母は経営者と交際していた。
経営者には妻子があった。

ろくでなしだった。

母はしょっちゅう、金銭をせびられた。

やがて、母には子供ができた。

認知してもらって、名前ももらったが、母は、その男を捨てて、産まれたばかりの、私の兄を連れて、一人で生きようとした。

生活保護を受けたが、当時はとても厳しかった。働け。働け。と、口酸っぱく言われ続けた。

病気などをしてしまえば、息子を守れないと、真剣に悩んだ。

実母は何もしてくれなかったし、伯母にはこれ以上、世話になれなかった。

そんな折、私の父から連絡が来た。
父は30を過ぎ、結婚していなかった。
20代の父は体が弱く、30まで生き抜く自信がなかったが、30を過ぎ、なにか人生観が変わったらしい。

母をどうやって見つけたかと言えば、同窓生名簿の中で母だけが旧姓だったからだ。

高校の時、一度、千切れた釦を付けてくれたらしい。

…なんと、子供がいる。
これは好都合だった。
父は、自分に子供が出来る自信がなかった。
既に子供がいるなら安心だ。

…私が言うのもあれだが…

奇妙な男だ。奇特と言ってもいいが…
もっとも、重要なのは、母の負い目…連れ子という負い目…
それが、絆となる。
同昭和24年
母が産まれた。


広大な干拓の里

茶、柑橘、林業

干拓をして尚、広がる広大な遠浅の海には豊かな海産物。
農林業の片手間に潮時を見ては蛤を拾う。

結婚式の出来る宴会場や、呉服屋もあった。
高校もこの里にあった。

母の父は林業をしていた。亭主関白の人で、ちゃぶ台をしばしばひっくり返したという。
出稼ぎに行って、トンネルを掘っていたが、落盤に遭い、足を痛めてからは、仕事に行けず酒浸りだったようだ。
高血圧で、私の顔を見たか見ないかのうちに逝ってしまった。
私はこの祖父の名前を一字貰っている。

母の母は、稲作、茶園、柑橘、機織り、小規模ながらも、手広く仕事を抱えていた。
土方の手伝いにも行ったらしい。
メーデーにも行ったというのが、彼女の武勇伝だ。
我の強い人で、性格はあまり良いとは言えなかったようだ。

姉と弟が二人。

姉は母と違って、線が細くお嬢様気質だった。
器量が良かったからか?
仕事はろくにしなかったらしい。
母は器量はよくなかった。
しかし、母は非常に働き者だった。
捌ける人だった。

小学生2年生の頃には二人の弟の子守をしながら、家事をほぼ全て仕切った。
成績は常にトップクラス。

国家公務員の資格を取る。
高校卒業後は
大阪の伯母のもとに住まい、油屋で働く。
若くして事務の全てを取り仕切った。
灯油とガソリンの
裏帳簿をやりかえるスピードは抜群だったらしい。

話を聞きながら…税務署に勤めれば良かったのに…と子供ながらに思ったが、そこには大人の事情があった。



…たまには省みてみるのもいいじゃないか…との赦しを此処に添える。





昭和24年に父が生まれた。

漁業と細々とした農業しか産業のない小さな集落に。

祖父はお人好しの器量良しだった。躰が小さく、徴兵は免れた。

祖母は隣の集落から嫁いできていた。
集落で最も美しい人だった。
躰が弱く家事能力は0に等しかった。

曾祖父は船大工だったが、それだけでは食べていけない。
小さな田畑を作っていた。

農家の嫁というものは、非常に過酷な職業だ。

躰の弱い祖母には耐え難かった。



祖母は、父が小学生の時に父と父の妹を置いて、実家に帰ってしまった。
祖父は、二人の子を連れて、市街地に住まう親戚の家に身を寄せた。

ほどなく祖父は別の女性と入籍したが、長くは続かなかったようだ。

子供達は、祖母に手紙を送り続けていた。
やがて、祖父と祖母は再婚した。

集落に戻り、父には年の離れた妹と弟ができた。


父は高校生になり、母と一応、出逢う。
父は生徒会長だった。
成績はさほど良くなかったらしく、大学受験に失敗し、市街の郵船会社に就職して夜学に通った。
以降、郵船会社に42年、定年まで勤めた。