世は瞑想・マインドフルネスブームですが、まず、瞑想について詳しく説明していこうと思います。

◆ 瞑想
 瞑想は、単に心身のバランスを整える日常的なものから、宗教的な意味合いをもち、神、宇宙などに祈り求めるなどの行為、もしくはヨガなどの修行的な意味を含んだ作法のような行為です。ですから、瞑想を始める人の目的によってその意味や成果は違ってくるといえます。
その上、瞑想は誰にでも直ぐに行うことが可能でありそれぞれに心身にとっても、修行的な意味においても良い結果をもたらすものだと信じられているのです。
果たして本当に瞑想とは良いものでしょうか?
 

 ▶概説
 瞑想法は、一つの対象を定めた上で、その対象に集中を高めていく手法と、対象を定めずに心に去来する現象を一心に観察する手法に分けることができます。前者の手法における対象としては
①神などの聖なる存在のイメージ
②特定の文字のイメージ
③紙上に書かれた円形の凝視
④呼吸に合わせて一心に数を数えること
⑤マントラや念仏などの短い音節の繰り返し
⑥呼吸に対する腹部や鼻腔の感覚変化
など多種多様です。いずれの手法においても、現実世界に対する心の持ちようを変化させていくことを目的としており、集中力が養われるに伴い心の変化が起きるとされています。瞑想の具体的な効用として、感情の制御、集中力の向上、気分の改善などの日常的な事柄から、瞑想以外では到達不可能な深い自己洞察や対象認知、智慧の発現、更には悟り、解脱の完成まで広く知られています。宗教や宗派、あるいは瞑想道場により、瞑想対象や技術が異なります。仏教における瞑想法では、人間の心か多層的な構造を持っていることを踏まえ、意識の深層段階へと到達することを目的とした手法が組立てられる場合があります。例えば、大乗仏教における仏教哲学、仏教心理学では意識は八識に分類され、その中には末那識、阿頼耶識と呼ばれる層があり、仏教の瞑想法はそこへ到達するための方法と言われています。
末那識、阿頼耶識は、近代になって西洋心理学で深層心理学と呼ばれるようになったものに近いと言われています。
一方、上座部仏教においては、瞑想修行の進展に伴い、心の変化を九段階に体系化(一般的認識である欲界を超えた後に現れる第一禅定から第九禅定)しており、第一弾定以上の集中力においては仏陀によって説かれた観瞑想の修行を行うことで解脱が可能と言われています。
ヒンズー教における瞑想法は、真我や神との合一体験を目的とした瞑想が主流です。仏教やヒンズー教における瞑想法の研究の到達点は一般的には輪廻転生からの解脱ですが、実践者の悟りや解脱についての認識の違いが、宗派、宗派を区別する根拠の一つとなったのです。



 ○ 様々な宗教、宗派における瞑想

⚪インド発祥の瞑想
 森林に入り樹下などで沈思黙考に浸る修行形態は、インドでは紀元前に遡る古い時代から行われました。バラモン教、ヒンズー教、仏教、ジャイナ教などインドの諸宗教で実践されています。紀元後4_5世紀頃にパタンジャリが、サーンキヤ学派の理論に基づいて瞑想の技法を体系づけ、その技法を継承する集団が形成されるようになりました。その瞑想は、「ヨーガ」と呼ばれて継承者集団はヨーガ学派となったのです。意識をただ一点に集中させ続けることによって、瞑想の対象と一体となり究極の智慧そのものになるとしました。この状態は三昧、サマタ、サマディーと呼ばれます。仏教の始祖とされる仏陀は、究極の智慧を得たのですが、それは上述のインドの瞑想法、あるいはヨーガによって得たものであり、彼はその瞑想法をより安全かつ体系的なものに発展させました。それ故仏教の諸派の中には、今でもヨーガの瞑想の技法を継承している派もあり、更に独自に発展させている派もあります。大乗仏教諸派や他の宗教では、三昧による一体感を究極の目的としている場合が多いのに対して、上座部仏教では、三昧の完成を修行の最終目的とせず、三昧に投入できるほどの極めて高い集中力で、今をあるがままに見ることで智慧の完成(悟りの境地)を目指します。
仏教心理学では、三昧によって得られる境地をその内観体験によって第一から第九禅定まで体系化している一方で、ヴィパッサナー瞑想(ミャンマー出身のニャーナダジャによる上座部仏教からきた瞑想法)によって得られる境地は、これらの禅定とは別の体験としており、これが仏教と瞑想を基本とする他の宗教との違いとなっています。


◇ キリスト教と瞑想
 
 キリスト教の伝統においては、特に修道院の修道士らの日課には瞑想を行う時間が設けられていることが多いのです。信者にとって、俗世から離れた上で神への祈りを絶やさず瞑想に励む修道士は、一つの理想、憧れの姿です。
日本のカトリック教会では、修道院などにおいて書籍も何もない場所でじっくりと神に関して思いを馳せて祈りを捧げる「霊の体操」のような霊操が行われています。東方教会においては、「主の祈り」を唱え続けつつ深い瞑想の境地へと入ってゆく方法があり、これは『ヘシカズム(静寂主義)』と呼ばれています。


□ 回教(スーフィズム)
 
 イスラム教の神秘主義哲学であるスーフィーにおいても、様々な瞑想が伝えられています。呼吸瞑想、五つの要素、(地・水・火・風・霊気)による浄化、自然の瞑想一偏在する神の体験、音による瞑想などが存在します。また、立って回りながら行うワーリング瞑想はよく知られたスーフィーの瞑想法です。スーフィーにおいて覚醒とは、聖なる神の意識に目覚めることであり、神の目を通じて全ての現象を見つめ、神の心によって生きることです。

 
○ 神道
 神道では瞑想という語は使わないが、瞑想に相当する行法か存在し、「御魂鎮め」と呼ばれています。その実態は流派によって様々です。


 瞑想は世界中で研究されています。

▷瞑想を科学する

 瞑想は、研究者や信奉者によってしばしば科学と呼ばれています。
瞑想は東洋・西洋共に行われてきましたが、ユダヤ教やキリスト教では宗教的実践の中心に据えられることはなかったため、欧米に広く知られるようになったのは、東洋の瞑想伝統の流入以降です。当初は懐疑的に捉えられ、とくに精神分析的訓練を受けた専門家達は、強い拒絶感を持ち「瞑想とは、子宮内の生活状況への心理学的、身体的退行であり‥一種の人工的精神分裂症である。」などと説明されていました。1960年代〜70年代には、欧米に様々な東洋的瞑想実践が導入され、次第に正当な評価を心がける心理学者や精神科医も現れるようになったのです。
(心理学者達や精神科医達は結果、世の流れ(ニューエイジブーム)や評価に、非難を恐れ次第に合わせただけだということになります。)

 瞑想は欧米で補完、代替医療として注目され研究が行われてきました。初期の研究は、超越瞑想の普及を目指すマハリシ(ニューエイジブームの一翼を担った実業家)財団旗下の大学で超越瞑想を対象に行われたものが多かったのです。これはヒンズー教に由来する瞑想法で、支持者は自己啓発やリラックス法として科学的に効果が証明されていると主張して普及を行っています。支持者は他の瞑想法と異なり心を集中させることはないとしており、研究者は、「マントラ(静かに復唱する単語、音、または語句)を用いて心に入り込む雑念を追い払う」と説明しています。多くの研究者は、超越瞑想の研究はその実践者や支持者によるもので、研究結果及び研究法の妥当性に疑問を投げかけています。

 瞑想法の種類によって心身への影響は異なると考えられていますが、その点を考慮せずに行なわれた研究も少なくありません。
2001年にマサチューセッツ総合病院のサラ・ラザールは、瞑想と経験による実験を行った結果、瞑想が脳の自己認識、思いやり、内省といった分野に比較的急速に生理的変化を生じさせる可能性があることを示しました。
また、ペンシルバニア大学のアンドリュー・ニューバーグは、深い瞑想状態や祈りの状態にある者の神経学的変化を研究しました。ニューバーグによると、深い祈りを込めた瞑想は、上頭頂葉後部の活動を低下させ、血流を減少させていたといいます。また、瞑想者のメラトニンやセロトニン濃度は上昇し、後者2つはストレス負荷により上昇するので、この変化は理にかなっているとしました。こうした研究成果は、あくまでも脳と体験に「対応関係」がある事を示すものです。(脳内の変化が体験を生み出すという因果関係を証明するものではありません。)ニューバーグは、瞑想時における様々な体験が「客観的な現実であるか」と問われた時に、それは「神経学的な現実である」と返しています。

⚪治癒的な作用
 瞑想研究を概観すると、瞑想は心理学的に健康を導き、感受性を高めることが示唆されています。不安(漠然とした不安だけでなく不安神経症による不安も)を軽減し閉所恐怖症、試験恐怖、孤独恐怖など特定の恐怖症にも有効性がありアルコールや薬物の乱用を抑え、精神科の入院患者にも有益であるという報告もあります。また、心身医学的な見地から心筋梗塞後のリハビリテーション・気管支炎・不眠・高血圧に有効であるという可能性も説かれています。また瞑想者と非瞑想者との比較において、人間関係における信頼や自己評価・自己コントロール性・共感能力・自己表現を促進するという研究結果もあります。

(まるで瞑想さえしていればどんな精神疾患も身体的な病気も快方に向かうと言っているような研究結果ですが、以前「ヨガはおしゃれなフィットネスではない」でヨガについてお話しました通り、瞑想は医療的な分野よりも宗教的な分野からの起源であり、ヨガの基本的な作法、神への崇拝行為であるのです。上記の悪魔崇拝者のマハリシが瞑想を科学的に立証出来たなどというのは明らかに嘘だと疑うべきでしょう。この世に何でも効く万能の薬など無く、まして瞑想は医療行為には決して結びつかないといえるのです。
《マインド・フルネス(瞑想)認知療法》が心理療法として効果があるとされていますが、提唱者のマサチューセッツ大学医学大学院教授のジョン・カバット・ジンは仏教の指導者に修行法と教理を学び、それを西洋科学と結びつけたと言います。彼は1966年から禅・ヨーガを実践し、1979年にインサイト瞑想センターでのヴィパッサーナ瞑想の実践経験をしています。つまり、宗教的な思想をそのまま医療として利用しているのです。)

▶弊害・危険性
 瞑想のもたらす心理的作用が報告されるようになり、健康管理、心理治療、教育などの分野に応用されるようになりましたが、研究の増加につれてその弊害も報告されるようになりました。時々起こるめまい・現実との疎外感・それまで馴染みのなかった思考・イメージ・感情などが引き出され敏感になることによりもたらされる苦痛(妄想的な思考・不安につきまとわれる頭痛・消化器系の不調など)、また、退屈・憂鬱・落ち着きのなさの増大などが報告されています。
瞑想によりそれまで保たれてきた防衛のメカニズムが崩され、普段は意識に登ってこない幼児期の体験や不快な体験の記憶、身体の痛みが浮上することがよくあるといいます。またかつて精神病を患った人が瞑想後に再発する可能性もあり、心理学的な知識のない瞑想指導者が更に集中的な瞑想をするようにすすめ、症状が悪化することもあるのです。
長期のリトリート(集中合宿)の場合、瞑想体験が進化し、内面への意識集中が深まり日常生活から意識が遠ざけられることにより、合宿後に通常の生活に戻っても日常には戻れず、離人症状が現れ精神障害となるケースが多いと言います。返って健康だった人が瞑想により病になるということなのです。また、霊的な作用で憑依体質となるケースも後を立ちません。

 瞑想修行には「生」の全てが意味を失い、深い苦痛や絶望、重苦しい抗うつ感に苛まれる「魂の暗夜」という状態があります。スピリチュアリティへの強い欲求や志は、本質的に自己の責任放棄という要素があるため、外的対象に依存しがちになり、スピリチュアル・アディクション(中毒)に陥る可能性が常にあるのです。


次にまた続きます。

補足文1.)
 マインドフルネスの流行はジョン・カバット
・ジンによって起こされたようですが、1970年初め、禅の師による瞑想についての講義に参加して感動し、それ以来瞑想を始めたといいます。基本理念は道元禅師の曹洞宗です。1979年にマサチューセッツ大学医学部にてストレス低減、クリニックにて慢性の痛みを持つ患者を対象にセンター・フォー・マインドフルネス・プロジェクトを開設しました。1990年代には、ツインデル・シーガル、マーク・ウィリアムズ、ジョン・D・ティーズディールらによって、マインドフルネス認知療法MBCTへと発展しました。2007年には、マインド・フルネスや瞑想の研究にアメリカ国立衛生研究所NITがこの分野に注目し、研究への出資を開始しました。2003年に、マインドフルネスを対象として科学雑誌に掲載された論文は52でしたが、2012年には477までになりました。2014年までの5年間にNITは50ほどの研究に出資しましたが、半分はマインドフルネス・ストレス低減法単独の研究です。 
この健康に危険をもたらす可能性の高い、怪しい起源(ヒンズー教などのインドの宗教)を元にした瞑想の研究をアメリカの衛生機関が出資して研究するのは不可解としか言えません。
更に、ウインドウズ2.0とは2009年に開始された技術的リーダーのためのマインドフルネスの年次集会において、カバット・ジンだけでなく、ツイッター、インスタグラム、フェイスブックの役員までもが参加しているのです。また、グーグルは社内にマインドフルネスのプログラムを持っているといいます。
ITを動かしているのは世界トップのエリート達です。つまり、イルミナティです。これは知らない人はもういないでしょう。
このイルミナティの配下にあるIT業界がほとんどマインドフルネスの瞑想を推し進めているのです。そして正に異常と思えるほどの広がりを見せています。

 今や1000人以上の認定MBSRインストラクターがいて、アメリカのほぼ全ての州と30カ国以上にて技術を教えているのです。
2013年12月には日本マインドフルネス学会が発足しています。


 なぜイルミナティ達はこれ程、「瞑想」を人々にやらせたがるのでしょうか?
いつも同じ理由です。