4/26日長野で起こったこと
長野聖火リレー 日本人12人が被害申告(2008.5.21 22:48)
http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/080521/crm0805212249033-n1.htm
4月26日に長野市で行われた北京五輪の聖火リレーで、「中国人に暴行を受けた」として日本人12人が長野県警に被害申告し、このうち7件の被害届が受理されたことが分かった。
アリさんの日記から……アリさんは友達の友達のその友達です
4/26日長野。
そこには言論の自由はなかった。 歩行の自由すらなかった。
中国人を除いて。
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早朝、善光寺へ向かった。
Mちん、Tさん、F君、Yちゃんと5人で。
町には何台もの大型バスが乗り入れ、中国人が降りてくる。
僕らがそれぞれ旗を作り、プラカードを作り、前日からカラオケボックスで寝ていたのに対し、
彼らは中国大使館から支給された巨大な旗と、チャーターバスで堂々登場した。
善光寺参拝が終わり、街中へ。
とりあえず聖火リレー出発地点へ向かった。
ここで日本とは思えない景色を目にした。
出発地点に、中国の旗を持った人は入場できるが、チベットの旗を持った人は入れない。
警察の言い分。
「危険だから」
じゃあ、何で中国人はいいんだ?
「......ご協力お願いします。」
は?
それやらせじゃん。
中国国旗しかない沿道って、警察が作ってるんじゃん。
その時の抗議の様子
この後TBSの取材が来た。
チベットサポーターの1人が、
「日中記者交換協定があるから映せないのか?」とアナウンサーに聞いた。
アナウンサーは 「は?勝手に叫んでれば?」
と吐き捨てて消えた。
街中に行くとどこに行ってもFREETIBETと叫んでいる。
そこに中国人が押し寄せ、罵声を浴びせてくる。
交差点で中国人と僕らが入り乱れた。
突然Mちゃんが顔面を殴られた。
僕は殴った中国人のババアを捕まえて、目の前の警察に言った。
「こいつ殴ったぞ!!」
警察は何もしなかった。
ババアが俺の手を噛んだ。手から血が出た。
警察と目が合った。
警察は何もしなかった。
ババアが僕の顔面を殴ってきた。
周りのチベットーサポーターが、
「おい、警察、現行犯だろ、捕まえろよ!!!!」
と言ったのに、
警察は何もしなかった。
これが抗議活動中じゃなかったら、普通にブチ切れて乱闘になってる。
でも非暴力を貫く為、ひたすら耐えた。
Mちゃんが1日かけて一生懸命書いたプラカードを、
中国人が叩き落とした。
拾おうとするMちゃん。踏みつける中国人。
「おい、てめー何やってんだよ!」と制止に入った。
2mくらいの距離に警察がいたが、何もしなかった。
街中いたるところで抗議合戦。
救急車が来たり大騒ぎ。
僕らはひたすら抗議活動をした。
(動画あり)
雨が降ってきた。
それでも誰も抗議を辞めなかった。
中国人がかたまってる交差点を、
Tさんと旗を振りながら渡った。
沿道の中国人は蹴りを入れてくる。
とても沿道に入れず、車道を歩いていた。
警察が来て言った。
「早く沿道に入りなさい!!」
は?今入ったらボコられるじゃん。
なんで日本人の安全を守ってくれないの?
「じゃあ、あいつらに蹴りいれるの辞めさせろよ!!」と僕は叫んだ。
警察は「ご協力お願いします」と言った。
雨の中、聖火リレーのゴール地点へ向かった。
何故か中国人とチベットサポーターに分けられた。
警察は、「後で聖火の方に誘導するから。」と言った。
嘘だった。
ゴールの公園の外の何も無いスペースにチベットサポーターは閉じ込められた。
聖火なんか、どこにもなかった。
目の前には警察が何十人も取り囲んでいた。
こんな場所じゃ、声すら届かない。
数百人のチベットサポーターは、泣きながら警察に向かって叫ぶだけだった。
国境無き記者団もこちら側に来させられていた。
代表がマスコミのインタビューに答えていた。
聖火リレーがいつ終わったのかも分からないまま、
土砂降りの中僕らは叫び続けた。
この声を、伝えることすら出来ないのかと思ったら涙が溢れてきた。
MちゃんもF君も泣いていた。
こんなのってあんまりだ。
せめて伝えて欲しいだけなのに。
この叫びを聞いていたのは目の前に並んだ警察だけだった。
チベット人の代表が弾圧の現状を訴えた。
涙が止まらなかった。
内モンゴルの代表が弾圧の現状を訴えた。
涙がとまらなかった。
伝えたい。ただ伝えたいだけなのに、国家権力によって封殺された。
悔しい。悔しい。
日本は最低な国だ。
平和だ、人権だと騒ぐ割には、
中国の圧力に負けて平気でこういう事をする。
警察を使って。
帰りに携帯でニュースを見た。
「聖火リレーは無事終了。沿道は大歓迎ムード。」
「聖火リレーで日本人5人逮捕。中国人留学生に怪我。」
僕は愕然とした。
この国のマスコミは終わったと感じた。
あの怒号は、
僕らが受けた痛みは、
彼らの悲痛な叫びは、
どこに反映されたのだろう。
警察によって意図的に中国人のみの沿道を作り、
そこをマスコミは撮影し、
中国人の暴力を黙認して、日本人を逮捕する。
これが日本のやることか?
ここは本当に日本なのか?
中国の旗を持たないと歩けない沿道って何なんだ?
この国は最低な国です。
チベット人は泣きながらありがとうと言っていたけれど、
僕は彼らに謝りたかった。
初めて日本人であることを恥じた。
帰り道、僕らは泣いた。
これが真実です。
僕は日本政府は中国以下だと思った。
弾圧にNOを言えずに、言いなりになって彼らの叫びを封殺したこの国は、もう民主主義国家ではない。
ラサのチベット人若者による証言
TCHRD 2008年5月18日
http://www.phayul.com/news/article.aspx?article=Testimony+by+a+Tibetan+youth
TCHRDは3月のラサ騒乱後に逮捕されたチベット人若者の貴重な証言を入手した。
その若者は、刑務所での酷い拷問や、刑務所の廊下に溢れる苦痛の叫び、常時伝えられる恐怖体験談、外国からの支援への絶え間ない希望、釈放後の感想について語る。以下のインタビューは、第三者により口述され、証言者のプライバシー保護のためTCHRDが編集した。*はプライバシー保護のための省略部分。( )は補足。
3月*、百人ほどの兵士が私の家に来て、5枚のドアを壊し、全てのものをチェックし床に捨て、そこにいた人々を殴った。まるで強盗のようだった。多くの銃器も持ち込まれ、兵士らは私たちを手荒に扱った。私は逮捕された。彼らは私を連行し、私の親指を背中できつく縛ったため、2、3ヶ月もの間(左手の親指が)麻痺していた。
兵士らは私たちを厳しく扱った。話の最中、彼らは「こちらに勝ち目がある」と言い、私たちを殴った。最初は殺されると思っていた。頭を何度も強く殴られ、頭蓋骨を割られてもおかしくなかった。頭は体の他の部位とは違い、壊れやすいのだから。
私は刑務所に連行された。はじめの4日間は尋問もなく、ただ投獄されていた。一日につき蒸しパンの半分が与えられた。とても小さかった。みんな喉が渇いていた。多くは自分の尿を飲んでいた。(拘束者は水分を与えられない)。着るものも、毛布も、敷き布団も(コンクリートの床以外)何もなく、とても寒かった。4日間、誰も私たちに話さず、ただそこに放置されていた。
ラサは日中は静かで、何も起こらない。夜の11時から早朝の5ー6時の間に、数千人が逮捕される。4、5日後には、私たちの部屋の者は蒸しパン2つとお湯が与えられた。部屋には*人がいた。酷いことだ。多くの話を聞いた。多くの者は腕や足を折られたり、銃で撃たれた傷があったが、病院には連れて行かれなかった。彼らは私たちと一緒に部屋におり、本当に悲惨だった。21世紀にこのようなことが起こっているなんて信じられない。
例えば、4カ所も撃たれた少年がいた。傷の一カ所はここからここ(背中の左側から心臓近くの胸の左側を貫通)、一カ所はここからここ(左肘の内側から左手首の内側を貫通)、それからここ(右腕の外側を一直線に貫通)。何人かは肋骨を折られていた。一人の男は(右)目を殴られたので、目が腫れて黒と青のあざになっていた。ひどいことだ。歯を折られた人もいる。これらはただの一例である。このような酷いことがたくさん起こっている。
問題の一つとして、食べ物がなく、みんな飢えで倒れる。ある少年が同室のトイレの中に倒れた。彼は顔を切った(あごの部分)。多くの人が心理的問題を抱えており、そういった人々は最初にダウンした。Tse-Tang出身の少年は心の問題を抱えており、とても痩せていた。最初の頃は毎日2、3回倒れたが、誰も世話をしなかった。
ここはGondzhe(刑務所名)だが、ひどいことに、ラサには19の刑務所、Drapchiに最大の刑務所、Chushul(Qushu地方)に一カ所あるが、それらには囚人がおらず、彼らは訪問者に「刑務所には誰も入ってません」と空の刑務所の方を見せている。ただのやらせだ。普段は駅には刑務所がないが、彼らはDu-Long (Toelung Dechen 地方)の駅とGondzheに大きな建物を借りて人々をぶちこんでいる。
囚人はこれら3カ所に投獄されている。夜になると彼らは大型バスと多くの兵士を引き連れてやってくる。
100人から150人がDu-Long に連行された。彼らは帰宅を知らせにくる。「何も悪いことをしてないので、家に帰るのだ」と言い、人々をバスに乗せ、Du-Long か駅に連れてゆく。
彼らはこっちからあっちへ(刑務所から刑務所へ)移送される人々と他の人々を一緒くたにする。自分が見たわけではないが、友人から聞いた話によると、Du-Long で何人かの僧侶が頭に袋を被されて連行され、戻って来なかったそうだ。恐らく殺害されたのだろう。
私は65歳の老人に会った。2本の肋骨が折られて腰が曲がっており(と言って、曲がった腰をしてみせる)、まっすぐに立つことが出来ず、死にかけていた。そこで警察が人民病院へ彼を連れて行った。そこでは毎日(警察の暴行により)一人か二人死んでいる。病院に連れてゆかれる人々はほぼ撃たれたか殴られた人々で、たいてい病院で亡くなる。
*から来た姉弟は同室で起床していたが、突然兵士がやってきて高所の窓から地面に向かって二人を突き落とし、弟の方はその場で死んだ。建物のすぐ外で。姉の方は死ななかったが、横たわることが出来なくなった。常に座った姿勢でいなくてはならない。彼らは死体を引き取ってゆき、姉の方にこの事を口外しないよう告げた。* これらはただの数例で、他にもこのようなことが多数起きている。
無実の人々が尋問攻めにされている。彼らはただチベット人であるというだけ(で罪なのだ)。彼らはチベットの各地方の警察に連絡し、ラサには各地方からの人々がおらず、刑務所が空である。ラサには注目が集まるため、人々はラサから他の場所に連れてゆかれた。*僧院の僧侶たち、友人や親戚たちがどこにいるのか分からない。
中国はラサには兵士がいないと言っているが、兵士は平服で身分証をチェックしている。
私はチベットで起こっている事を人々に知って欲しい。私自身は殴られても構わない(家族に危害が及ぶ事を彼は心配している)。私はラサで何も悪い事をしなかった。
例えば、ラサの若者たちは、(3月)14日、一緒にいるだけで悪いと言う事になり、私も殴られ、「売られ」て(暴力を振るう看守のいる)刑務所に来た。しかし、私には*僧院に友達がおり、彼らを連行させるよりは死んだ方がマシだ。私は彼らが刑務所で行っている多くの事を目撃した。Dhadezhe(恐らくDartsedo地方)の男は新しい上着を着ていたが、その上着が真新しいため兵士は「盗んだのだろう」と言って男を殴り、死なせた。新しいコートのために殺されたのだ。
サウコ高校の学生がたくさんいる。(3月)14日の出来事に参加してもいない17歳の少年は服をみなはぎ取られ、手を縛られ、倒れるまで車で押された。ありとあらゆる拷問手段が使われている。この子はとても若く、罪を犯したわけでさえない。最終的に少年はやってもない事を自白したが、このケースは多い。彼らは拷問して、罪のない人々に罪を自白させる。
私は死体を見なかったが、毎日刑務所では人々が「誰それが死んだ」と叫び、警察か兵士を呼んでいた。Gondzheには建物が9つあり、各建物に11部屋あり、各部屋に20~30人が入れられている。誰かが中国人に電話で逮捕者数を尋ねたとき、中国人は「一万人以下」と答えていたが、これにはデプン、セラ、ラモチェ、ジョカンの僧侶が含まれない。私たちの釈放後、彼らは僧侶を逮捕した。釈放後にデプン寺の僧侶の多くが逮捕されたと聞いた。私は4月*日に釈放された。
釈放前にラモツェの僧侶に会った。この僧侶の事が心配だ。兵士は僧侶たちを特に酷く扱っている。Dezhe(恐らくDerge地方)の僧侶は指を折られ(と言って、完全に折れた指を見せる)、片目も完全に視力を奪われ、私たち以上に殴られた。なぜ僧侶にこのような酷い事をするのか理解できない。とても胸が痛む。
同じ刑務所で*(地方)の少年に会った。彼にはラサのラモチェ近くに住んでいる友人が二人いて、二人とも撃たた。Anichenko付近の病院があるが、一人は尼僧院に連れて行かれそこで亡くなった。21歳だ。名前は忘れた。もう一人は20歳で、撃たれて病院にいるが、彼ももうすぐ死ぬだろう。彼はGangsu通りで撃たれた。
ラサ近郊のAnishim 出身の*という名の少年が投獄されている。彼の二人の友人が射殺された。その友人と18歳の兄弟はPhenpo出身だった。Gondzheの刑務所には多くのPhenpo出身者がいる。
日中は静かで、全ては夜中に行われる。全てが極秘である。デプンやセラや駅には連絡用の電話がない。駅と連絡がつく事もある。しかし、ほとんどの場合、連絡不可能である。
私の親戚はインドにいる。見聞した事を書いてネットで送信した。内容は短く、ワードに保存したが、それが突然消えていたので怖くなった。そのためメールをチェックしていない。外国に多くの友人がおり、彼らからメールが来るのだが、開けていない。*
彼らは表面上、全てが穏便なように見せかけているが、内実は悲惨である。彼らはたいへん酷い事をし、私たちに問題を作るように仕向けている。ラモツェの人々は何もしなかったが、数千の兵士が僧院と寺を取り囲み、まるで刑務所のように車両で門を封じている。
耐えるべきだが私たちはもう我慢できない。人権がなく、文化的大量殺戮は現実であり、これは大問題であるが、例えば小さな問題として、ラサの北京路やGengshu路といったメインストリートに店を構えるチベット人はどれほどいるだろうか?ここはラサであり、中国ではない。チベット人はどうやって暮らしてゆけというのか?
中国人は大都市で勉強ができるため、チベット人よりも優れている。商売をする知識と資金を持っている。しかし、村出身のチベット人は、百姓か遊牧民で、お金がなく、どうやってラサで商売ができるのか?地元の者がラサで商売をすることと、中国人がラサで商売をすることの、どちらが重要なのか?なぜ中国の警察は、路の片側でチベット人が、もう片側で中国人が商売をすることを許可しないのか?そうすれば、バランスがとれるだろうに。多くの才能がある知的なチベット人がいるが、彼らには十分な資金がない。中国人は北京やシャンハイに住み、お金を持っている。これは小さい方の問題だ。
私は多くの事を目撃したが、平気だ。多くの事をこなせる。しかし、私は多くのチベット人とその暮らし、中国人の暮らしを見てきた。ここはチベットだ。地元民は中国人より優れてはいけない。しかし、バランスが必要だ。テレビで政府から年金をもらう何人かのチベット人の老人を見た。彼らはチベット人の悪口を言った。私は番組を見て彼らを笑った。チベット人の市民権のために闘ってくれている欧米人がたくさんいることは大変うれしいことだ。自宅で毎日もっと勉強したいが、できない。
テレビは嘘をつくので、胸が痛む(と言って胸を指す)。酷い事だ。そこで散歩に出ると、兵士が私に身分証を見せるように言う。身分証をチェックし、「どこの生まれだ」と尋ねる。少しでも間違いがあれば、もうおしまいだ。彼らは身分証の写真と顔を見比べるが、中国人は(身分証を見せずに)問題なく通れる。
* 昔はここは素晴らしい場所だったが、今はまるで刑務所だ。昔のラサのようではない。獄中で、チベットの警官が私に「ここに跪け」と言い、親指を背中で縛られた。彼は(私の前の椅子に)座り、私の頭に足をおき、額を蹴り、顔を何度もぶった。私はこの男を眺め、悲しく思った。彼はチベット人で、私は毎日彼に会う。(それ以来)何度も彼に会っている。多くの中国人とチベット人が私の背中に飛びつき、頭を殴ったり蹴ったりした。彼らが私の頭を後ろにひねったとき、彼らの顔が見えたが、顔を曝してこんな酷い事をするとは最悪だ。
これはほんの一例であるが、ここから多くの事を学んだ。刑務所内で、私はときどき食べ物の夢を見た。母や姉の作る我が家の料理で、においを嗅ぐ事ができ、家の料理のおいしさを心からありがたく思った。
普段私は全てたいらげ「まあまあだった」と言うのだが、今はその価値が分かった。このような最悪の出来事に遭遇したが、それによって良い人間になることを学んだ。時々、私の*の子供たちが来るが、宿題をやらないので、私は怒鳴ったり手を上げたりしていた。しかし、最近は子供たちを怒鳴ると胸が痛むようになった。私は多くを学んだ。
チベット人の人口減少について案じている。現在多くの者が死んだり、腕や足を折られて障害者になっており、悲惨だ。そして多くの者が私のように投獄されており、私はいつも囚人の事を思っている。彼らの悲惨な境遇について考える。いつも泣いている16歳17歳の若い人々のことを思うと悲しい。手足の折れた人や撃たれた人を見た。彼らの青ざめた顔を見るのは、とても悲しい事だ。
※Tibet Support Network Japan MLに投稿された翻訳文を転載しています。
ラサからの手紙
四川大地震のニュースが日々伝わってきます。
その陰でチベットへの弾圧はいまも、これからも、続きます。
この手紙はTibetan people's uprising5月10日の記事の翻訳文です。
TSNJ=TibetSupportNetworkJapanのメーリングで紹介された翻訳文を転載します。
原文はコチラ→http://tibetanuprising.org/2008/05/10/a-letter-from-lhasa/
※ラサとは、中国チベット自治区の区都
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2008年5月8日
下の手紙が、匿名希望のラサの住民から届いた。ラサの現在の状況と緊張感に関する私感が綴られている。
昨日は割と暖かく、ガソリンスタンドを警備する兵士たちは日よけの傘をさしていた。
今日はその反対で寒く、曇っており、暴風雨が山々や、時には谷間をさまよい、
雪もちらついている。天気と同じように、ラサの規則も変わりやすい。
ほとんどどこへでも行ける日の翌日に、軍の検問所が通行を禁じたりする。
先週の始めのうちは、日常がほとんど戻ってきたように見えた。
検問所の警備はリラックスしており、もう深刻そうには見えなかったし、
さらに通りの軍隊も少なくなっていた。しかし、軍の厳しい規制は突然戻ってきた。
数日前の夕方、私は北京路を歩いていた。たくさんの軍用トラックが通り過ぎ、
町中をパトロールしていた。一般車両はごく僅かで、通りにはほとんど一般市民がいなかった。
緊張感が漂い、普段は童顔の兵士たちが、突然恐ろしく見えた。
最近のラサの状況を述べるのは、包括的なことが分からないので難しい。
町を見回してみると、ポタラ宮殿の東のチベット旧市街以外は普通に見えるかもしれない。
旧市街では、軍が各交差点を押さえており、各通りの両側に立ち、身分証を厳しく
チェックしている。小さな路地にさえ、少なくとも4人の兵士がおり、その内の
少なくとも一人は銃剣を持ち、全員が盾と警棒、ヘルメットを装備している。
大きな交差点には警備の兵士も多く、通行人はチェックのために並ばなければならない。
漢民族はチベット人よりも簡単に通過できる。Tromsikhang地区とBarkhor地区に住む
チベット人は、自宅周囲への外出の許可を得るのに、警察の発行した特別許可証が必要となる。
ジョカン寺前の広場は、普段は五体投地をしたり、(宗教的な儀式として)
歩き回ったり、憩いにくる人たちで溢れているのだが、今は全く誰もいない。
広場の前では2人の青い制服の兵士が誰も広場に入らないよう見張っている。
どちらかが休む場合は緑の制服の兵士が突然現れ、普段は憩いの場であるこの広場に
人が入らないよう監視に当たる。ジョカン寺の周りの通りも空っぽだ。
通行できるのは近辺の住民のみだが、ジョカン寺を回るコルラ(宗教的なもの)
は全面的に禁止されている。いつもなら活気のある商店やコルラは影を潜め、
軍隊の警備のそばでサッカーなどをして遊んでいる小さな子供たちがいるぐらいだ。
政府は北京路とセラ路の工事を始めた。所々掘り返され、3月14日の抗議で
車が焼かれた際に残った跡を消している。抗議者が商店の窓を割るのに使った
北京路の敷石も、元通りに敷き直されている。ラサを歩いていると、まだ
焼かれたり壊されたりした商店が目につく。北京路だけでも焼かれたものが
約16軒あり、それには中国銀行と宝石店が含まれる。
道路や商店のみならず、いくつかの伝統的な古いチベットの家も再建されている。
ぱっと見には、厳格な軍の存在が見えないかもしれないが、ホテルや中庭、
塀の中にトラックやテント、訓練中の兵士などがいる。外から見えない全て
のスペースに、軍が存在している。空きビルや、建物の影、時にはラサ市立人民
病院の中庭に隠れている。
ラサの通りを歩くと、大きな茶店はたいがい閑散として、商店も閉まっており、
人々がどれほど恐れているかを感じることが出来る。
集まりには疑いがもたれるため、通りで友達に話しかける人もほとんどいない。
それほど恐れていない人に会って話ができることもある。決まっていつも同じ、
劇的で腹の立つ恐ろしい、悪夢のような話を聞く。しかしながら、それらを
裏付ける証拠もないため、メディアに情報を提供するのは難しい。3月14日以降、
ラサ市は戒厳下にあるが、軍のカメラに監視されているため、人々はジョカン寺
の前の戦車などの写真を撮ることを恐れている。通りの死体は軍によってすぐ
に運ばれ、実家などに安置してあった遺体も夜間の軍の捜索中、軍が引き取って
いった。兄弟や親戚、友達の死を証明する手だてが無い。彼らが行方不明に
なったことを確認することしかできない。犠牲者数や逮捕者数に関する噂
だけが飛び交っている。人々に不安が伝染している。
きのう、私はあるチベット人の男性と話をした。彼は自分と友人たちについて話し、
ラサで何が起こっているのかを世界中に知ってほしがっている。彼の持つ情報が
海外メディアに伝われば、ここの人々を助けてくれ、みんなもう怖がらなくても
良くなるので、私に情報を広めて欲しいと頼んできた。私と話すことによって彼は
逮捕や拷問を受けるリスクを冒しているのだが、そんなことも気にならないほど
必死な様子だった。彼や彼の家族、友人、そして私自身を守るため、彼と会った
場所や彼の年齢や職業の詳細には触れない。以下が彼が私に語った内容である。
「3月14日の午後に、私たちはラモチェ寺の前でデモが起きていることを聞いた。
その後、私たちはジョカン寺の前で射殺死体を運んでいる4人組を見て、非常に
恐ろしくなった。普通は政府は抗議者にはガスや水を使用するべきなのに、
ここでは抗議者は射殺される。そこで私たちは急いで帰宅した。
夕方6時頃、妻が子供を学校まで迎えにいった。その時には、軍は既に学校
のある通りに来ていた。軍は子供を迎えにきた人々に発砲していた。
足を撃たれた女性と、頭か首を撃たれて死んだ男性がいる。後で彼の兄弟が病院
に遺体を引き取りにきたが、病院は拒絶した。最終的に彼は病院に、遺体を
渡さないのなら自分自身と病院を燃やすと脅迫した。
そこで病院は遺体引き取りを許可したが、数時間後に軍が来て遺体を持っていった。
3月14日以降、遺体を鳥葬場に運ぶために3枚の書類が必要になった。
もしこの3枚を揃えていない場合には、軍によって強制的に遺体とともに自宅に
戻される。これは、チベット文化では不吉なことである。3枚の書類とは、
地方警察によるもの、病院によるもの、弁護士によるものである。
これを実行することで、政府は異常な状況のもとで亡くなった人たちを発見し、
家族から遺体を取り上げることが出来る。そのため、遺体の写真を撮ってチベット
の外の記者に見せることが出来ない。問題は、事務所がここ何日も閉鎖しているため、
家族の遺体をチベットの占星術に従った日に鳥葬場に運ぶことが出来ないことである。
5月14日から16日の間、軍が私たちの地区に深夜の家宅捜索にやってきて、
ダライラマの写真を持っていないかチェックし、身分証を持たない者を連行
していった。軍は抗議に参加した者の写真も持っており、その写真に写った
人々を捜していた。約50人の銃を持った兵士が私たちの家にやってきて、
徹底的に家宅捜索をした。3日間トイレに行く以外家から出られず、サンパ以外
に食べる物もなく、ガスの切れた家では湯を沸かすことも出来なかった。
私の住む長屋の門は閉ざされ、その前に兵士が立っていた。外に出ると彼らに
殴られた。3日後、政府のために働いている者たちに電話があり、彼らはみな
仕事に戻った。そうじゃない者たちはみな引き続き外出を禁じられた。
この就労許可を持たずに外出した少なくとも7人の人々が逮捕され、一人が射殺された。
3月27日から29日だったと思うが、外国人記者がラサに来たとき、
軍が急に通りから消えた。制服ではなく交通警官や門衛、私服などを着て、
彼らは外国人記者から見えないところに隠れていた。私たちにも急に外出許可が出た。
この3日間は検問所もなかった。外国人記者が自由に歩き回ることを許可された際には、
平服又は民族衣装を身に着けた職員が記者に同行し、彼らの質問に答え、メディアと
話した人々の写真を撮った。私はメディアに、やらせの影で何がここで本当に
起こっているのか伝えたかった。しかしながら、それを実行していれば後日
罰を受けることになるのでできなかった。ジョカンの僧たちがそれを伝えたことを
聞いたとき、私たちはとてもうれしかった。
ジョカン寺の中にいた巡礼者たちは、その3日間サクラを命じられていた
政府関係者たちだった。普段は彼らは宗教活動に携わることを許可されていないが、
その3日間はそうせねばならなかった。その他の政府関係者たちも、
ラサに自由があるように見せるために、家族を連れてバルコルやポタラに
行くよう休暇が出されていた。
外国人記者が去ったと同時に、軍は再び取り締まりを強化した。
外国人記者に訴えたジョカンの僧たちは、2日後に逮捕されたらしい。
4月17日から20日の間、セラ寺のほとんどの僧侶がどこかへ連れて行かれた。
セラ寺には普段300人の僧侶がいるが、今残っているのは礼拝堂の世話をする
ほんの数人である。15日から20日の深夜、軍のトラックが来て、
僧侶を拘束した。私たちはこの情報を寺の内部と寺の近所の人々から聞いた。
ラサ近郊の大僧院であるデプンとガンデンで何が起こっているのか知らないが、
僧侶たちは逮捕され、ラサからどこかへ連行されたと聞いている。
ラサ近郊の僧院から多くの僧侶と尼僧が連行され、残った者も軟禁されている。
オリンピックの聖火がラサを通過する際、再び抗議の起こることを政府は恐れて
いるのだろう。だから彼らを拘束するのだ。政府は抗議に参加したか否かを問わず、
僧侶を全て連行していった。僧院に残るのを許されたのは、礼拝堂の管理人、
運転手とわずかの僧院の労働者たちである。
最近、通りでほとんど僧侶を見かけない。チベットのテレビ局では、
怪しい者を見かけて通報した者には礼金が払われると宣伝しているので、
僧侶が通りを歩くのは危険である。礼金はわずかだが、それでも僧侶や尼僧を
見かけると通報する者もいる。先週以来、政府の学校の学生と教師以外でラサ出身
ではないチベット人は、故郷に帰るように命じられている。現在、警察が戸別訪問し、
ラサ出身ではない者は立ち退きを命じられる。聖火リレーの際には、地元民と
漢民族だけが許可される。
数年前のチベット解放50年記念の際に同じようなことがあった。
刑務所は今大きな問題を抱えている。食糧、水、毛布が不足している。
囚人は地べたに寝ねばならず、一杯の水しか与えられない日もある。
そのため健康を害し、体が弱くなり、刑務所内あるいは釈放後に死ぬ場合もある。
囚人たちは強く殴られる。特に腎臓、肝臓、胆のうなどを強打され、内部損傷により死に至る。
これは釈放された3人の友人たちから聞いた話だ。
私たちは獄中にいる家族や友人の身を案じている。助けなければならないのに、
どうすればよいのか分からない。だから外国人にこれを知り、助けて欲しい。
ラサには厳しいコントロールが敷かれている。身分証なしで外出できず、
地区によっては特別な書類も必要となる。集まったり議論していたりすると、逮捕される。
学校や職場では、人々は3月14日の出来事についての報告を書くよう強制され、
ダライラマ法王の悪口を言わねばならない。「ダライラマ」ではなく「ダライ」
と書かなくてはならない。そうしないと書き直しさせられる。
私の子供はこのような報告をもう3回も書かされている。
囚人の身を案じ、心配している。デモの後、イラク戦争のニュースで見たような
軍の乗り物を私たちの町の中で見かけた。こういった乗り物は、二国間の戦争のみに
使用されるものだと思っていた。チベットのTV局は、「戦争の疑似体験ができたの
は軍にとって訓練の良い機会であり、軍は人を撃って殺す訓練ができ良かった。
彼らはよくやった」と言っていた。
聖火リレーを迎える準備が始まった。彼らはポタラとジョカン広場を飾り付け
している。五輪の巨大ロゴがジョカンの前に掲げられたが、昨日の晩また取り外された。」
この男性の語ったストーリーは、私もまた別の人たちから聞いていた。
中国政府は、これから数ヶ月は外国人旅行者のチベット入りを許可しないだろう。
チベット人たちは、外国人にこの話のできるチャンスを望んでいる。
何が起こったのか知らせたがっている。
彼らは外国の助けが必要だと考えており、それゆえに、中国政府は外国人観光客
を禁じることで、ここの状況を統制し、検閲し、抑圧する考えなのだ。ラサで起
こったこと、現在も起こっていることは、非常に恐ろしくて悲しいことだ。
僧侶が中国の拷問手段や今回の弾圧に使用した銃のタイプについて話すのを
今まで聞いたことがなかった。そして、チベット人たちが怒りと絶望に
つき動かされ、殺されたり、長期投獄されるかも知れないようなことをするのを
今まで見たこともなかった。
勤労感謝の日(?)と5月の聖火リレーを控え、ラサには不安が高まり、
自宅軟禁によって食糧の蓄えが底をつく恐れがある。
検問所で兵士と議論する人々を毎日見かける。検問所を通ろうとする父娘に対し、
兵士は父親の方には通過を許可していたが、身分証を持つ年齢に達していない娘は
許可されなかった。
しかしながら、このような困難な時期にも、勇敢で善良な行動を見かける
ことが出来る。きのう、私は1、2歳の男の子を見た。この子は
「チベット人の精神」の良い見本を示していた。歩き始めたばかりのような子で、
おばあちゃんと犬の散歩をしていた。彼らは、青服の警官の監視するジョカン広場の
前に立っていた。おばあちゃんが体が弱って五体投地ができないため祈りを捧げて
いる間に、男の子は3歩広場に踏み入り、ジョカンに向かって五体投地をした。
その後で、男の子は兵士とおばあちゃんを見上げ、寺に向かって近づいていった。
警備の兵士は男の子を見ていたが、どうすればよいのか戸惑っていた。
10メートルほど先で男の子は立ち止まり、再び五体投地をした。
そして振り返り、警備の方へ歩いていき、彼の手を取り「さようなら」と言った。
これをみて、私は全てのチベット人の望むのは信教の自由と、文化を守る権利であるのだと思った。
人々はダライラマを非難する文章を書くことや、愛国再教育、生活を難儀にする規則
や決まりにうんざりしている。
2008年4月28日、ラサにて。
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