22年には満たなかったけれど。
わたしの大切な人がまたひとり、この世を去った。
“覚悟”しておくよう、この数か月言われ続けていた。
言われたところで出来るものか。
人の死はそれほど容易く処理できるものではない。
少なくとも自分はそうである。
身近に死を感じたのは14だった。
とてもお世話になった人。
当時は祖父母よりも近しい存在だった。
父も母も、わたしに遺体を見せなかった。
血縁上、遠いという理由もあったのかもしれないけれど、あえて見せなかったのかもしれない。
思春期のわたしにはまだ“死”というものがよくわからなかったのが事実ではあるし、小さい頃から世話になった、すごく懐いていた人の死を両親はわたしを気遣い見せなかったのが理由であると思う。
おかげで(といっていいのか)、わたしは未だにその故人は生きていて、ただなかなか会えない距離にいるかのようなそんな感覚でいる。
二度目は父方の祖父だった。
これは18の頃で、父の53の誕生日であった。
夏休みのその日、いつもより早く家を出て高校の離れで箏を引っ張り出し誰もまだ来ていない部屋でひとりで黙々と弾いていた。
祖父が亡くなったのはそんな時だった。
この時もなんだか信じられなくて、病院に駆けつけて祖父が運ばれている時、血の気のなさ…生気のなさに愕然とした。
遺体を、人の死を初めて目の当たりにしたのである。
祖父の手はひどくむくんでいた。
もともと痩せ形であった祖父の身体はもっと痩せていた。
気付けば、涙は流れていたし止まらなかった。
喪主は勿論父であった。
わたしはひっきりなしに泣いていたのだけれど、父は涙ひとつ見せず祖母を支え立っていた。
その背中を見てもっと堪らなくなって泣いた。
父の分も泣いてやろうと思った。
人の骨を拾ったのもこれが初めてだった。
先ほどまで目の前にいた祖父が骨という憐れもない姿で再度目の前に現れた。
愕然という言葉であっているのだろうか。
父が拾い、長男の弟が拾い、従兄のお兄ちゃんが拾い、わたしが拾う番だった。
何とも言えない感覚だった。
喉仏にも見えた。
あっという間で、しかしとても長い時間だった。
今よりもガキであったわたし自身は祖父に何か孝行できたのかと問いかけると、はいという二つ返事は冗談でも言えない。
時間には限りがあるということを身に染みて感じた。
祖父はそれから何度か夢に出た。
その度、父に報告するよう心がけている。
父は、弟が高校に入学したときに肩に祖父の重みを感じたという。
母は横で父が花粉がきつくもないその日、横で泣いているのを疑問に思ったのだという。
きっと、祖父だ。
母ははじめて父の涙を見た、と言った。
15日、明朝。
母方の祖父がこの世を去った。
最期に言葉を交わしたのは成人式の日だった。
ちょうど、父方の祖父がなくなる前に一度倒れた祖父はそれを境に一気に呆けが進んだ。
その後少し回復した、それが成人式の頃だった。
その頃、わたしは両親の反対を押し切り、既に大阪に住んでいたし、両親、祖母を含めなかなか会えていたなった。
会いに行った時の祖父のあの照れくさそうな顔にわたしもはにかみ、一緒に記念撮影をした。
まさかそれが最期になるなんて、その時は思いもしなかった。
思いたくもなかった。
再び、祖父が倒れた。
その頃やっとわたしは自分の就職が決まったのだと思う。
また、あの時みたいに回復するものだと思っていた。
それは本当に安易な考えであったということにあとあと後悔したのは言うまでもない。
それから月一度、できるだけ実家に戻って祖父の見舞いに行った。
その度、回数を重ねるたびに祖母がかわいそうに。という言葉を発するのが多くなっていった。
それに大丈夫やで、なんて声はかけられなかった。
わたしにだってわかる。
目の前で日に日に衰退していく老体を目の前にしているのだから。
祖父母は母の弟家族と住んでいたので祖母の身辺は安心であった。
それだけでも全然違うのだろうな。
知らせを聞いたのはその日の朝だった。
遅番だったのでゆっくりの朝を迎えるはずだったのだが、ケータイの着信で早く目覚めた。
7:14
時計は刻んでいた、着信の相手は母だった。
起こして、だなんてその日は何も言っていなかったのでおかしいと一瞬頭をかしげた時、よぎった。
祖父だ。
電話に出ると母のトーンの低い声がした。
知らせを聞いて、やはりうまく反応できなくて嘘、とだけ発したのは覚えている。
そして、まだ情報がよくわからないから、今日は仕事をしてくるよう言われ、切れた。
スーッと頭が冴えて何も考えられなくなって横たわっていた。
気付くと準備をしなくてはいけない時間になっていて、はっと気が付き用意をして家を出た。
妙に頭は冴えていたのか、きちんとスーツを着て出勤していた。
ロッカーについて、先輩に会ってどうしたんって声を掛けられて見ると涙が溢れていた。
仕事は仕事だから、仕切りなおして臨んだ。励んだ。
やっぱり気を使われて、帰るや大丈夫なんて声を掛けていただいたけれど、一度働くと自分で決めたのだからきちんと最後までとゆるげなかった。
いろいろとちょうど大変な時であったから、いらぬ心配や迷惑をこれ以上していただきたくなかった。
祖父もきっと仕事をして来いと言っただろう。
許してくれる。
終わらして、家路に向かった。
滋賀までの距離がいつもより長かった。
早く着けと願った、こんな時離れて暮らしているとやるせない。
申し訳なさだとかよくわからない、どこにもぶつけられないような感情でぐちゃぐちゃになった後、家に帰って布団に横たわり顔を覆われている祖父を目の前にした。
わたしがその日に来たのは最期であったので、周りはもうすでにやわらかい空気であった中、祖父を目の前にして声を殺して泣いた。
祖父との思い出が脳内を巡った。
ひとつ、またひとつ思い出す度、涙は流れた。
そして死と向き合ったのである。
通夜、葬式と一通り終わった。
内孫である従兄妹の妹はまだ10にも満たない歳である。
彼女はまだ“死”というものがわかっていないようでずっと燥いでいた。
無理もない、わたしでも14で向き合ったことなのである。
ただ、あまりにも理解のない彼女に腹を立てるというか、悲しく感じた。
彼女は祖父と10年も一緒に入れなかったのであるから。
数年後、彼女もわかる時がきっとくるはずだから、その時今日のことを思い出してほしい。
10になった彼女の兄もまだ少し理解の足りないところはあったろうけれど、涙を流していた。
2つだけでこれだけ違うのか、彼の感情が成長したのかはわからないけれど、きっとこの子は今日この日を忘れないだろう。
また、何もできなかったな。
母の涙を久しく見た、見ていられなかった。
おかしい話なのかもしれないけれど、両親の亡くなることを想像した。
それだけで涙は溢れる。
もっと大切にしなくては、と。
離れて住んでいるからこそ、会える時間が少ないからこそ、その時間を共有する時間を大切にしたい。
父と母に、妹や弟、両祖母、従兄妹や親せき、友達、先輩…あげるときりのないことだけれど、その人と共有するその一分一秒の価値を大切さをもっと感じて生きたい。
そしてその人たちに幸せでいてほしい。
それが愛なんだと思う。
普段は憎たらしいだとか、うるさいななんて口にしたりするけれどそんなことまで言える大事な人たち。
彼らがわたしをどう思っているかなんてそこには関係なくて。
わたしが彼らを大切に思っているかどうかが重要なことなんだ。
わたしは
じーちゃんのあの顔をいつも赤くして、ゆうこ、ゆうちゃんって呼んでにかっと笑っている姿がだいすきでした。
ほんまになんもできなかったし、お酒だって一緒に呑めなかった。
もっと一緒にいたかったよ。
わたしの結婚式にも出てほしかった。
ひ孫やでーとか見せてあげたかった。
じーちゃんのおかげで亀に触れたよ、今はあんまり触らないけどカエルもつかめたよ。
成人式の時の写真大切にするね。
ばーちゃんはちゃんとわたしやお母さんや家族、おっちゃんとみてるから。
寂しいやろけど、ばーちゃんを早くに呼ばないでね。
そのかわりにばーちゃんの耳鳴りを持って行ってあげてください。
向こうでゆっくりのんびり歌うたいながら、お酒呑んで待っててあげて。
ほんで、いつかわたしがそっちにいった時は乾杯しよな。
みんなを見守ってあげてね。
それからたまにゆめにでてきてくれると嬉しいです。
じゃあ、そっちでも笑ってるじーちゃんでいてね。
ありがとう。
ゆうこ


