⚫1967年に米国医師会が医薬品の広告収入から得た利益は全収入の43%、1360万ドルに上った。そして医師会はこの年に、食品医薬品と共同で「健康器具や健康食品は効果がなく、潜在的に危険なものであることを証明し、一般国民の意識を高める」ためのキャンペーン活動に乗り出すと発表した。「医薬品の効果を証明せよ」という政府の要求に製薬会社を従わずことが出来なかった同じ団体が、である!
何度も言うように、危険なのは製薬トラストであり、健康のためにもっとニンニクやレタスを食べなさいと知人に勧めるカリフォルニアの老婦人ではない。
患者を殺しているのは「認定された」医薬品であり、自然医学の主唱者が勧める食品ではないのだ。米国医師会はさらに、「全国健康詐欺会議」という会議を主催した。

 (略)

……ペッパーの聴聞会にはハーバートだけでなく、永い間医療独占体制を代弁してきたアンナ・ローゼンバーグも呼ばれた。彼女は健康詐欺への怒りをあらわにして、製薬トラストのため「全米の健康詐欺師ともっと戦うべきだ」と息巻いた。永年ロックフェラー一族に仕えた彼女は、米国癌協会の理事を務めたが、この時彼女は癌の治療を「切る・叩く・焼く」(外科手術・抗癌剤・放射線治療)という現在の医学会で主流となっている治療法のみに制限し、その他の治療法を認めさせないように奮闘した。
こうした治療法は医者にとっては非常にカネの儲かるものであるが、患者にとっては不幸な事態、大抵逆に命を縮める結果となるのである。

 アンナ・ローゼンバーグは、ジュリアス・ローゼンバーグ(ユダヤ計画米国人、1950年に原子爆弾設計資料のスパイ容疑で逮捕され、53年に処刑)の前妻である。彼女は「労使問題専門家」として週給5000ドルもの高給を受け取りながら、ロックフェラー・センターから労働組合員を締め出し、自分の部下達を不当に安い賃金で働かせていた。


⚫相変わらず続く恐怖政治

 医療情報統制協議会CCHIは約10年もの間、あたかも殺人を欲する狂人のように振舞った。そのために何百人もの人間が刑務所に送られたが大部分は逮捕される正統な理由もなく、あるいはでっち上げの罪によるものだった。協議会の目的は、代替医療(現代医学に替わる自然な総合的医療)の分野で活躍している者全てを脅迫するというものであったが、この目的は達せられた。その結果ほとんどの自然治療家は、目立たないように治療を続けるか、さもなくば廃業に追い込まれた。国外へ逃れる者もいた。

 当然のことながら、このような恐怖政治への反動が後になって起こった。郵政省と公衆衛生局が特別狙撃隊を使って(自然食品販売)老婦人から資産を没収するというやり方について、議会に調査を要求する世論が1974年頃に沸き起こったのである。
もし実際に調査が行われていれば、この忠実かつ献身的な国家公務員が、実は自らの権力と利益のために米国政府を操る邪悪な影の黒幕の、名もない道具にすぎないということが明らかになったであろう。しかし、言うまでもなく、このような議会による調査は一度も行われなかった。その代わりCCHIは突然、世間の表舞台から姿を消した。 

 (略) 

 CCHIは地下に潜伏したが、更にカリフォルニア州の民間治療家達は突然、今までよりも更に激しい集中攻撃にさらされた。今度の相手はカリフォルニア州衛生局であった。CCHIが全国規模の活動を停止したのは摘発を恐れたためであり、その残党達は依然として医療独占体制のために暗躍し、当然襲ってくる被害者からの報復を逃れるために、まるで病気のネズミのようにカリフォルニア州衛生局の内部に巣食っていた。そして以来ずっと、州衛生局を利用し州内の治療家を絶えず攻撃したのである。おかげで製薬カルテルは、邪魔されること無く儲ける事ができた。

 (略)

 CCHIによる略奪行為はその後しばらくの間、国民に甚だしい影響をもたらした。何百万という米国人、とくに年寄りや貧しい者達が、この陰謀のおかげで安価な治療を受けられなくなった。適正な価格の健康相談の代わりに、米国医師会所属の医師による高価な治療を受けざるをえなくなったのである。
医師達が処方するのは勿論、ロックフェラー医薬独占体制が生産する高価な医薬品であった。これらの医薬品の多くは価格が不当に高い割には効き目が無く、かえって人体に有害な作用をもたらす恐れがあった。にもかかわらず、国民の健康を守るはずの政府機関、とくに食品医薬品局は、このような事実をいつも隠している。

 製薬カルテルが(独占を禁じた)反トラスト法の条項に基づいて、政府機関の調査を受けたことは一度も無い、という事実は注目に値する。その理由は製薬カルテルが国際金融家集団の所有物だからである。

……この医薬品体制の売り上げ額は、1986年には年間3554億ドルに達した。実に、米国の国民総生産(GNP)の11%に当たる金額である。

 (略)

……その年にイリノイ州の州務長官に3ドルの手数料を支払って初めて法人組織となったのである。その2年後にシモンズ「博士」が米国医師会に加わり、その後25年間権力を振るうことになる。医師会に入ったシモンズはすぐに、医療を支配するのは大学医学部であり、大学医学部を支配するのは医師国家試験委員会であることに気がついた。そこで米国医師会の権限を拡大して、医師国家試験委員会を完全に掌握した。
医師会の権限が拡大するにつれて医療の質が悪化し、患者に対する医者個人の責任感も低下したことが、記録からわかる。


⚫医師会の「沈黙の掟」

 (略)

 ※(著者注)米国医師会の倫理規定は、組織の秘密を漏らした者に死をもって報いるという悪名高いマフィアの「オメルタ」(沈黙の掟)と同類である。医学界のグノーシス派(キリスト教会で異端とされた、神の直感的認識の観念を中心とする2世紀頃の思想)である米国医師会も、マフィアと同じ掟を定めたのだ。治療上の怠慢や過失を外部に漏らした医師は、職業上の死を宣告する規定を設けたのである。この掟を守らなければ報復として医業からの追放、病院の権限の抹殺、その他の徹底的な処罰が行われた。

……1988年2月11日のAP電は「医師の5%は嘘の医師免許を提出している」という見出しで、大手医療メーカーのヒューマナ社が調査した事実を報じている。同社があるとき、社内にある診療所の医師を募集したところ、6ヶ月間に応募してきた医者727人のうちの39人、即ち5%がニセの医師免許を提出したという。
更にあくどいことに、自分の住んでいた州で麻薬や性犯罪の罪に問われた医者の多くが、医療独占体制の保護のもとで簡単に別の州に移って平然と開業していたのである。
最近では、医療行為中に幼児を虐待していた性犯罪常習癖をもつ医者が、住んでいた州で有罪となると、別の州に引っ越して再び同じ行為を繰り返していた、という恐ろしい話もある。
ニューイングランドの名門出身の名医、アーネスト・コードマン博士は、1924年3月2日に開かれた米国医師会次総会で次のような演説をした。
「私は骨肉腫の疑いがある400症例の記録をもっているが、このうちわずかの例外を除いてほとんど全てが医者の誤診と治療ミスが原因である。これに関して自ら犯したとんでもない過失を認めている多くの一流の医師や病理学者を私は知っている。切る必要のない足が切断され、逆に切断すべき足がそのまま放置されたのである」
聴衆はコードマン博士の演説に唖然とした。誰も博士の発言に反論しなかったが、この演説は米国医師会幹部によって意図的に揉み消された。……1970年間6月6日付のタイム誌はそれを象徴する次のようなエピソードを「精神分裂病の米国医師会」という見出しで報じている。それによると、医師会の年次総会で理想に燃える若い医師30〜40人が突然壇上に駆け上がり、あっという間に総会を占拠した。そして首謀者の青年医師が壇上から大声でこう叫んだ。
 「米国医師会AMAはAmerican Medical Associationの略ではない!米国殺人協会AmeriAan Murder Associationの略だ!」

 (略) 

 メンデルスン博士は現代医学を容赦なく批判し、これを「死の教会」と呼んでいる。この教会における聖水は、

1.予防接種
2.フッ化物添加された水
3.静脈内注入液(点滴・輸血)
4.硝酸銀

の4種類である。博士は、この4つは全て「安全性が疑わしい」ので、使うべきではないとしている。


⚫医療社会化聖堂をめぐる医師会の画策

 このあたりの事情に詳しいジェームズ・G・バローが、強制加入の健康保険に対する米国医師会の態度を調べたところ、1917年から1920年の間に「採用を検討する」という立場から「断固反対」という立場に変わったことが分かった。反対の根拠は「反共産主義」ということであった。実際、医療社会化制度は共産党の基本的な目標であることはよく知られている。
この目的の実現のために、モスクワで行われていた特別教育プログラムに米国の代表的な左派から選ばれたグループが呼ばれたことがあった。彼等はモスクワ大学の夏期コース「国家機能としての医療の組織化」に参加した。その中にはジョージ・S・カウンツやジョン・デューイ(プラグマティズム教育者)のような強硬なリベラル派もいた。彼等は米国に戻ると早速国民健康保険制度の制定を求める大衆運動を展開した。
この運動への最初の転向者は「自由主義の共和党員」ヘンリー・カボット・ロッジ上院議員だった。ロッジ上院議員は、実はニューイングランドの銀行家グループの代理人であり、この銀行家連中は医療独占を維持するという目的のためにロックフェラーと連携していた。

 (略)


⚫カイロプラクティック撲滅の陰謀

 このように米国医師会が何百万ドルも使って反対した「メディケア」(国民医療保険制度)は、最終的には議会で可決された。しかしその後も状況は全く変わらなかった。メディケアはもっと悪辣な多くの医者達にとっ思いがけない「棚ぼた」となったからである。この制度のおかげで、医者一人当たり年間何百万ドルもの診療報酬を水増し請求しても、いっこうに差し支えなくなったのであった。

 (略)

 既に述べたように、米国医師会の理事達は、1963年11月2日の「ニセ医療対策委員会」の会議で、最大のライバルである「カイロプラクティックを撲滅しよう」と決議した。

……この目的のために米国医師会の最高顧問ロバート・スロックモートン率いる特別調査部隊は、保険会社、病院、医師国家資格委員会、公立および私立大学、ロビイストなどを利用した。脅迫や検閲などあらゆる手段が使われた。

 (略)

 1960年代の末頃、米国医師会の「病院認定合同委員会JCAH」は、病院に対して新たな要求を押し付けた。「医療倫理規定」の中で、カイロプラクティック師との契約を全面禁止したのである。


⚫病院の認定権をもつずさんな民間団JCAHOとは?

 「医療機関認定合同委員会JCAHO」は、イリノイ州オークブルックにある民間団体であるが、病院の認定を更新するために3年に1回、各病院を監査している。委員会は病院を訪れる
6ヶ月前に事前通告をする。

……同委員会による認定を受けた典型的な病院は、ニューヨーク市のパーソンズ病院である。この病院では1987年間10月1日から88年4月18日までの約半年間に73人の患者が死亡した。政府当局によれば、このうち半数以上は不十分な治療に原因があったとされる。ウォールストリートジャーナル紙の1988年10月12日号は、3ヶ月間の調査結果からこう報告した。
「ずさんで無責任な病院でも、JCAHOを恐れる必要はほとんど無い。立ち入り検査による処罰は、近年では皆無に等しいからである。」

 州の監査官が1988年に抜き打ち監査をした結果、JCAHOが認定した病院の3分1は、標準的な病院の水準に全く達していないことが明らかになった。このためニューヨーク州政府はJCAHOと一切の関係を経ち、現在は独自の病院監査を置くようになった。


⚫40年間も続いたカイロプラクティック
 撲滅の悪意

 (略)

 米国医師会の目に余る活動のため、ついに数名のカイロプラクティック師が医師会を陰謀罪で告訴した。裁判は11年も続き、1987年8月27日に米国連邦第一審裁判所の判事スーザン・ゲッツェンダマーは、カイロプラクティック業の破壊を企てたとして、米国医師会、外科医師会、放射線医師会に対して有罪の判決を言い渡した。
 
係争中に医師会は、カイロプラクティックの大学で教えられている教科の内容もその特色も、全く知らないと素直に認めた。連邦判事のゲッツェンダマーは101ページもの意見書を書き、米国医師会に対し次のような永久命令を下した。
「米国医師会の医師や学校、病院が、カイロプラクティックの治療師、学生、学校と職業上の契約を結ぶかどうかについて、個々に決定する自由を制限したり、妨害したり、あるいは他の者が妨害することを助けたり煽動するような行為を中止し、二度と行ってはならない。」

このようにしてモリス・フィシュベインが米国医師会に残した悪意と妨害主義の遺産は消えた。フィシュベインは1949年6月20日の第98回総会で正式に解任されたが、米国医師会はその後更に40年間も、彼の亡霊に付きまとわれた訳である。
フィシュベインが残したもう一つの遺産は、黒人医師が米国医師会へ入会するのを拒否したことであった。彼の在任中、黒人を会員として認めるかどうかという問題が繰り返し取り沙汰されたが、この時彼はいつも黒人のことをイディッシュ語(欧米のアシュケナジー系ユダヤ人が用いる)で黒人を侮辱する時に使う「デア・シュヴァルツァースder schwartzes」(黑んぼ)という言葉で軽蔑的に叫んだ。医師会はフィシュベインの方針を、その後20年間も受け継いだが、結局1968年に黒人医師の入会を強制的に認めさせられた。黒人医師達は以前から独自の組織「全国医師会NMA」をもっていた。
タイム誌は黒人入会の決定を歓迎し、医師会を馬鹿にして、「時代遅れの医師会」と呼んだ。シモンズとフィシュベインは、自分達の卑劣な事業のためにこの全国規模の組織を半世紀に渡って利用し続けたが、おかげで医師会の信用は傷つけられてしまった。


……医者の印章が2匹のヘビが巻き付いた杖であることには注目すべきである(ちなみにロチェスター大学は最近、2匹は多すぎるとして1匹に減らした)。カデュセウス(2匹の蛇が巻き付いた杖)はローマ神話の神のマーキュリーのシンボルである。マーキュリーは使者の守護神であるが、無法者・商人・盗人の仲間であるというあまり芳しくない肩書を持っていた。古代世界では商人というのは無法者・盗人の同意語であった。


【第3章 進歩しない癌研究の裏側に
  ある「ボロ儲け」癌産業の実態】


⚫癌の増大と野蛮な現代的治療法

 紀元前400年のこと、医療ヒポクラテスは診療中に遭遇したある病気に「蟹」Cancerという名前をつけた。全身にカニのように広がるからである。ギリシャ語ではKarkinos(カルキノス)と呼ばれた。紀元後164年にローマの医師ガレノスはこの病気に「腫瘍」tumourという言葉を使った。これはギリシャ語で墳墓を表すtymbosあるいはラテン語で「膨張する」という意味のtumeoからとった呼び名である。
癌は古代ではかなり稀な病気だったに違いない。聖書にも古代中国の医書『黄帝内径』にも載っていないからである。この病気は伝統的な社会ではほとんど知られていなかったが、産業革命の進展に伴って蔓延した。癌による死者は1830年代のパリで死亡者全体の2%、1900年の米国でも4%に過ぎなかった。
癌患者の増加に伴ってそれに対処するための「現代的」治療法が現れた。既存医療体制批判の先頭に立つロバート・S・メンデルスン博士はこう述べている。
「ジョージ・ワシントンの時代にはヒルを使って血を吸い出す治療が行われたが、現代医学の癌の外科手術も、将来はこれと同じように原始的で野蛮な治療法とみなされるであろう」

 彼が述べたこの外科的手術は、癌の治療法として現在米国全土で広く認められ、国民に強要されている。現代医学の癌治療法は「切る・叩く・焼く」(メスで切る・抗癌剤で叩く・放射線で焼く)治療法と呼ばれている。手術・出血・薬品大量投薬、それに加えて訳の分からない放射線照射治療だけが頼りの治療法。これが米国にあるドイツ流アロパシー医学の殿堂で行われている最高水準の治療法の実態なのである。米国における現代医学の癌治療の殿堂は、ニューヨークにある「メモリアル・スローン・ケタリング・癌センター」(別称「……癌研究者」)であり、ここの高級司祭は外科医と研究者である。

 スローン・ケタリング・癌センター研究所は、最初の名称を「メモリアル病院」といった。この癌の殿堂を初期の頃に支配していたのは、まるでハリウッド喜劇映画に出てくる「気狂い医者」のお手本のような2人であった。もしもハリウッドでこの病院の映画化の話が出たとしても、この2人の医者の役を片方だけでなく両方共こなせる俳優は、今は亡きベラ・ルゴン❲1884~1956❳(『ドラキュラ』もので世界的名声を得た米国の俳優)しかいないという事実にぶつかって、せっかくの企画もお流れになってしまうことだろう。


⚫気狂い医者シムズとメモリアル病院

 「気狂い医者」の第一号はJ・マリオン・シムズ❲1813~1883年❳である。南カリフォルニア州の保安官で居酒屋を経営していた男の息子に生まれたシムズは、19世紀版「産婦人科医」であった。彼は遊び半分に「実験的手術」に手をだし、何年も南部の黒人奴隷の女性を実験台にした。伝記作者によると、その手術は「ほとんど殺人に近い」ものであったという。
農園の経営者連中から「これ以上うちの奴隷たちに手を出すな」と拒否されたため、やむを得ずシムズは17歳の少女の奴隷を500ドルで買う破目となった。彼はこのアーチャという名前の不幸な少女におよそ2、3ヶ月の間に約30回もの手術を施した。当時は麻酔が無かったので、シムズは友人に頼んで手術中アーチャを押さえつけておかなければならなかった。だが友人達もこんな経験を1、2回させられると、たいてい彼にもう協力しなくなった。シムズはアーチャを使った実験を4年間も続けた。

 1953年、シムズはニューヨークに引っ越すことにした。南カリフォルニアにあった彼の小さな黒人病院が、昔のフランケンシュタイン映画のように、夜中に金切り声を上げ、松明を振りかざした村人達よって取り囲まれたかどうかは定かではない。しかし、引っ越しは突然決まったようであった。
マディソン街に家を買い、その地で(フェルプス・ドッジ社、北米最大の銅鉱山会社)の遺産相続人であるメリッサ・フェルプス・ドッジ女史という援助者を見つけた。
この一族は現在でも癌センターを援助し続けている有力メンバーである。ドッジ女史の資金援助によって、シムズは「婦人病院」を設立する。その病院は病床30、全額寄付金で賄われ、1855年5月1日に開業した。
後に出てくるニセ医者シモンズ「博士」と同じように、シムズもまた自ら婦人病の専門医として広告を出し、特に「膀胱膣瘻」という膀胱と膣の間に瘻孔ができる病気の治療が得意であると宣伝していた。しかしこの病気は現在では「医原病」つまり、医者の治療が主な原因であることが分かっている。
1870年代になるとシムズは癌を専門に治療し始めた。この「婦人病院」で行われる残忍な手術の噂は、ニューヨーク中に広まった。またまた「気狂い医者」の登場というわけだった。
病院の理事達によれば、「不気味な実験の為に全ての患者の命が脅かされていた」とのことである。その為シムズ医師は「婦人病院」を解雇されたが、ある強力な財政的支援者のおかげですぐに復職することになる。

 シムズが知り合ったのはアスター家の人々であった。アスター家の財産は、先祖のジョン・ジェイコブ・アスターが東インド会社や英国秘密情報部、国際麻薬貿易との関係で築いたものであった。その頃アスター家の1人が癌で死亡した為、一族はニューヨークに癌専門の病院を作ろうとしていた。
初め「婦人病院」の理事に、もし癌専門の病院に変えてくれるなら15万ドルを寄付すると申し出たが、解雇されたことに腹を立てていたシムズは、理事を裏切ってアスター家と個人的に契約をした。そして理事等を説き伏せて、新しい病院の医師として自分を雇わせたのであった。彼の名付けた「ニューヨーク・癌病院」は1884年に開院した。

 シムズはその後パリに行き、フランス皇后を診察した。また後にベルギー国王からレオポルド勲章を授与された。明らかに彼の厚かましさは相変わらずであった。シムズはその後ニューヨークに戻り、新しい病院を設立する少し前にこの世を去った。

 ニューヨーク・癌病院は1890年代に別の支援者からの寄付金を受けて「メモリアル病院」と改名された。そして20世紀の後半になると新たに「スローン・ケタリング」という名が付け加えられた。名前は知る由もないが、この癌センターこそロックフェラー医療独占体制の主要な出先機関としての役割を永年に渡って果たしてきたのである。
1930年代、癌センターがビルを新築する時に、ロックフェラー家はアッパー・イースト・サイドの一等地の地所を寄贈したが、それ以来ロックフェラー家の部下がこの病院の理事会を支配するようになった。
1913年5月、医者や一般の人々がニューヨークのハーヴァード・クラブに癌の全国組織を作る為に集まった。この組織に「米国癌管理協会ASCC」American Society for the Control of Cancerという名前が付いたのも、当然といえば当然だった。名称が「癌治療協会」でも「癌予防協会」でない点に注意してほしい。実際、この米国癌管理協会が癌の治療や予防を優先目標にしたことなど無かったのである。

 1913年は勿論米国の歴史上、重要な年であった。この重要な年にウッドロー・ウィルソン大統領は連邦準備法(この法律によって「民間が所有する中央銀行」である米連邦準備銀行が創設された)に署名した。この法律の目的は、来るべき世界大戦のための資金を蓄えることにあった。またマルクスが1847年に著した「共産党宣言」に基づく累進所得税が米国民に課せられることになった。更に議会が有していた上院議員を任命する憲法上の義務が剥奪された。当時は上院議員は現職上院議員が選んでいたのである。しかし、これ以後、上院議員となるものは全て、一般国民の投票による選挙戦を戦わなければならなくなった。
社会主義的計画が実現したこの激動の年に、「米国癌管理協会」(1944年に米国癌協会ACS American Cancer Societyと称する)が設立された。当然の事ながら、設立資金を提供したのはジョン・D・ロックフェラー2世であった。1920年代には彼のお抱え弁護士のドゥベヴォワーズとプリンプトンがこの新しい米国癌協会の運営を支配したが、その間の財源は、ローラ・スペルマン・ロックフェラー財団とJ・P・モルガンによって賄われた。

 米国癌協会は設立当初から、米国医師会のやり方に追随した。医師会と同じく「下院議会」という理事会をもち、1950年代にはこれも同じように「ニセ医療対策委員会」を設立した。この委員会は後に「癌管理新法式検討委員会」という名前に変わった(またもや「管理」であって「治療」ではない事に注意してほしい)。しかしこのような委員会を作りながらも、依然として米国癌協会は、理事会が承認していない治療法や「切る・叩く・焼く」以外の癌の治療に対して、何のためらいもなく「ニセ医療」というレッテルを貼り続けていた。


⚫鉱山王ダグラスがもたらした
  放射線治療のはじまり

 1909年、鉄道王E・H・ハリマンが癌のため亡くなった(彼の財産の源はロックフェラーと同様、全てロスチャイルドの資金およびクーン・ローブ商会のジェイコブ・シフから流れ込んだ資金によるものだった)。ハリマンの死後、家族は「ハリマン研究所」を設立した。しかし1917年、御曹司のW・アヴレル・ハリマンは突然、政界に入ることを決意した。というよりむしろ各政党を裏で操る事を決心した。その為に研究所は急遽閉鎖され、研究所の資金の援助先は「メモリアル病院」に移された。

当時、この病院の有力な資金提供者はフェルプス・ドッジ社会長のジェームズ・ダグラス❲1837~1913❳であった。既に述べたように、この会社の財産の相続人であるメリッサ・フェルプス・ドッジ女史は、1953年にメモリアル病院の前身であるシムズの「婦人病院」に最初に資金を提供した人物である。彼女はウィリアム・ドッジという呉服商と結婚し、夫のウィリアムはフェルプス家の財産を使って銅鉱山事業で成功した。

 ジェームズ・ダグラスは全国人物辞典に「鉱山事業と冶金で財産を築いた先駆者」と記載されている。彼は世界で最も埋蔵量の多い銅鉱山「コッパー・クイーン・ロード」を所有していた。カナダ生まれの人で、同名の父ジェームズ・ダグラス博士は、外科医でケベック精神病院の院長となった人である。
息子のダグラスは1910年にフェルプス・ドッジ社に入社し、後に会長に就任した。彼は米国西部にあった自分の鉱山から、広範囲におよぶ「ピッチブレンド」(ウラン・ラジウムの主原鉱)の鉱床を発見したことをきっかけに、ラジウムに興味をもつようになった。そして自分の利権の為に政府機関である鉱山局を動かし、共同で「国立ラジウム研究所」を設立した。

 ダグラスの主治医はジェームズ・ユーイング博士❲1866~1943❳であった。ある時、ダグラスはメモリアル病院に10万ドルを寄付すると申し出たが、これには条件があった。条件の一つ目は病理部長としてユーイング博士を雇うこと、2つ目は病院を癌治療の専門病院に変え、しかも癌治療に必ずラジウムを使用するというものであった。メモリアル病院はこの条件を受け入れた。

 ダグラスの資金援助を後ろ楯に、ユーイングはすぐに病院長になった。ダグラスはラジウムによる癌の治療は効果があると確信していたので、ちょっと気分が悪い程度でも娘や妻、自分自身に頻繁に放射線を充てさせた(娘はその後癌で亡くなった)。

 (略)

……ダグラスの「これを人類愛や慈善行為と思うのはバカげている。私は自分の持っているラジウムを好きなように使うだけだ」と語った言葉が引用されている。この証言は「慈善事業家」の正体を垣間見せてくれる。慈善事業の分野で彼のライバルにあたるロックフェラーとカーネギーは、いつも「ひも付き」でない寄付を行なう。しかし、こうして安心させておいてから、国家を支配する陰の権力を密かに手に入れるのである。ダグラスは我々に「慈善事業家」の正体を明かしてくれた。
実際、メモリアル病院から報道機関への最初の発表では、放射線治療は無料ということであった。国民は偉大な慈善家のジェームズ・ダグラスがラジウムを無料で提供するだろうと信じた。しかしすぐに、メモリアル病院の規則は「放射線照射には割り増し料金が必要です」と変更になった。

……その後、ラジウムで好きなことをするのだと豪語したジェームズ・ダグラスは、自分自身の治療の為に何度も放射線を浴び続けた。そして1913年、ニューヨークタイムズ紙が彼の話を掲載してから2、3週間後に、再生不良性貧血のために亡くなった。 
今では医学界の権威達は、ダグラスがラジウムの初期の発展に関わり、放射線の作用で死亡した多くの一人に過ぎないと信じている。その最も有名な例がラジウム発見者の妻マリー・キューリーや娘のイレーヌ・ジョリオ・キューリーである。1922年までにX線に起因する癌の為に死亡した放射線技師は100人にのぼる。

 ダグラスの子分にあたるユーイングは、さらに数年間、メモリアル病院に勤務していたが、様々な体の不調を訴えるようになった。とりわけ彼を困らせたのはチック症状で、そのため人に会ったりする事さえ億劫になってしまった。その後、病院を辞めてロングアイランドで隠遁生活を送り、その地で1943年に膀胱癌のために亡くなった。

 ダグラスの息子ルイス・ダグラスは、当時米国で最も巨額の遺産を相続した。彼はJ・P・モルガン商会の共同経営者の娘ペギー・ジンサーと結婚した。ペギーの二人の姉妹の結婚も上手くいった。一人はロックフェラー財閥の主席弁護士になったジョン・J・マックロイと、もう一人は戦後ドイツの首相となったコンラート・アデナウァーと結婚したからである。

 ルイス・ダグラスはモルガンの息のかかった「ニューヨーク相互保険」の会長に就任した。第二次世界大戦の初期、ダグラスは武器貸与庁でW・アヴレル・ハリマンの部下になり、そこで「軍需物資船舶輸送局」の局長に任命された。彼はルーズベルト政権の有名な「ワン・ダラー・マン」(無報酬で政府機関に働く民間人)の一人であった。
大戦後、ダグラスはハリマンの跡を継いで駐英大使になった。ヒトラー失脚後、ドイツ高等弁務官に推薦されたが、義理の弟ジョン・J・マックロイにこの地位を譲った。この2人の米国人は義理の兄にあたるコンラート・アデナウァーがドイツ首相に任命された時には驚喜した。このようにJ・P・モルガン商会一族の利権はしっかりと確保されていたのである。事実、既に戦時下のヒトラーの死後、政権を取れるように準備工作していたのである。




 以上第3章途中まで