Planned  Parenthoodの創設者
マーガレット・ヒギンズ・サンガーは1879年ニューヨーク州のコーニングで生まれました。
マーガレットの母親アン・バーセル・ヒギンズは敬虔なカトリック信者でした。彼女は結核と頸部の癌で死去するまでに、18回妊娠し、その内11回が生児出生でした。

子供が多い家庭に育ったために生活は苦しく、マーガレットは姉に寄宿学校の授業料を2年間払ってもらいながら通学していましたが、止むなく学校を辞め、ニューヨーク郊外のホワイト・プレインズにあった病院付属の看護学校に通い始めました。
その後母アンは1899年に死亡し、1902年にマーガレットはウィリアム・サンガーと結婚します。マーガレットは母親のように自分も結核に侵されるのではないかと心配しながら、結婚翌年に長男を産み、さらに翌年に次男と長女を設けました。しかし、長女は幼いうちに死亡してしまいました。
マーガレットは病気がちな体質だったために結局、看護学校第3学年終えることも資格を取ることも出来ませんでした。
でも、マーガレットの夫サンガーは、彼女が仕事をするよりも子育てに専念することを望み彼女を気遣っていたといいます。

その後一家は1912年に大火に遭い、止むなくマーガレットはマンハッタン東部の貧民街で働くようになります。
そしてマーガレットは、その年から「すべての娘が知るべきこと」What  Every  Girl  Should  Khowと題するコラムをNew  York  Callに発表するようになったのです。

 この頃からマーガレットの社会に対する挑戦が始まりました。貧しい女性に「家族を制限すること」Family  Limitationというパンフレットを配り続け、コムストック法違反(アメリカで1873年に成立した郵便に関する連邦法)の廉で何度もスキャンダルを巻き起こすことになり、投獄されるようになってしまったのです。
それは避妊法と避妊具を広めることが卑猥行為にあたるという理由からでした。

 1913年、おそらくマーガレットについてゆけなくなった夫は彼女と離婚します。
そして1914年マーガレットは、初めてコラムを発表してからわずか2年後に産児制限の普及を目的とした新聞『女性反逆者』The  Woman  Rebelを始め、更に2年後1916年10月に、
ブルックリンの側にあるブラウンズヴィルに
【家族計画と産児制限のための診療所】
 を開設したのです。
この種の施設としてはアメリカ合衆国では最初のものでした。

 しかし、この活動は官憲の不興を買い、マーガレットはまたもや猥褻郵便物(産児制限に関する情報)を送付した廉で再び逮捕されてしまうのです。そこで、起訴を免れるためにマーガレットはアメリカを離れ欧州に渡ることにします。

そして欧州でマーガレットは、なんとあの著名なSF作家(ハーバート・ジョージ・ウェルズ)通称H・G・ウェルズと出会い恋仲になったのでした。

 このH・G・ウェルズは1888年「時の探検家たち」(※後の1895年「タイム・マシン」の原型)や、1896年「モロー博士の島」1897年「透明人間」1898年「宇宙戦争」など、優れた作品を次々と発表しています。
(いずれも現在までにハリウッドで映画化されたものばかりです。)

 
このように、彼はSF作家の父として世界中にファンがおり誰もが知るところですが、実は彼にはもう一つの顔を持っていたのです。

 それが「社会主義」です。
H・G・ウェルズは、19世紀後半に創設された「フェビアン協会」というイギリスで最もよく知られた社会主義知識人による運動に参加していました。
この協会は、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスを設立する母体となり、現在もイギリス労働党の基盤の団体となっています。
(H・Gウェルズを調べると陰謀論からするとかなり癖者になります。)

 とりあえず、マーガレットが、このH・Gウェルズから社会主義思想を取り入れたかは後の彼女の人生を追ってゆくと分かります。

 翌年、アメリカに戻ったマーガレットは再び活動を開始します。
彼女は不定期刊行物の「産児制限レビュー&ニュース」を立ち上げ、またアメリカ社会党の機関紙「呼び声」The  Callに、健康に関する寄稿を行うこともしました。

 1916年、ブラウンズヴィルの診療所開設と同年にマーガレットは「すべての娘が知るべきこと」を出版しています。この本は後にE.Haldeman-Juliusの  " Little  Blue  Books  "
の一冊として広まりました。
マーガレットは、月経などの基礎的な知識だけでなく、思春期の性sexualityについても理解を広めようとしました。

1917年に「すべての母が知るべきこと」を出版します。しかし、マーガレットは同年「社会の邪魔者」として扱われ、感化院(現在でいえば児童自立支援施設)に押し込まれてしまうのです。
でもマーガレットが逮捕され何処かに押し込まれたりするのはこの時が最後になります。
この先は運命のように彼女の人生が飛躍的に好転し始めるのです。

1921年、マーガレットはLothrop  StoddardやC.C.Littleと共に「アメリカ産児制限連盟」America  Bith  Control  League, ABCLを設立しました。彼女はもはや一人で活動していません。
そして翌1922年、彼女は日本に訪日して、日本人フェミニストである※※石本静枝と共同して産児制限運動を推進することを決めています。


 この日本人初かな?のフェミニスト
 石本静枝について調べてみました。

 ※※石本静枝(後の加藤静枝)は
廣田理太郎(工学者・実業家・教育者)の娘で、父方の叔父は廣田精一(工学博士・教育者・東京電気大学・神戸大学工学部の設立者。他…)、
母方の叔父は鶴見祐輔(日本の官僚・政治家・著述家)がいる、とにかく静枝は財界の裕福な家柄の娘でした。

静枝は1914年男爵石本恵吉と最初の結婚をしています。(石本男爵は三井財閥系の三井鉱山に在籍していた。)新婚当時、夫の石本は労働者の実態調査で三井三池炭鉱に赴任していました。
その数年後、労働問題の研究でアメリカへ渡ることになり、妻の静枝は幼い2人の子供を日本に残して夫の後から1919年に渡米するのです。

そこで静枝は、貧民街で産児調節運動の啓蒙していたマーガレット・ヒギンズ・サンガーと初めて出会い、感化されたのです。
夫石本もマーガレットを支持し、日本に彼女を招待することに賛同したのです。
マーガレットは以後6回も訪日しています。

 しかしその後、静枝は石本男爵とは離婚し、1944年に労働運動家の加藤勘十と再婚しています。
そして加藤が政治家だったからなのか、静枝は1946年GHQの要請を受けて第22回衆議院選挙に立候補、初当選を果たし「日本社会党」に入党し、政治家の仲間入りを果たすのです。
以後、GHQの指導に従い産児制限の立法化を図り資金援助も受けています。

1947年静枝は、人工中絶と不妊手術を合法化する目的で、福田昌子と太田典礼の3人で法案を提出します。
夫の加藤は戦後の人口増加と共に、以前の国民優生法が「実際には悪質の遺伝防止の目的を達することがほとんど出来ないでいる」ことを挙げ、翌1948年に「優生保護法」が成立することになります。
しかし後年になり、この法律による不妊手術を受けさせられた人々が、国を相手取り賠償訴訟を次々と起こすことになったのです。

 以下静枝の経歴を簡単にまとめました。
1931年日本産児調節婦人連盟を設立。
1932年アメリカへ講演旅行。
1934年産児制限相談所を開設。
1936年アメリカへ講演旅行。
1944年3月に別居中だった石本恵吉と離婚。
1944年11月加藤勘十と再婚。
1954年日本家族計画連盟を結成。
1970年勲二等宝冠章。
1974年日本家族計画連盟の会長に就任。
1975年勲一等瑞宝章。
1979年日本社会党を離党。
1988年国連人口賞を受賞。
1995年家族計画国際協力財団(現在の国際協力NGOジョイセフ)会長に就任。
2001年呼吸不全のため104歳で他界。


 静枝は、最初の夫石本との間に2人の男の子がいましたが、長男は出征し次男は結核で病死しています。
そして加藤勘十との間には娘が1人おり、本名は多喜子というのですが、実は芸能人でお馴染みの「コーディネーターの加藤タキ」です。


 なぜこの加藤静枝を詳しく書いたのかは、色々マーガレットと引っかかる点(ある意味よく似た人生)があったからです。
この2人のフェミニストは女性の幸福ために「産児制限」や「優生学運動」を行ったのですが、彼女達の思想を(周りの背景の目的を果たすべく者達によって)都合よく利用されたような感じがしてくるのです。
実際にマーガレットの場合は、後に歪められて政治利用や他の目的へと多用されることになりました。



 マーガレットは1922年に、日本に訪日した同じ年に、石油王ジェームス・ノア・ヘンリー・スリーと結婚しています。
この結婚でマーガレットは大富豪婦人となりました。これで彼女を見る世間の目や扱いは一変したに違いありません。正にシンデレラストーリーです。


 1923年、ABCLの後援のもと、マーガレットは臨床研究局を設立。これがアメリカで最初の合法的な産児制限診療所となりました。(1940年にマーガレットの功績をたたえて「マーガレット・サンガー研究局」と改名しています。)

また、この1923年には「産児制限のための連邦法制定全米委員会」を作り、多くの州で医学的な管理下における産児制限が合法化された後の1937年に解散するまで彼女が会長を努めました。
1927年にはジュネーブで開かれた「世界人口会議」の組織にあたってもマーガレットは助力を行ったといいます。

1928年にABCLの会長を辞任しましたが、1930年には「産児制限国際情報センター」の会長になっています。
1937年、マーガレットは2つの出版物を興します。それは" The  Birth  Control  Review  "と
" The  Birth  Control  News  "です。
1952〜1959年まで私設のものとしては世界最大の国際家族計画機関でした。
(石油王婦人ですから何でも建設出来ます。)

そうしてこの機関名があの、
後にスキャンダルになった胎児臓器売買の
「International  Planned  Parenthood  Federation  」です。
マーガレットはこの機関の当然ながら会長になります。

1960年初めには、開発されたばかりの経口避妊薬の利用を推進し、欧州、アフリカ、アジアを回り講演を行いながら診療所の設置を援助しました。

1966年、マーガレットが87歳で亡くなる前に、グリスヴォルド事件によってプライバシー権を認めた判決がなされ、これがアメリカ合衆国で夫婦間の産児制限が合法化されることになり、50年に渡るマーガレットの闘いの頂点となりました。


 初めから見てきたように、マーガレットの思想の原点は、女性の権利であり幸せでした。
当時の男尊女卑の考え方、(マーガレットの生きてきた時代はまだ一般社会や宗教上の権威者が女性を男性の下に置き続けようとしていた為)その理不尽さからの抵抗と解放だったのです。
それは時代の一般的な性的な思想を、ある意味根底から変えるものだったのです。

また、当時の女性達も性的な問題をマーガレットのように進歩的に捉えている者が少なく、性病に関する知識も乏しかったことも問題でした。その上性病を治療する機会も少なかったのです。マーガレットは、そうした救われない現状を社会に対して厳しく批判していました。
彼女は自身を「社会主義者」と呼び、若い労働者階級の女性達が置かれた「現代資本主義」の状況を訴えたのです。


 後にマーガレットは、人体生理学についての理解や実践的アプローチは当時としては進歩的であったものの、人間の性的な心理学は19世紀のフロイト以前の段階に留まっていたために、ここにマーガレットの限界があったのだと言われています。
マーガレットにとっての産児体制は、性交の望まざる副作用を抑制することに大きな意味があり、男女のセックスの楽しみを解放する手段としてではなかったからです。
「すべての娘が知るべきこと」の本でマーガレットは、『まともな男女がまともに頭を使っていれば、男の性衝動なんて楽勝に抑えられる、という程度の意味。』と書かれ、マーガレットにとって性はある種の弱さであり、それを埋没させてしまうことが強さの現れだとしていました。
(彼女はある意味、非常に綺麗な男女の性愛を説いていたといえます。)


 またマーガレットは、
女性の味方であり、理想的な性愛を説く一方、
人種差別的な思想も持っていました。

「魚や両生類にはちっぽけな脳しか無く、性衝動をコントロール出来ない。似たように、アボリジニ(オーストラリア大陸とタスマニア島等、ニューギニアなどの先住民)の脳はチンパンジーに毛を生やした程度なので、ありふれる性衝動を抑えるには警察が必要だ。」
と話しています。
でも、これは先住民に対してだけ(もちろん良いことではありませんが…)の人種差別であり、肌の色や国に対する人種差別は彼女にはありませんでした。

そしてマーガレットは、※優生学についてもその行き過ぎた理想を持っていました。


 ※優生学とは
応用科学に分類される学問の一種で一般に
「生物の遺伝構造を改良する事で人類の進歩を促そうとする科学的社会改良運動」
と定義される。1883年にフランシス・ゴルトンが定義した造語。


 優生学によると、人類の遺伝的資質は社会介入によって向上させることが出来るといいます。
「遺伝的に不適当な」人物をターゲットとして優生学者がすすめた社会的介入としては、選択的な生殖、断種、安楽死が含まれていました。

1913年にマーガレットは、「悪い家系」を断つための断種と隔離を行う「強固なポリシー」について触れています。
生物学と遺伝学の進歩によって、マーガレットは障害者が子供を産めないようにして人類の資質を向上させるような方法は、実際は無効だろうと考えていました。

しかしマーガレットが押し進めていた優生学運動は、20世紀初めのアメリカでは強い影響力を得たのです。
アメリカの優生学者の活動の結果、何万人単位で断種が行われたり、コロニーに強制隔離されたりする被害者が出たのです。

もちろんそのような結果は、マーガレットが望んだ訳ではありません。
マーガレットは女性が男性による性的支配の犠牲にならないように、あらゆる場面で守ろうとした産児制限であり、彼女が理想とする、
より平等で公正な社会を目指す思想・運動・体制のための社会主義だったのですから…。

ところが、彼女のこの「性的な衝動に対する人種差別的(一部分)な考え」と、社会の理想的な「優生学」は歪められた形として利用されました。それがヒトラーの「ナチの優生学運動(T4作戦やホロコースト等)」でした。

 つまり、ナチの優生学運動(ホロコースト)を起こさせたのは、マーガレットの思想と、アメリカ合衆国における優生学運動に責任があると世間では言われているのです。

エドウィン・ブラックは、
「優生学の応用はヒトラーを魅了し、アメリカの優生学者自身がナチスドイツはアメリカに“ 追いつけ追い越せ ”の状態だと認めていた。
ヒトラーの優生学的制作によって❲支配者民族❳を作ろうとする熱意は、元を正せば白人優位主義によるものである。優生学は白人優位主義そのものではないが、総じて関連したコンセプトである。マーガレットは、消極的優生学による❲人種衛生❳の考えを推進した。最もマーガレットの著作には特定の人種が総体として他の人種に比べ優生学的に優位あるないし、劣位であると示した部分はないし、ナチの反ユダヤプログラムを〈 彼女は悲しく恐るべきこと 〉 とした。ヒトラーの人種差別、反ユダヤ主義には英語圏の影響は無く、合理化のためだけに優生学を持ち出したのであり、これは疑似科学によくあることである。」と続けています。


 マーガレットは、産児制限を「優生学に劣る」子供が生まれないようにする手段と見ていました。生まれてさえ来なければ、その子供が不利を被ることもなくなるからでした。
また、「積極的優生学」( [適応者]の出産を増やす )を実践的ではないとして退けました。

多くの優生学運動の指導者達が「不適応者を積極的に安楽死させよ」と叫んでいましたが、マーガレットは反対の立場を取りました。

  ブラックは、
「Robinsonは駄目人間に青酸カリを注射しろと言うが、マーガレットは反対した。産児制限運動仲間とは違い、自分自身は不適応者も、その子供も電気椅子 ― 原文ではIethal  chamber ―送りにするなど信じられない。」
と語っています。

 現在でもマーガレットについての論議はつきません。現代に続く産児制限運動の指導者として広く認識され、またアメリカにおける「産む権利」の運動の象徴である一方、「堕胎推進者」として非難を浴びせる人もいます。

 家族計画運動(Planned  Parenthood)や妊娠中絶に反対するグループは、マーガレットの考え方を攻撃し、その際マーガレットの努力に対して、「産児制限は優生学による人種の浄化を願ったものだ、それどころかマイノリティの近所に産児制限診療所を置き、彼らの絶滅を期しているのだ。」と非難しています。

 このようにマーガレットの主張は度々文脈を無視して部分的に引用され、逆に社会主義や優生学への関与はしばしば合理化されたり、支持層や伝記作家から無視されたりするのです。


 マーガレットが人工中絶に反対した理由について、闇堕胎で母体が損なわれることを彼女は若いうちから知っていたからでした。
人工中絶がいずれ合法化されようが、避妊が行き過ぎれば必要性を失うだろうと考えていたのです。



 
 《 まとめ 》
 
 私的に解釈させて頂きますと……
 
 マーガレットは、純粋に女性の為と生まれてくる子供達の事を考え、生涯活動し続けたのだろうと思います。
しかしその一方、彼女の思想や運動は、確かにアメリカの国を動かす上層部の者達や、ヒトラーのような人物、または宗教家達に重宝され利用されました。
また、加藤静枝についても日本の財閥の血筋であった事や、彼女を取り巻く背景(マーガレットとの繋がり)を考えると……、
1946年にGHQに要請され政治家になり、産児制限の立法化を図り資金援助を受けたという事実も、結果は利用されているということではないかと思いました。
日本は戦争に負けて以来アメリカ支配になっているのですから、静枝を使って洗脳計画をしたということ。



 やはりこの世の支配層のイルミ側としては、このマーガレット・ヒギンズ・サンガーを
最初に活動を始めた頃の1912年〜にコラムを発表し始め、何度もスキャンダルを巻き起こして投獄された頃から注目していたのだろうと思います。
もちろん推測ですが、1916年にマーガレットが産児制限の為の診療所をアメリカで初に開設した後、また逮捕されましたがその後すぐに欧州に渡り、SF作家のH・Gウェルズとなぜか出会い、短期間で恋仲にまでなってH・G・ウェルズの社会主義思想に傾倒してしまうあたりを見ますと「あれ?」と思いますし、またその後協力者も得て1921年「アメリカ産児制限連盟」を設立し、翌年1922年に今度は石油王ジェームスとすぐに結婚してしまうあたりも驚きです。

だいたいH・Gウェルズの時も、石油王ジェームスの時もどういう経緯で出会って、恋愛したのか?結婚に至ったかは書かれてないので分かりませんが、2人とも短期間ですし、どう考えても出来すぎていて違和感しかありません。
つまり、H・Gウェルズも、石油王ジェームスもイルミの命令によって彼女に近づいたのでは?と思えてくるのです。

また、このジェームスと結婚した年に石本静枝夫妻に招かれて日本に訪日する(静枝とは1919年にアメリカで出会っていた)等も、誰かが筋書きを書いているかのようです。

その後のマーガレットや静枝の大成功は年表を見れば分かりますからこれはイルミ側の悪魔支配の計画には非常に利用価値が高かった思想だったのだろうと思います。
 

 マーガレットや静枝の女性を幸せにしようとする思想はともかくとして、
結論、まずフェミニスト思想は反キリストです。「人種差別」も「優生学」も「社会主義」も、歴史的に悪魔的な思想であることは誰もが既に知っています。そして、その思想が起こす「罪」は未だに解決されていません。

 そして近年マーガレットの立ち上げた
Planned  Parenthood社は、最初の理想とはかけ離れ、ついにはイルミのカニバリズム運動に使われることになってしまったのです。