月夜の縄綯
糀屋ふみ
いびつな形のローソクか、こどもの頃に読んだ絵本に出てくるゴーストか、としばらく考えて、かおりはようやくそれが人間と分った。白い粘土のようなもので塗り固めた、てのひらくらいの大きさの、人型のオブジェ。
ちいさな説明書きがあり、
”情報や文化の奔流により、進化しながらむしろはじめの混沌状態へと戻りつつある私たちをいっとき立止らせる、不思議な静謐さを持つ作品”
とある。
たしかにその乾いたのっぺらぼうの顔を見ていると、かおりはへんな気持ちがした。さっきまで頭を占めていたいろいろのこと――あさってのヨガレッスンで生徒たちに話すつもりの、月と人間の精神のかかわりについてや、教室に飾るちょっとしたインテリアがないか、そしていま隆志と話すべきちょうどいい話題――そんなものが、ばらばらと広がって消えていくような。
かおりはオブジェから目をそらし、店内を見まわす。
ニューヨークの近代美術館と関係のある店で、いたるところに派手なタッチの絵画やオブジェが飾られている。生活雑貨もあり、布製のロリポップのたわしや、フラスコの形をしたカラフルな一輪挿しなどがこまごまと棚に並び賑やかだ。
隆志にはじめて連れられてきたとき、なんて彼らしい場所なんだろうと感心した。ガラス窓からいっぱいに光が入り、都会的なセンスのある空間は、彼の部屋に似ていた。
「隆志って色々お店を知っててすごいよね」
と言うと、
「いや、おれは別にすごくないって」
隆志は笑ったけれど、かおりは、すてきなお店を知っているのがどれだけすごいことか、さらに言い募りそうになってやめた。こういうことは行き過ぎると独りよがりになりかねないからで、かおりはそのあたりの加減はわきまえている。
今夜、交際して三年記念日のディナーにフレンチの店を選んだのも隆志で、「オーナーシェフは若くして外国で修行したあと、◯×のホテルにもいたらしい」という情報つきだった。予約の時間までは周辺の店を見たりして、のんびり過ごそうということになっていた。
「ねえみて! あの絵」
かおりは壁際のインテリアのコーナーにかかっている絵を指して、
「あれ、師範に似てるよ」
側に行き、隆志はうわ本当だ、と笑う。
「口がそっくりじゃん。ガバッと開いて、ちいさい歯がぎっしり詰まってるとこ。おっかないな」
それは人の顔なのだけれど、実際にはないところに線が重ねてあったり、目は赤、口は青など独特な色遣いで、凄みがある。「師範」というのは、隆志のマンションの管理人のことだった。七十代後半くらいに見えるがまだまだ意識のさえた神経質なおじいさんで、掲示板にこまめに警告の張り紙をしたり、毎朝早くからゴミ捨て場に立って住民の分別のようすを見張り、ときどきおどろくほど響く声で叱咤したりする。
まじめに働く大人ばかりが棲むマンションでも、住民からは恐れられる存在だった。かおりと隆志もいつだったか、収集の時間ぎりぎりにゴミ袋を持っていったら、「遅いッ!」と一喝された。
あまりにもその発声がよく、民謡か詩吟か、分らないがとにかくかつては芸事をきわめた人じゃなかろうかという話になり、以来、かおりたちの中で彼は漠然と「師範」として君臨するようになった。隆志はそういう、何かを引用する笑いが好きで、かおりもまた洞察力を磨いてきたので、二人でそんな話をしてるときがいちばん盛り上がるのだった。
隆志はまだ興味深そうに絵を見ている。
それにしても、だいぶ私もアートが楽しめるようになったみたい、と思う。
元々かおりは、作品を見ても何も分らないばかりか、感興をもよおすということもなかった。
――これはなんだろう? いったい、なんのためにあるものなの?
考えつくのはそれくらいだった。
だからかおりがアートを好きになったのは隆志の影響だった。
いや、ほんとうに好きかと考えてみると、かおりは、分らなくなる。好きな自分でいたいとは思っていて、それは間違いないけれど、ゆえに好きだと思おうとしているだけかもしれない。錯覚かもしれない。けれど、やっぱり、自然に楽しめている気もする。
隆志の方は、「文化的な暮らし」を信条としているので、音楽や絵画、現代アートの空間なんか、とても好きなのだった。
はじめてのデートも庭園を散策できる美術館だったし(それはかおりがマッチングアプリのプロフィールにアート好きと書いていたから。実際は、その頃まだ勉強中というところだったけれど。書いたことのうち事実なのは年齢と都内在住のヨガインストラクターということだけ)近隣で開催される展示会はまめにチェックして、忙しくてもひと月に二度はかならず足を運ぶし、家のレコードプレーヤーの側にかけてあるグラフィックデザインの絵は月ごとに変わる。今は夕日で逆光になった街のシルエットだ。
それを楽しんでやっている。
いつか、隆志がチケットを取ってくれて、ジャズライブを見にいった。老舗の薄暗いジャズクラブで、お酒を飲みながらバンドの演奏を楽しんだ。
帰り道、かおりは隆志に伝わりやすいように、どこが良いと思ったかを具体的にあげた。ドラムのソロが格好良かったとか、何曲目を聴いていてこういう情景がうかんだとか。隆志はというと、何か考え込んでいるらしく口数が少なかった。
「どうかしたの?」
かおりが訊くと、いや、と呟いて、
「自分が、あのバンドの中の誰かだったらいいのにと思ってさ」
といった。
隆志は理知的な性格で、いつも考えを整然と話すのだけれど(かおりはだから隆志と話す時にはそのテイストを意識して取り入れている)、そういう、ときおりぽろっとこぼす言葉が、とても素直なのだった。
それは元々隆志が持っている素直な感受性から生まれていて、蛇口をしめていてもふくらんで落ちる一滴の雫のようで、かおりが隆志のうつくしいと思うところでもあった。
それに触れるときかおりは、隆志にかなわない、と思う。
いくらでも、習得しだいではいえるようになるのだろうけど、無意識からこぼれたときほどの光は放たないから。
かおりを構成しているもの。
それはほとんど何もかもが、意識的に「習得」したものだった。
隆志は知らない。けれど話す内容や声色、テンポ、表情。それだけじゃない、「自分」という人間の実感さえ、元々かおりは持っていなかったのだ。
そのことに思い当ったのは、大学三年の頃、当時付き合っていた恋人から「最後までかおりのことが分らなかった」といわれたときだった。
彼はかおりを、いい子だとは思うけどと前置きしてから、自分の話をまったくせず、笑ったり相槌をうったりしているだけで「自分」を出していないと評価した。
「ほら、また”そっか”って。そういう反応しかないから、話してるうちに混乱してくるんだ。かおりはどう思うの。今、別れ話しているんだよ? おれにキャパがないから、思ってることが言いづらいの?」
そんなんじゃないよ。
そう返したものの、頭のなかはひとつの問いでいっぱいになっていた。
――「自分」ってなんだろう?
彼とは、入学当初に学科の先輩から勧誘されてなんとなく入ったオーランサークルで一緒だった。フットサルや旅行、飲み会となんでもやるサークルの仲間から恋人になり、かおりなりにありのままで付き合っているつもりだった。
パエリヤが好きだといえば練習して振舞ったり、グアム旅行にいこうというのでそこまで興味はなかったけれどそれはそれで楽しんだし、試合人数さえあやしい野球中継をスポーツバーで何時間も付き合ったりした。おしゃべりだって、サークルの人たちの批評やうわさを、否定せずに受け入れた。
それではだめだったのか。
もっと不満やわがままをいったり、突飛なことを思いついたり、好きなものについて熱く語ったり、そういうことをしてほしいという意味なのかもしれない。
それで自分の中に、そういうものをさがして、気がついた。
人に表明したいものを、かおりは何も持っていないということ。
かおりはそれまで、なんだかんだで本当に人間関係に困ったことはなかった。小さい頃からその時々でグループがあり、いつもかおりは聞き役だった。周りの子がうわさや流行りもので盛り上がるのに合わせて笑う。彼女たちが話すことはいつも、薄い皮を一枚挟んだようにきこえていたけれど、かおりにとってはずっとそれが普通だった。
けれど、自分から話したいことはなくて、だからかおりの番になった時には困った。何をいえばいいのか分らず、最初から、かおりの頭の中と周りをつなぐ電話線のようなものがぷっつりと切れていることに気づかされて焦る。
そういうときは相手から話を引き出した。彼といるときは沈黙がゆるされると思い、彼が口をひらかなければかおりもいつまででも黙っていた。
言葉がない。
それはつまり、相手に見せる「自分」がないということ。
そう気づいた瞬間から、突然、周りの風景がよそよそしく、自分とかかわりなく動きだした。昔、学校行事で行った演劇みたいに、どこかの方向へむかっている人たちをただ客席で眺めている感覚だった。
人に会うのがだんだん億劫に感じてきて、大学では友達と行動をずらすようになった。体の作りが変ってしまったのかいっきに気力もなくなり、卒業してからは地元の薬局でアルバイトをする日々だった。
家とバイトの行き来なら、自分を形作る必要はない。世話好きなパートのおばさんがいて、最初のうちは「休みの日、何してるの?」と聞いてきたりしたけれど、それすらどぎまぎした。言えるようなことは何もしていないのだから。そのうちに話しかけられなくなって、ホッとした。
無心でレジを打っているとふいに、人の輪の中にいた頃を思い出すことがあった。
陽のさすキャンパスを笑いながら歩いたり、居酒屋の狭い座敷で肩を寄合い誰かのいったことに盛り上がったり、授業の空いた時間にカフェにいって甘いドリンクを交換しあって飲んだりしたこと。
何もかもが幻みたいだった。
それをする自信が、もうかおりには無くなっていた。なんて難しいことをしていたんだろう、と。諦めると楽になり、けれどますます自分の存在の実感が薄くなっていく。いろいろなことに確信が持てなくなってくる。
私はほんとうに人間なのかな、だとか。
言葉は、人間だけがもつ特性と考えられていたのが、最近は鼠や蛸さえしゃべるらしい。
仲間に危険を知らせたり、性的アピールをするにとどまっているけれど、動物だってそのくらいのことは伝えられる。じゃあ何が人間を人間たらしめているかといえば、生殖や生存以外の、よぶんな、自由な思想がそれだ。
見た目がそれなだけじゃまだ人間じゃないんだ、かおりはひとりで考える時間が増え、そんなことも思いついた。
街にもテレビにもインターネットにも、世の中に人間はとても沢山いた。声と文字が溢れかえり、みんないったいそんなに何を話しているのか気になった。
あるときテレビで、若手女優の素顔を掘下げるという番組をかおりは見た。彼女が「思いつきで一人旅に出るのが好き」といったら、周りのタレントたちがおもしろがり、質問したりして盛り上がっていて、ふと同じことをしてみようと思い立った。
そして翌日の昼には、新幹線に乗り、彼女が言っていたのと同じ街に降立っていたのだった。バイト先には熱が出たといって。
そして結果的に、この旅がかおりにとって大きな意味を持つことになる。
紅葉にはまだ早い時期だったけれど、眺めのいい名所が多い観光地だからか、旅行客が行きかっていた。かおりは行くあてもなかったのでとりあえず駅ビルで昼ご飯をとり、観光案内所にあったマップを片手に、紹介されているお寺や土産物屋をひととおり訪ねた。
どこにも人がいて、しかし知っている顔はひとつもなかった。もちろん、かおりを知る人も。誰にも自分は見えていないのかもしれない、と思った。人の間をすり抜け、ずっとだまって歩いていると、いよいよ体が軽く透明になってゆくみたいだった。
日が暮れてから、栄えている飲食店街の居酒屋に入って酒で少し気分があがり、そこもマップに載っていた、川辺へ下りてみた。
カップルや学生グループなどが固まって、ずっと先まで、川に沿って等間隔に黒い人影が続いていた。かおりは空いたところに腰掛けてみたけれど、手持ちぶさたですぐに引き上げホテルへ向った。
行きの新幹線でとっておいたカプセルホテルは、川近くの雑居ビルの十階にあった。
蓮の花みたいだと、チェックインをすませ、宿泊スペースを見たときかおりは思った。花びらが落ちて、穴のひとつひとつに種を持っている緑色の台座のようなあれだ。
壁いっぱいの穴のドアが閉じたり開いたりしている。閉じているのは人が入っているのだろう。しらない他人がその中で横たわる姿を想像すると、生まれ出る前の状態のような、死んでしまったあとの状態のような、見てはいけないものがすぐ側にあるようでどきどきした。
フローリングのスペースがあり、くつろげるようになっていて、中年の男が雑誌を広げたり、派手な女の子たちがしゃべったりしている。かおりは本棚からてきとうに雑誌を取って女の子たちから少し離れたところに座った。
ページをめくると、情報がとびこんでくる。秋の最先端メイクとファッション、韓流アイドルグループの素顔、新しくオープンするデザイナーズホテル。色とりどりの写真が載っているけれど、目はページの上をすべっていく。そのうちに女の子たちの会話が聞こえてくる。
「もうトシですわ。いっちゃんヤコバ使ってたの、二十一とか? もうむりだね、体じゅうがたきてる。超むくむし」
白っぽい金髪に濃いアイメイクをした方が、スカートから出したふくらはぎを揉みながらいう。
「わかるー。腰、カンゼンにおわったもん。次から新幹線するかあ」
真っ黒な髪を顎下で短冊のように切り揃え、さらに背中まで長く垂らした方は、スマホに目を落としたまま答えている。
「もはや内側からコンポンカイゼンしたいよね。……うわみて、むくみすぎて足に指の跡つくんだけど」
「どれ? ほんとだ。てかまじそのネイルかわいい」
「そー、最近めっちゃ絵うまいネイリストさんに出会ってさ。見て、ここ◯×くんの顔入ってんの」
「いいやん」
本人たちは無意識なのだろうけれど、話題が自然に、あざやかに移り変ってゆく。距離が近いので言っていることは聞き取れる。けれど、不思議な世界を垣間見ているようだった。会話の断片から、彼女たちの生活や思考が感じられた。今かわされている言葉は、もっと豊かな世界のほんの一部を表しているのだ。かおりはページをめくる手をとめ、気づけば会話に耳を傾けていた。
夜ふけ、スペースにはかおり一人が残った。
フローリングに斜めに光が入っていて、ふり向くと、窓の向こうに満月が出ていた。
膝の上にひらいたままの雑誌に目をやると、最近人気の俳優のインタビュー記事だった。ホストの役に挑戦したらしい。さわやかな笑顔の横にコメントが載っている。
”リアリティを追求するために、実際にお店に行かせてもらって、裏からずっと観察していました。ちょっと怪しかったかも(笑)。でもそのおかげで、役のイメージが明確に固まったんです”
かおりはふとひらめいた。
彼女たちが手がかりになる、と。
それから思い出せるかぎり、さっきの会話をスマホにメモしはじめた。単語だけでも、断片的でも、とにかくこれだと思い指が止まらなかった。興奮で手がふるえ、時々打ち間違ってはもどかしく消しながら、かおりは入力し続けた。
翌朝、かおりは早く起きて支度をすませ、タイミングを見計らって彼女たちと同時にチェックアウトした。
エレベーターの箱の中で二人はスマホを見ながらこれからの予定を話し合っていた。今日はアニメのロケ地になった神社を見にいくらしい。その間かおりはスマホをいじるふうに、会話を打ちこんだ。
ビルを出てからも距離をとって後をついていった。途中、金髪がふり向いたので目が合ってしまい、側のコンビニに逃げこみ、少したってから後ろ姿を見送った。もう彼女たちの姿はなかった。仕方なくふたたびコンビニに入ると、雑誌コーナーの、この辺りに住んでいるのであろうスウェットを着たカップルが目に止まる。隣の棚のコミックスを覗き込むふりをして、かおりは耳をすました。ヨガって効くんかなあ、彼女が美容雑誌を手に取り、彼にぼそぼそと話している。わからん。ちょっとやってみたいんよね。ふうん、覚えたら教えてよ。
東京に戻ってからかおりは本格的に人びとを観察しはじめた。カフェやレストランなど食べながら会話をする場所、電車の中、通りを歩きながら、コンビニで棚を見ている時、美術館の入場列……。それぞれの場面で彼らが何を話し、つまりどんな人間をしているのかを知りたかった。かおりがこれからなるべき人間像をつくるために。
大通りを歩くハイセンスなカップルの会話を聞くために、三人目としてさりげなく斜め後ろに並んで男を挟む感じになった。喫茶店の後ろの席で盛り上がっている社会人一年目らしい女の子たちの会話は、椅子を下げて背もたれにもたれる体勢になって近づいたので、しょっちゅう無意識に肘で突かれた。
最初はまったくうまく聞き取れなくて、話の意味も分らず、自分だけ仲間外れにされている感覚になりさえした。
それがずっと集中していると、ある瞬間からいきなり言葉が拾えるようになる。どういうことを言っているのか、体系的にまとまってくるのである。
スマホでメモして、その会話をもとに趣味や職業、性格を想像してノートに書きだした。ノートはあっという間にたまっていった。これまで勉強が特別好きと思ったことはなかったけれど、この作業にはのめり込んだ。なにせ、やらなければもうどうにもならないのだから。
魅力があった人たちの要素を集めるうち、かおりにとっての理想の人間像が見えてきた。
ネイルを施す女になろう、というのが、端的にいうとかおりの目指すところだった。
あらゆる話をしている女たちの中でも、世故たけた雰囲気がある人はほとんどみんな、爪が綺麗だった。ただ整えるだけではなくて、十個のちいさなスペースをいろんな色と模様で飾って、季節や趣味、何かしらを表現していた。
爪を眺めながら、「すぐ伸びちゃうから二週間に一回はサロンに行ってるんだよね」と言っている人もいて、かおりは衝撃を受けた。
伸び続ける爪にわざわざ、こまめにデザインをしにいくなんて、なんて素晴らしいむだなのだろう、と。
それこそが、かおりがやっていかなければならないことの象徴に思えた。伸びれば切るという、最低限のことだけしていたのを思うと、きっとこういうひとつひとつの選択が人格形成にかかわるんだと気が引き締まった。
そこからさらに細かいことを固めていった。
たとえば、ドラマや美容など流行に敏感で、おしゃべり好き。けれどしゃべり方や手振りはおだやかで落ち着いている。手に職ついていて、休みの日にはひとりでふらっと旅行にいったりと自立している。ファッションは百貨店のとあるブランドのイメージで、落ち着いた色合いだけれど、ユニークな素材の組合せを楽しむ。香水は水性でオレンジフラワーをほんのりと。洞察力があり、言うべきことは言葉を選んできちんと伝えられる。アートも好きで、美術館にいくとじっくり展示をみるので三時間くらいかかる。……
そしてそうなるための「習得」の日々が始まった。必要な知識を詰めて、話ができるようにする。腹をくくって、ひとりの人間としてふるまうのだ。
自然なことじゃないかもしれない、それでも広く考えれば誰だってやっていることのはずだった。サッカー選手をめざすなら練習して精神を鍛えるし、花嫁になりたいなら出会うために相談所にいったり、ダイエットしたりする。すこし昔なら、花嫁修行なんて言葉もあったくらい。
かおりは、人間になりたかった。
一番わかりやすく身になったのは、仕事として選んだヨガインストラクターだった。
人々を見ていて、ある程度は共通して関心を持ちそうなのが美容と健康だったからだ。ヨガはどちらにも通じるし、肩書きとして分りやすく、究めればそれについて話すこともできる。イベントや講習会などで同業者との交流も多いから、人の輪も広がりそうで、いいことづくめに思えた。
そこからヨガに通い始め、勉強に励んで試験もクリアし、二十五歳で都内に展開する教室のインストラクターとして働くことになった。
仕事にすると決めてから通うという、あんまりない順番ではあったけれど、実際にヨガがもたらす効果にかおりは感動した。最初は体が硬くてポーズをとるのも必死だったのが、続けるうちにだんだんと動きがしなやかになる。すると、体の動く範囲が広がっていくのと同時に、自分自身もどこまでも伸びていけるような気持ちになるのだった。
インストラクターとして二年目を迎える頃には、もう大丈夫になったな、とかおりは思った。
そしてマッチングアプリを始めたのだった。友達との会話には恋愛がつきものだ、と思って。
自分を説明する言葉はすでにあったので、プロフィールはすらすらと埋めることができた。今まで決めていなかった事がら、好きなデート内容だとか、割り勘の価値観なんかはこの時に決めた。書いてしまうと、なんだかロボットの説明書のようで自分のこととは思えなかった。
でもそれは相手についても同じだった。
隆志のプロフィールは最初、気後れするほど立派な内容だったから。いわゆるいい大学を出て、在学中は広告を学び、文化祭の実行委員でライブにマニアックなアーティストを招いていた。他にも語学や音楽関係のサークルにいくつか。好きなアーティストや、関心のあることも洗練された雰囲気があった。
美術館が好きだという、一応の共通点からやりとりをするようになったときもかおりは内心身がまえていたけれど、会ってみるとそんなことはない、自然な人柄だった。
社会人になってすぐ彼女と別れ、出会いはなかったけれど、仕事が忙しく趣味でみたされていたのでそのままだったらしい。最近誕生日を迎え、人恋しくなってアプリを始めたのだという。
初めてのデートは、土曜日の夜だったのでどこも混んでいて、店構えが古めかしい居酒屋に入った。混んだカウンターになんとか入れてもらい、
「申し訳ない、おれがどこか予約してたら良かったんですけど」
「全然。こういうお店、好きです」
「なら良かった。なんか、居酒屋とかあんまり行かないのかと勝手に思っちゃってました」
かおりは緩く手を振った。
「大学時代、こういうお店でだいぶ鍛えられたんです」
「意外だ。聞きたいような、こわいような」
「後でゆっくり。とりあえずメニュー見ましょ」
テーブルに立ててあったメニューを二人の間にひらくと、
「爪、いいっすね」
隆志の目線がかおりの指先にあった。
「レッスンがあるから伸ばせないんですけど、ここに色があると気分あがるんです。ベージュとブラウンのグラデーションなんだけど、明るいところでみると、うっすらラメも入ってて、ほら」
テーブルのライトが当たる位置に手をおくと、ほー、と心から感心したように覗き込む。
「すごいな。女の子って感じ。あ、待った、今そういうの良くないのか」
慌てていうのがおかしかった。
「いや、素直な感想、言っていきましょう」
かおりは笑った。
かおりは、ほんというとアプリにはそこまで期待していなかった。何人か会ってみたけれどぴんと来なかったし、とりあえず最近の活動報告として周りに話せるので充分だった。
けれど隆志とは、何度か会ううちにこの人がいいかもと思った。彼がかおりの印象や、どう見えているかを意外にも率直にいうので、それについて補足したり、違うとかそうだとか、いうのがかおりには楽しかったのだ。
そうして隆志が、かおりという人間の形を、まるで木の塊から仏像を彫り出す職人のように、少しずつとらえていくのをかおりは見守った。
そしてその彫り出された形が、好きだった。かおりがなりたいと思うイメージに近いのがよかった。また、隆志も好きになってくれたようだった。
三回目のデートの帰り、駅へ向かう道で隆志に付き合ってくださいと言われたとき、かおりはこう思った。
――この人には、私が見えているんだ。
隆志は人間の達人だと思っていて、だから一緒にいると、かおりまでそうなっていく気がする。
仕事をどこかで割り切りながらも懸命にやり、稼いだお金で美味しいものを食べたり、いい音楽を聴いたり、旅行にいく。二人でそんなふうに過ごしてきた。
季節のイベントも好きで、かおりは夏の砂浜の熱さや、夕凪のころの切なさ、冬のスキー場でのたのしい体のだるさ、そういうものを脳に教えこむように味わった。
「海とか、めんどくさいって人もいるからさ。かおりが楽しんでくれてうれしい」
タオルや浮輪の入った荷物を積んだ車の中、前を向いてハンドルを握る隆志がそういうとき、かおりはまたひとつデータが付け足された、と思う。
どんどん、人間になってゆく。
だから二人でしゃべるのも好きだった。隆志の家の近くに馴染みのバーがあり、店主とも仲が良いので、空いている時はたいてい広めのテーブルに通してくれる。
「最近のドラマだとね、あれが面白かった。お母さんを早くに亡くして後悔のある人たちが『レンタルマザー』っていうサービスを使って、ふるさとでお母さんと過ごす擬似体験をするの」
かおりは手ぶりを使って話す。手首につけたティファニーの金のブレスレットは、この夏インストラクターとして独立した折に、自分で買ったものだった。
「バスに乗って東北のある村に着くと、民家から年老いたお母さんが出迎えてくれて、ちゃんと好物のご飯を用意してくれてるの。けんちん汁だとか、芋の煮っころがしとかね。だけどその村も、お母さんも、ほんとうは全部作られたもの。ひとつの村全体を舞台セットにした、大掛かりなサービスなの。事前に渡してある情報を元に全部作り込まれているだけ」
「ほう」
「でもそれでお客さんはちゃんと癒されるのね。サービスが終わる時間になると、また帰るからって号泣して、その見ず知らずのおばあさんを抱きしめたりして。そしてすぐにリピートするわけ。思い込みの力って、すごいと思わない?」
なんかぶきみだな、と隆志はグラスを傾け、
「てかおりってさ、好きなものを話すとき、ちょっと涙ぐんでるよな」
「うそ。熱く話しすぎたかも」
「視点があるから聞いてて楽しい」
そうしてしゃべるうちに見事に電車がなくなって、三十分くらいかけて隆志の家まで歩く。拡張工事している道路の仕上がりをみたり、コンビニで雑誌を眺めたり、うたったりして。
ゆるやかな坂になっている通りにはハイブランドの店が並んでいる。かおりはこの通りを歩くのが、何をするときより好きだ。煌びやかなショウウィンドウ、整然とつづく街路樹、綺麗な服に身を包んだ人たち。作り物のようなこの街のもつ晴々しさが、人間賛歌をうたう劇の中にいるような気分になるのだ。
「ね、ちょっと待って」
かおりは隆志の腕をひき、異国のホテルに似た建物の壁にはめ込まれたディスプレイをみる。ティファニーだ。
「なに、これ?」
隆志が覗きこむ。凛とすずしげなブルーの箱の中に、金のバングルがふたつ、パーティの紙の輪のように結ばれて浮んでいる。細かいダイヤモンドのちいさな光の列。
隆志の腕に絡めている、手首のブレスレットよりもさらに高価なのに違いなく、かおりはどきどきと見つめる。
「大事な節目にアクセサリーを買う」というのは、カフェで話していた女がいっていたのだった。ショートカットで、襟のぱりっとしたシャツワンピースを着た彼女はいかにも仕事ができるいい女という感じで、ライターとして独立した時にこれを買ったの、と友人に話しながら銀色の指輪をなぞっていた。
その姿が魅力的だったのをかおりは覚えていて、フリーになる決断をしたとき、ここに来たのだった。ティファニーにしたのは、映画をみて華やかな印象を持ったからだった。
こういう店にひとりで入るのはそのときが初めてで、かおりは入るまでに何度も身だしなみを確認した。秘密で潜入するような、バレちゃいけない、という緊張感があった。何がなのかは、ともかく。
お客に対してひとりのコンシェルジュがつくのは、イメージはあったけれど実際に体験すると感慨深いものだった。おそらく同世代くらいの男のコンシェルジュがつかず離れず慇懃な姿勢でかおりを見守り、「それは伝統的なデザインでして……」などと教えてくれた。
彼のおかげでかおりは、イメージとして持っていた上品さだけでなく、鎖帷子や南京錠といったハードなモチーフから着想をえているアクセサリーが多いのを知った。
フロアの奥の、深い青のテーブルに案内され、チェーンのブレスレットをためした。ひとめ見たとき、その細かいながらゴツゴツとしたタフさのあるデザインが気になった。
彼は、盆のようなものにのせたブレスレットを、両手で扱い、かおりの手首にはめた。
まるでひそやかな儀式だった。
それはかおりの肌の上でちらちらと光った。丸みのある鎖を繋げたもので、派手すぎず、しかしちゃんと存在感があり、かおり好みのデザインだった。
でもいちばんときめいたのは、その重みだった。
一粒ずつの鎖がしっくりと重く、これまで身軽だった手首に心地よい気だるさが生まれた。この重みがすごくいい、と思った。
隣のカフェに入って、さっそく包みをほどいてつけてみた。ランチが終り周りがゆったりとティータイムをしているなか、靴を小刻みに鳴らしたり、ひとりで笑ったり、そわそわとかおりはそのチェーンの重みを楽しんだ。お守りのような安心感があって、以来、いつもつけている。
「いくらくらいするんだろうな」
「欲しいな、いつか」
ブレスレットは、値段からすると手が届くものだった。店には、細かいダイヤがちりばめられたネックレスやブルーの時計、目がくらむほどにまだまだある。今は手に入れられないけれど、それをひとつひとつ買っていくのをイメージするのはかおりの楽しみにもなった。
ショウウィンドウの暗い部分にかおりの姿が映っている。
今日は柔らかいシースルーのトップスに、縮緬のようなしわ模様のあるボトムスを合わせた。どちらもホワイトなので、黒いヒールで締め、店内で冷えないようにグレーの薄手のジャケットを羽織っている。ずるっとしたシルエットだけれど、明るい茶髪をボブに切っているので、バランスはいい。
かおりは満足する。
そこに映るのは、健康的な美しさをもち、意欲的に人生を楽しんでいる女だった。独立してからはますますそうなっている。
かおりは仕事が好きだ。仕事は、向かう方向や吸収することがある程度決まっているから、深めていくのはちっとも苦ではない。勉強し、吸収したものを日々のレッスンで取り入れる。フリーになってからはよりその自由度が増した。
ヨガは「ありのままの自分で」というメッセージがよく伝えられるけれど、かおりはその言葉を使わなかった。かわりに、「体が先、心は後」と伝えている。
まずは体をリラックスさせることに集中する。筋肉がほぐれたり、筋が伸びたり、物理的に心地よくなってきたその後で、心も整ってくる。
かおりの実感を伴うそのメッセージを、いいと言ってくれる生徒もいた。
今、毎日忙しい。これまでの教室からそのまま通ってくれている生徒がほとんどで、もっと積極的に告知や企画をしていかなくてはいけない。その他のこまごました事務もひとりでやっているので、つねに考えることがある。
でもその方が、周りにアドバイスをもらったり、考えたことを話してみたり、張り合いが出ていいのだった。
隆志が予約してくれていたレストランは、住宅街にある教会に併設されていた。アイアンレースの門をくぐると、黄金色にライトアップされた木々が出迎えてくれる。建物の壁に丸いアーチ型にくり抜かれた窓があり、暖かな明かりがもれていた。
深い青のタイルでふちどられた、ヨーロッパの港町の写真がはめ込まれた石版、隣にはたて笛を奏でる天使の石像が立っている。いつか隆志と見た、異国の島を舞台にした戦争映画に出てくる教会に似ているとかおりは思った。残酷だが、情景と音楽がロマンチックなのだ。
順番に料理が運ばれてくる。季節を表現したコースで、素材をいかして、なつかしい風景が皿の上に再現されているのもうつくしかった。
ガラスのクローシュをとり、冷気の靄に包まれひんやりとした鮑のジュレ、夕陽のような色のコンソメスープ、香ばしいステーキの上にふらせたフォアグラの落ち葉……。
どれもバランスのよく練られた、絶妙な味わいだった。
「うまいね」
向かい合う隆志の瞳はきらきらと輝いている。その瞳からこぼれ出すようにちいさくクラシックがかかっている。周りに円形のテーブルが星のようにちらばって、みんな思い思いに会話をしている。
「最初の記念日、覚えてる?」
かおりは口を開く。
「ん?」
「ディナーの帰り道。路地に石が落ちてて、お互いに、好きなところを言い合いながら、石蹴りしたの」
「懐かしい。てか照れるわ、酔っ払ってたとはいえ」
「でもうれしかったな。自分の軸があるところって言ってくれたでしょ。私、それがこの世で二番目にいわれて嬉しい言葉なの」
「一番は何?」
「なんでしょう、当てて」
「綺麗だね」
「ちがう」
「ヨガ上手だね」
「ちがうなあ」
修行します、と隆志がまじめな顔をつくっていうのでかおりは笑ってしまう。
デザートには洋梨のフランベが出た。ウェイターがコンロを運んできて、テーブルの横で見せてくれた。紅いワインソースを火にかけ、生地をひたしてアルコールをふりかけると一瞬炎が上がる。頬がかっと熱くなり、そのあとにほろ苦い香りが立ち上った。魔術のようだった。
紅茶のカップに口をつけ、見回すと、店内はあらためて広かった。奥に絵画がかかっていて、グランドピアノが置いてある。その側に綺麗に装飾されたドアがあって、
「ここ、ウェディングパーティもやるんだろうね。あのドアから登場するのかな」
かおりが言うと、うん、と隆志はちらとだけ同じ方を見た。
「あのさ」
「うん?」
「……結婚、かおりはどう考えてる?」
何か割れる音がした。この空間に似合わない、不用意な音で驚く。目をやると、中年夫婦の男性がグラスを倒したらしかった。ウェイターがさっと来て対応している。
「おれたち三年になるでしょ。かおりも独立したところでまだバタバタしてるとは思うんだけど。そういうのもふまえて、そろそろ話したいな、と」
隆志がなおも続ける。
けれど、かおりは言葉が出なかった。
何かいわなきゃと思うのに適切な言葉が出てこない。私は、といってうなだれている自分が、自分で分らなかった。頭の中が、手帳からページが飛んでゆくように、からになっていく。
気づくとかおりは手に持ったコーヒーカップをにらんでいて、そして隆志が席を立つところだった。
――やっと明かりがあった。
通りの向かい、低いビルの二階にあるガラス張りのオフィスを食い入るように見つめる。いつまでたっても誰も姿を見せないので、諦めて歩みを進めると、また暗闇になってしまう。ゆるやかにカーブした道をかおりはひたすら歩いている。このあたりは遅くまで開いている店がないらしく、しんと静まりかえって人気もなかった。
時間がたつほどにじわじわと、苦さがみちてくる。
なぜだろう、と思いながら、やっぱりな、という気持ちもある。
これまで隆志と、そういう話をしなかったというわけではない。同棲の話が出たことがあって、そのときかおりは受け流してしまっていた。
かおりが人前で、かおりとして居られるのは、ずっと頭をフル回転させているからだ。どのタイミングで、何をどう話すのか、気を張っている。だから、ひとりになるとぐったりしてしまう。隆志といた後でさえ、そうだった。
でもそれをどこにも見せないかぎり、その姿はないのとおんなじだと思ってきた。だから、ひとりで暮らす部屋の中でだけ、かおりは安心して人間でいることをやめられた。
輪郭のとけた存在になり、何も考えず、じっとしている。ほんものの無である。
もちろんずっととけているわけにはいかない。やがて形を戻して、人にならなくてはならない。
じゅうぶんに人間を離れた後で、ようやくやる気を出して、遅くまで起き、また早く起きて、ためていたドラマを見たり、ヨガの勉強をしたり、あらゆる情報を詰め込むのである。家を出たらまた、人間でいられるように。
そんな自分だから、だれかと暮らしを重ねる自信がもてないでいる。
隆志のことは愛してた。
もう少ししたら、もう少し頑張ったら。
ただの人と人として、自然にいられるときが来るかもしれない。
これは隆志の知らないかおりの抱えるもので、だからもう少し待っていてと、心のどこかでずっと祈っていた。
でも、もう少しって、あとどのくらいだろう?
いつになったら、私は人間になれたといえるんだろう?
やがて鉄橋に出た。夜空を刺すように東京タワーが見えた。隆志とのいつかのドライブを思い出す。車の中、ロマンチックな音楽がかかっていた。きげんよく口ずさむ隆志に訊いて、「手のひらの東京タワー」という曲だと知った。彼はドライブごとに、ぴったりなプレイリストをつくる人だった。かおりも、ドライブのために話すことをいつも準備していた。だから、いつも楽しい時間になるのだった。
橋の途中で階段があり、かおりは足の赴くままに降りる。途中、激しい足音がして思わず身構えると、サラリーマンが駆け下りていく、それだけのことだった。けれど心細くなって、彼が消えたのとは別の道をとって歩いた。
右手は鬱蒼とした暗い木々が続いている。バス停の表示には巨大な霊園の名があった。木々の擦れる音にとらわれそうになるのを振り払い、歩き続ける。
十字路に差し掛かった時、笑い声が聞こえてきた。見上げると、少し階段を上がったところにイタリアンらしい洒落た店があって、そこから聞こえているのだった。
そこだけ明かりのついた店を見上げたまま、かおりは周りをぐるぐるとまわってみる。また、笑い声。何を話しているんだろう?
まわった先の路地に黄色く何かが光っていて、なんとなく気になってみると、三日月の形をしたライトだった。地下へ続く階段があり、壁にチラシが何枚も貼ってある。ライブハウスらしかった。
張り紙に出演者がのっていて、隆志が最近好きだと言っていたアーティストがいることに気づく。まだ知られてないけどこれからくるよ、おもしろい音楽やってるもん。そう力説していたのだけれど、かおりはまだ聴けていなかった。
導かれるように階段を降りていった。料金を払い、渡されたチラシを手に進むと、くぐもった音が聞こえてくる。
フロアへ降りて、驚いた。
ステージの上に月が出ていたのだった。
影まで鮮明にうつした生々しい満月が、ステージの闇の中に浮び上がり、その下で鍵盤のようなものを叩くバンドのシルエットが揺れている。時間からして隆志が言っていたアーティストらしいけれど、聞きなじみのないジャンルだった。ジャズの雰囲気があり、けれどファンクのような感じも混ざり、ごちゃごちゃと金属音や電子音も入っている。よく分からない。
フロアは人がまばらだった。かおりは後ろの壁際の椅子に腰掛け、もう一度、ステージをまじまじと見つめた。
いつか、こんな月を見たことがあった。
図鑑やテレビじゃない。ちゃんとこの目で見、感じたのだ。
あの旅の夜だ、とかおりは思いだす。
川の側の、ビルの十階から見た。青暗い夜に浮んでいたそれは、とても近く、大きく見えた。
あのうちひしがれた気持ちがよみがえる。もう死んでしまいたい、すべてが無しになっていくようなふわふわした感覚があり、それでもまだ、引っかかりのようなものがあった。そして実際に、かおりはあの夜を境に自分をこしらえてきた。やっと固まりだしたのに。
――でも。
テーブルに頬杖をつきかおりは考える。
そのこしらえてきた自分のどこに、「私」はいるんだろう?
月を見ていた、今この瞬間にものを考えている、「私」が顔を出して、誰かに見つけてもらい、そして受け入れられたことがいつ、あっただろう?
曲が変わって、青や白のライトがかわるがわる月を照らし出す。一番前の真ん中にお客が三人並んでいる。地面に影がうつっている。
そのうち、かおりは影が増えていくのに気がつく。色が変わる地面に、人影がひとつずつ増えて、揺れながらふくらんでいく。その影に覚えがあった。私から出てきたものだった。私の中に取り入れてきた、私ではない誰か――電車の中で飲み会のメンバーをユーモアを交えてするどく描写していたディレクター風の男たち、はまっている不倫ドラマの話をしてもつれるように笑いながら居酒屋に入っていったOL三人組、観てきたライブの良さを語り合いながら合間に明日の仕事を憂う、お揃いのTシャツを着た男の子たち、美術館であまりにも素直な感想をいって彼氏を笑わせる彼女、睡眠時間をけずってでも時間を作るというパークヨガで出会ったフリーのインストラクター、ほっそりとしなやかな手を揺らしながら旅の話をするテレビの中の女優、カプセルホテルでお互いのネイルを見ながら話し込んでいた女の子たち。
何かが落ちる感覚があり、見るとブレスレットが外れていた。いつのまにか留め具をいじっていたらしかった。
かおりはかがんで拾う。手のひらに垂らし、ブレスレットを眺める。編まれたようにつながっているパーツを一粒ずつ、指でなぞっていく。そのうちに浮んでくるのは、これをつけるにいたるまでの年月だった。
この世の誰も知らない時間があった。ふしんな行動もとった。かおりだけが知っている。唯一、すべて体験した身体ゆえに知っているのだ。無数のツギハギが気づかぬうちにどこかですこしずつ繋がって、うつろい、もたらされた今だということを。
きこえる音楽はあいかわらずとりとめがない。
しかし気づけばその混沌の中に、何かひとつの流れがあるのに、かおりは気づく。分りづらいけれど、たしかに音楽だった。
ブレスレットをつけて立ち上がり、バーカウンターに行った。音楽を聴くのに、何か酒がほしかった。メニューの黒板には名前からすぐには想像のつかないオリジナルカクテルがいくつか描いてあり、悩んで、季節限定のざくろとラズベリーのものを選ぶ。
席に戻り、ステージを眺めながら口をつける。すずしさとともに、胸を焼くような重たい甘みが喉を流れていく。
カップを傾けるたび、視界にちらちらと鎖が揺れる。
それは今、かおりにとって、自分で編んできたロープのように思えていた。こちらの、作られたものの輝きに満ちた、地上へとつなぐための。