた伯父…、建物の外階段を駆け下りてきた中国兵を銃剣で刺し殺した伯父、戦犯としての逮捕訴追から免れるために、戦後名前を変えて自動車整備工として生きた大叔父…、満州からの帰還に際して、はぐれぬよう皆で竹を持ちながら縦列で歩き、力尽きて竹から手を離した者は置いていかれたと話してくれた伯父…、帰還することができなかった親族のほか、大戦を生き延びた人間もそれぞれが戦争の傷を負い、その上に今を生きる私達の生活があるのだと思います。

毎年8月16日には熊谷市街地を流れる星川で灯籠流しが行われます。

阿鼻叫喚の炎熱地獄の中、水を求め多くの方々が亡くなった場所です。

日本は戦後の誤った教育によって、お国を守るために散華された御英霊や、戦地に赴き生き延び生還した先人に対して無礼な世の中になってしまいました。

鎮魂という穏やかな心の中に、世の中を変えていかなければならないと思う心が私の内部にもたげる時季でもあります。

憲法を後生大事に平和を語る者に平和を守ることはできません。