支配者はサイコロをふらない -7ページ目

支配者はサイコロをふらない

別のサイトにて書いている自分のブログを移植したものです

今回は音楽の話をしようと思う


この様な話しであれば多くの人が入りやすいと思う



自分はロックに生きていると自信を持って言える
そして、自分のすべての言動の根底にあるのはロックだと考えている


意味が分からないとは思うが
最後まで読めば理解できると思う




ロックの話しをするうえで、はっきりさせたいことがいくつかあります

まず、はっきりさせたいのは
ロックとその他の音楽の違いをはっきり理解してもらいたい


これは、ロックとは?という問いに対する答えでもあるが
なかなか言葉に置き換えることは難しいが
一言で言うならば真理の追究だと考えてもらいたい



ようするに、見た目や音が
ロックらしく聞こえたり、見えたりしても
それがロックとは言えないということでもある


その音の中にあるメッセージや姿勢にこそ答えがある

この言葉が適切かどうかは個人で判断してもらいたいが
ロックスピリットといわれるものが全てだといえる



そして、次にはっきりさせたいのは
ロックスピリットとは、未知の世界への開拓という精神が根底だ、ということ


誰も知らない未知の世界へと入り込んでいくということは
恐怖を克服するということでもある

そういった自分自身との闘いや、既存の体制との闘いなど
あらゆる価値観との闘いがそこには存在する


少し補足しておくが

この精神は70年ほど前に突然生まれたわけではなく
これは生命が遥か昔から持っていたものであり
進化や発展には欠かせない要素でもある


例えば、まだ人類が火を持たなかった時代
これは想像ではあるが、恐らく落雷などの影響で山火事などが起きたとき
恐怖を克服し、燃え盛る炎に近づき手にした勇気ある人間がいたと考えられる


そして、それを持ち帰り発展を促す結果となったことだろう

これこそがロックスピリットの原点だ
可能性の追求とも言える



その精神はどこにでも存在する

それが1950年代頃に
奴隷として連れられてきたアフリカ系の人たちが踊る、祭りの持つリズムと
住む場所を追われた、アイルランド系の過激な反体制派の詩人たちの書く過激な詩と
カントリー、ウエスタン、ゴスペル、ブルース、ジャズ、などあらゆるものが

アメリカの地で混ざり合い、ロックとなる

その後の流れは、多くの人が知っているように
さらに違うものを次々と産み出し、さらに吸収を続け進化を続けている



ここまでの流れを理解したうえで
現代のロックと言われる音楽を考えてみる


こういったことを理論的に考えるようなロッカーはいないだろうが
多くのロックだと思われている音楽はロックとは言えないことが分かると思う


ロック風のサウンドや服装をしているだけ、というのがほとんどだ


これはロックを過剰なビジネスに晒すことに原因がある

例えば、ほとんどのプロと言われるミュージシャンは
すべてが契約の基に成り立ち、一定の期間の中の仕事にさせられている


それは、簡単に言えば
年間にアルバムを1枚、シングルを3枚などというような内容だ


締め切りを守ることよりも大切なことはたくさん存在するが
その多くは妥協と言う形で契約を優先させる

そこにはロックスピリットが存在しなくなっていることは理解できるはずだ


たとえ音はロックであっても、多くの人間を騙せたとしても
本人が誰よりもまして知っていることだろう


また、体制に対する不満や、怒りを叫び
そのメッセージが社会に認められ、マーケティング的にも成功を収めた場合には
また別の怒りを見つけなければならない

だが、この時メジャーレーベルであればあるほど
前作と同じ路線で行くことを望む

なぜなら、それがいちばん成功を収めやすい可能性があるからだ


だが、もうそこは開拓された場所だ
その場所に留まることは、ロックスピリットを失うことを意味する

快適な生活がもたされるかも知れないが
その牙はもう見せかけの存在になってしまう



簡単に言えば、ロックスピリットはギターを持った瞬間に存在していて
問題はそれを維持できるかどうかだということだ

これがロックというものの本質だ



永遠にゴールなどない
なぜなら、人間の可能性そのものが無限だからだ



ミュージシャンでなくても
どんな人間でも、最初はロックスピリットがあったはずだ


夢が破られ、踏み潰されても
何度も湧き上がってきていたはずだ

その繰り返しの中で、自分の可能性を信じられず
夢を見ることを諦めてしまったのかもしれない


でも、本当は難しいことなんか1つも存在しない

ただ、自分の可能性を信じるだけだ


これが自分の言う、ロックに生きると言う意味だ



また、可能性が無限だということは
かつてロックスピリットを持っていたにもかかわらず失ってしまっても
また取り戻せるということでもあるし

現在持っていなくても、自分次第で手に入れることが出来るという事でもある


全ての人がロックスピリットを信じ、自分の望むように生きることを願っている





仙台の街の中はそれほど以前と変わらない雰囲気を持っているが
海の方はまだまだ車や瓦礫がたくさん目に付く

道路はほぼ片付いてはいるが
まだまだ放置されたままなのも多い


3月15日頃に見た光景に比べれば
もうぜんぜんマシではあるが、全体で考えれば
まだまだ時間とお金が必要なのは明らかだといえる


「復興」と、一言で言うのは簡単だが

実行するためには、途方もない努力と時間が必要だ


これは、今のままではムリだが

公平に義援金が使われれば、少しづつではあるが
改善されていく問題だと考える



唯一、嬉しく思うのは、子供たちが元気なことだ


内面には傷を隠しているのかもしれないが
まったくそんな雰囲気は感じられない


子供たちが抱える可能性がある、将来的な問題を考えて
真剣に向き合えない大人の多さにはがっかりするが

今まで通り、そんなことを考える暇があれば問題の解決策を考える
そして実行する

これは、いつでも変わらない



選挙権も持たされていない子供に
将来、責任を負わせる前にやるべきことが
大人たちにはまだまだある


その前に「やって欲しい事はありますか?」という感覚は
今すぐにでも捨てるべきだ


そして、募金は被災地や被災者のためになることはない、ということを

しっかりと理解することが重要だ


募金よりも有効な手段を、一人一人が問題を考え、より良い未来のために
自分に出来ることを行っていってほいい




しかし、この状況を見ずに東京で復興会議が行われているのは
はたして、どれほど意味があるのだろうか?

本来であれば逆にするべきだと感じる


そして、100歩譲って、会議の中身の問題はいいとして
それよりも根本的な問題は
予算を決めずに何度話し合っても無駄だということだ


財政の確保を真っ先に国は行わなければ
どんな話もそこで終わってしまう


財源案ならいくつか思いつくが
本当に国民にプラスになる方法を彼らはとらないだろう

このままでは後につけが帰ってくるお決まりの政策になるだろう

その点に関しては日銀の誘導だと断言する


自分の身になって判断できない人間や
無知で言われたまま鵜呑みにする人間や
知ってはいるが、甘い汁に眼がくらんだ人間が
最終的には決断する


テレビを信じる多くの人々には
反対する知識も意識もないかもしれないが

一人一人が考え出せば必ず答えにたどり着く問題なのも断言しておく


それにもまして

いちばんの問題は多くの人間が
自分たちには力が無い、無力だ、と思い込んでいることだと思う

それがいちばんの嘘だ


中身の無い薄っぺらい論理を利用するものが

人々が持つ力と、その発する言葉に力が無いと思い込ませ
それに幻滅しているに過ぎない


本来、言葉や文字、そして人々には力がある

そのことを思い出し、
そして、力を取り戻す


これが、個人のレベルで出来る

もっとも大き、な子供への財産だと思う




今後、世界はさらなる困難を迎えることは

容易に予想できる


考えられる最も最悪のパターンは

金融危機から始まり、中東での第三次世界大戦というストーリーだが

そういった流れを回避するためにも

自分自身は書き続けるという結論に至る



もし、始まるなら、必ず、中東から始まる

時が来れば、イスラエルがイラクを攻撃する



今の状況では、その前にアメリカの崩壊が先になる可能性もある



もっと正しく言えば、もうすでに経済恐慌は始まっていると見るのが正しい



20年以上も前から、今の状況を予想して警告を行ってきた人たちがいるが

それらは、もう少し時間があると予想していた


そのような人たちが、問題を訴え、注意を促し、闘ってきたことによって
今まで引き伸ばして来れたことを感謝したい



決して、自国の経済危機を、戦争によって解決してはいけない


需要や不況、失業問題などは、戦争経済以外に解決方法はある


そういった問題は、システムの部分的な欠陥ではなく

システム自体が欠陥だということをよく理解して欲しい


理解すれば、答えは見つかる

政治家や官僚が言う政策が、まったく効果がないのも

なんの解決にも向かわないのも

問題を理解していないことがすべてだ


見せ掛けの解決策は、自分たちへの隠された利権しかない上辺だけの政策だ




ここ10年の間に、世界各国ではファシズム色が強くなりつつある


もちろん、人々にはファシズムだということを隠しながら、広がっていく


まるで第二次世界大戦前の世界と酷似している












「マトリックス」は史上最高の隠喩の1つだ。

機械は人の生活を楽にするために作られたが、最後には人類を奴隷にする。

これは、ディストピア的なSFのもっとも一般的なテーマでもある。
この種の恐怖は、なぜこうも普遍的で説得力があるのか。
家のトースターやノートパソコンに、いつか専制的に支配されていると信じているからか?


もちろん違う。

これは、恐れている遠い未来ではなく、私たちが生きてきた過去だ。


建前上、政府は人間の生活を楽に、安全にするために発明された。

だが政府が行き着くのは、常に人間の奴隷化だ。


私たちに奉仕するように作ったものに、私たちは支配される羽目になっている。
「人民による、人民のための」米国政府は
今や何百万人の人間を投獄し、国民所得の半分以上を強奪し、過剰な規制を課し、外国人を懲らしめ拷問し殺害し、他国を侵略し、政府を転覆し、海外に押しかけて700ヶ所にも及ぶ帝国主義的な機知を置き、インフレを起こし、将来の世代に莫大な負債を押し付けて壊滅させている。

私たちに奉仕するように作ったものに、私たちは支配される羽目になっている。

「奉仕者としての国」というテーマに潜む問題は、歴史的に大嘘だ、ということだ。
経験に照らしても、理論的にみても。


身の安全を求める国民の自発的意思によって国家が発明されたという考えも、見事にウソだ。
政府が発生する以前、部族社会の頃は、人々は自らが使う分だけを生産していたことだろう。
食料や他の資源の余剰生産などない。
従って、奴隷を所有する意味もない。
奴隷は、主人が搾取するだけの余剰を生まないのだから当然だ。
馬一頭を手に入れて増える生産量が、鋤を引く馬自身を食わす分だけだとしたらなぜ馬を狩り、捕まえ、調教などするか。
だが、農業改良による余剰生産物の発生で、突如、俄然有利になったのが、人間を所有することだ。

牛が余剰の牛乳や肉を生み出せば、牛の所有に価値が出る。
発生初期の政府あるいは帝国とは、実際は奴隷狩りの元締め階級だった。
彼らは知っていた。

人は自らの使いきる以上を生産できる、と。
ならば、人を狩り、捕まえ、調教し、そして所有することには価値があると、と。


初期のエジプトや中国の帝国の実態は人間牧場だ。
そこでは人が狩られ、捕まえられ、飼いならされて所有された、牛馬と何ら変わりなく。
技術や方法論が進化すると、奴隷は十分な余剰を生むようになり、奴隷を捕まえ留め置く手間は、奴隷による総生産のほんの一部でまかなえる程になった。
統治者階級、つまり「牧場主」は、そうした余剰の大部分を保管し、一部は贈り物や支払いとしてばらまいた。
虐待階級(警察、奴隷商人、その他のサディスト一般)と、思想宣伝階級(聖職者、知識人、芸術家)に。

この状況は何千年も続き、16~17世紀にふたたび農業構造と技術に大規模な進化が起きて、「過剰生産性」の第二波が押し寄せた。
囲い込み運動で人間牧場は再編・統合され、収穫は5~10倍に増え、農村部を追われ都市に寄せ集められる「産業労働者」という新しい階級が生み出された。
このときの巨大な余剰農産物は、産業革命の推進力となる資本の基盤となった。
「産業革命」は、元締め階級が手元の農奴を解放しようとして起きたものではない。
「自由」なるものをもっと与えれば、牛馬の生産性は目を見張るほど向上すると気づいたから起きたことだ。
牛を狭い牛房に閉じ込めると、自ら壁に頭を打ちつけて、怪我や感染症で牛がだめになる。
だから牧場主はより広いスペースを牛に与える。
牛を開放してやりたいからではない。
生産性を上げてコストを下げたいからだ。
「放し飼い」の先にあるのは「自由」ではない。
19世紀に起きた国家資本主義の勃興とは、実際は「放し飼い農奴制」の勃興である。
人という牛馬に認められた付け足しの自由の先に解放はなく、代わりに生産性向上があった。
当然だが、知識人、芸術家、聖職者は、昔も今も、こうした事実を覆い隠す見返りにたんまりもらっている。

人という牛馬を所有する上で、今時の大きな問題は、「やる気」をいかに引き出すかである。
起業家精神が創造性や生産性の動力となるような経済でなければ、国家資本主義は機能しない。
しかし、過剰生産性は常に大国を生み、元締め階級と取り巻きを膨張させて、生産性向上への士気をそぐ。
増税、規制強化、国債(=将来の牧場化)の増大、なかなか向上しない生活水準、やがて衰退。
所有されていることの現実味が国民の多くに湧いてくるにつれ、不況と絶望感が広がりはじめる。
この状況の解決策は、より多くの思想宣伝、坑うつ剤、迷信、戦争、あらゆる面での道徳普及キャンペーン、「敵」作り、愛国心の刷り込み、集合的恐怖、「よそ者」「移民」への異常な猜疑心などだ。

肝心なのは、世界の現実を理解することだ。
世界地図で見ているそれぞれの領域は、国ではない。牧場だ。
誰しも一定の自由がある。
財産の限定的所有権、移動権、共同する自由、職業の自由。
政府が原則としてこうした権利を認めているから、ではない。
「放し飼いの牛馬」は、所有する費用がずっと安く済み、より高い生産性が見込めるからだ。
大切なのは、イデオロギーの現実を理解することだ。
国家資本主義、社会主義、共産主義、ファシズム、民主主義。
これらは皆、牛馬管理のアプローチ手法である。
長い間機能する手法、例えば国家資本主義もあれば、まるで役に立たない手法もある。
共産主義のように。
どれも最後は失敗に終わる。
人を牛馬として扱う、不道徳で無茶なアプローチだからだ。
昨今の中国やインド、アジアでの「自由」の拡大は、当地の牧場主が牛馬管理の腕を上げたから起きている。
牛房を広げてやれば、もっと多くの牛乳や肉を手にすることができると気がついたのだ。
統治者たちは、人々が牧場から逃れるのをを防げれば、人々は意気消沈し、動きは鈍くなり、生産性が落ちることにも気がついてきた。
農奴の生産性が極大化するのは、「俺は自由だ」と思っているときだ。
それで統治者たちは、あなたからもっとも効率よく果実を得るために、あなたに、自分は自由だ、という幻想を持たせる。
こうして、ある牧場を去ってもよくなった、が、決して本当に自由になるわけではない、単に他の牧場に移るだけだ。
世界全体が1つの牧場なのだから。
彼らはあなたが大金を得ることを妨げ、あなたを終わりなきペーパーワークに理没させ、あなたの働く権利を制限する。
しかしあなたは、去る「自由」がある。
様々な困難があるため、実際去る人は一握りだが、移動できるという幻想は維持される。
1,000頭の牛の一頭が脱走したとしても、脱走できるという幻想が、残り999頭の生産性を著しく引き上げ、依然として牧場主の正味の稼ぎになる。
あなたを牧場に引きとめるものに、許認可もある。
生産性の良い牛馬はほとんどがプロフェッショナルなので、統治者たちはプロフェッショナルに「許認可」という電子首輪をはめ、今いる牧場でだけ取引を行えるようにしてやるのだ。
「自由」の幻想をさらに深めるために、牧場によっては、(投資家の差し向けた)数人の中から牛馬が牧場主を選ぶことが認められている。
とは言え、どう管理されるかをちょっと選べる程度が関の山だ。
牧場を閉めるとか本当に自由になるといった選択肢が与えられることは決してない。
公立学校は牛馬教科用の檻だ。
政府は子供を訓練して、牧場を『愛」し、本当の自由や自立を恐れ、人の所有という残忍な現実をおかしいと言いだす輩を非難するように育て上げる。
さらに、知識人たちには仕事を用意する。
国家の思想宣伝は彼らが頼りだ。
宗教にも似た国家主義のこの馬鹿げた矛盾を継続するには、無力な子供たちを終わりなき思想宣伝にさらし続ける他ない。
何十億人に対する残忍な暴力の執行が民主主義やその他の「社会契約」によって正当化されるという考えは、あきらかに馬鹿げている。

仮にあなたが奴隷にこう言ったとしよう。
「お前の先祖が奴隷になることを『選んだ』、だからお前は先祖の決定に縛られているのだ」。
彼の答えは簡単だ。
『奴隷が選択肢なら、私は奴隷でなくなることを選ぶさ」
これは統治階級がもっとも恐れる発言であり、これを敢えて言う者を非難するように奴隷たちを訓練するのも恐れからだ。



国家主義は哲学ではない。

国家主義の起源は歴史的証拠にも合理的原則にも、求めることはできない。

国家主義は人の所有を「遡及的に(後づけで)」正当化したものだ。

国家主義は暴力を弁解する言い訳だ。

国家主義は一つのイデオロギーであり、イデオロギーはどれも皆、人を牛馬として管理する方法の型番違いでしかない。

宗教は、迷信を派手に飾り立てて、怖がりの子どもを薬漬けにするために作られたものだ。
恐怖が「和らぐ」ように、子どもらはいつまでも金を払い続ける。

国粋主義は、偏狭を派手に飾り立てて、牛馬にストックホルム症候群がはびこるように作られたものだ。

迷信の対極は、別の迷信ではない。真実だ。

イデオロギーの対極は、別のイデオロギーではない。明白な証拠と合理的原則だ。

国家主義の迷信やイデオロギー、それらの対極にあるのは、哲学だ。


理性と勇気が、私たちを解放する。

あなたが奴隷でいる必要はない。


赤い薬を飲め。

目を覚ませ。