中でも得意だったのは忍び足だった。
誰に気付かれるわけでもなく、さっと入り込んでは獲物だけをいただく。
その所業は間抜けな家のやつらなら、盗みが入ったことにも気づかないほど。
変化して耳やしっぽを隠し、色仕掛けで人を化かす同類よりも、はるかに上等な手段だという自信があった。
色仕掛けにひっかかるのは馬鹿な人間だけ。
でも私の場合は、相手が馬鹿でなくても構わず盗める。
彼らとは違う。彼らとは・・
「そんなところを探しても金目のものはないよ」
慢心していた私の胸に、声が突き刺さる。
年貢の納め時がきた。……心が縮み上がるのが分かった。
―――懇々―――
声は奥の部屋から聞こえていた。
まだ姿は見えない。
「(走って逃げるか…いやっ)」
入り口まで出るには、その部屋の近くを通らねばならない。
あちらもそれが分かっていて、しめしめと銃を構えているのかもしれない。
でも…私には疑問が浮かぶ。
「(なぜここの家主は、私に声をかけたりしたんだ…)」
私は、気付かれたことに気付いていなかった。
不意なんていくらでもあって、後ろから、ずどん、とやればそれでよかったはずなのだ。
緊張で流れた汗が床に落ち、ぽちゃんと音をたてる。
ごほ、ごほ…
悪い咳が聞こえてきたのは、そんな時だった。
「(これは………あまり長くないかもしれない…)」
肺を病んでいる者の咳だった。
そういえば、先ほどチラリと見えた部屋のなかで、床についているように見えたのだ。
寝込んでいる、ならば逃げ出す機会もあるかもしれない。
少し希望が見えてきた、と、思っていると「なあ」と再び家主の声。
私は身構える。内容如何ではすぐにでも走り出せるように。
でも、次に聞こえてきた言葉は、遥かに予想を越えた一言だった。
「そんなところより、奥の納戸を調べれば良い。大したものは無いが、多少なら値段が付くものも置いてあるだろ…ごほっごほっ…」
咳が止まらなくなる家主。
………。
私は何かを悩む。
しばらくは動かなかったが、ふらふらと歩きだしたその先は、納戸ではなく家主がいる座敷だった。
起き上がって咳き込んでいる家主まで近付くと、背中をさすってやる。
「ごほ、ごほ…やさしい狐さんだ…ごほっ」
「しゃべるな」
しばらく落ち着かない、尾をひく咳だけが夜半に響いていた。
「…どこの世界に、泥棒へ財産さらけ出す家主がいるよ。あんたお人好しが過ぎるんじゃないか」
黙りこくっているのも気まずくなり、そっと口をひらく。
咳をしながら、はは、と乾いた声で笑った。
「じゃあ…優しく背中をさすってくれる狐さんは、お人好しじゃないのかな、ごほっ…」
「うるせえ。だからしゃべるなって」
苦しそうなのに、なぜかどこか楽しそうだった。
口元も緩めて、しばらく。
咳は少し落ち着いた。
「…ふぅ。人と話したのは久しぶりだ」
「私は人じゃないぞ。……村の奴らとかと話さないのか」
「皆、うつる病気ならいけないって、避けているんだ」
楽しそうだった表情が、すこし陰る。
「でもまぁ、長くない命だ。構うことはない」
…それはさっき、私が考えていたこと。
でも、本人が口にするその言葉は重々しくて。
私は肯定も否定もできずに、黙りこむしかなかった。
行灯から漏れる光が、そよそよと揺れる。
それほど強い灯りではなかったが、温かく部屋を照らしていた。
近頃、冷える。
風が吹きすさぶ外に比べると、とても居心地の良い場所だった。
…どうして私は、こんな明るく温かい中にいるんだろう。
ふと考える。
こんな風にいるのが当たり前、なんて顔をして居座っているような存在じゃないだろう、私って奴は。
そぐわない。
私には冷たいねぐらがお似合いだ、と、私は立ち上がった。
けれど。
「ごほっ…すまない。表の井戸から、水を汲んできてくれないか」
頼まれてしまう。
…それを断れるほど、非情にもなれなかった。
外に出た途端に、一陣の風が吹き抜ける。
一気に身体が冷たくなる。
外に井戸を見つけ、言われるがままに、水を汲む私。
ついでに一口、自分の喉の奥に流し込んだ。
「…だよなぁ」
予想はしていたけれど、水は身を裂くような冷たさだった。
これでは、体を冷やしてしまう。また咳き込んでしまう。
………。
私はまた、何かを悩んだ。
「なんだって今日は…」こんなにも、体がざわめくのだろう。
なにかをしないと気がすまないような気になるんだろう。
私は奪う存在で、与える存在じゃないのに。
らしくない…らしくないんだ。
私は、林の方へ走り出した。
「…おや。狐さん。いつの間に戻ってきていたんだい」
「今度は分からなかっただろ」
少し得意になって笑いかける。
気付かれてなるものかと、全身全霊で気配を消して、先ほどこの家に戻ってきていたのだ。
……いやまぁ、実を言うと、物音が聞こえないように、すこし空気に細工をする術を使ったが……でも、それだって私の実力だ。うん。
「水、汲んできたぞ」
「井戸はそんなに遠いところにないだろ」
「ちょっと道に迷ってな」
かはは、と乾いた声で笑う家主。
そしてボソリと呟く。
「もう死ぬまで会えないかと思っていたよ」
その言葉に、また、背筋がひんやりする。
目と目の間が、じんわりする。
「……そんなこと、言うな」
気持ち、心から溢れてくる。
止めどなく、感情が膨れ上がる。
「死ぬだなんて…本当でも言うな」
脳裏には、私の親の輪郭が浮かぶ。
私は小さかった、輪郭でさえ、ぼんやりとしか覚えていない。
ある日突然いなくなった。
あまりにも突然すぎて、直後は悲しむこともできず、でもなんとか生きることができた。
でも。
数年、経つにつれ、じわじわと。
寒くなるねぐらに、ふと悲しみが襲ってきたりするんだ。
いなくて問題なくても、顔すら覚えていなくても、
そこにいたんだ……私の目の前に、いたんだ。
「目の前に、誰かがいて、そいつとまがりなりにも繋がりができてしまったなら、私は…期待しちゃうんだよ」
今を。その先を。
好くでもわけでなくても構わない。
嫌われることにだって。
それが当たり前のように続いてくれるんだって。
家主の近くに座る。手にしていたお盆を置いた。
「………それはなんだい」
ずっと見えていただろうに、今まで口を開かなかった。
ゆっくりで…優しい声。
「…きのこで出汁をとったんだ」
野と山を風のように駈けて、それでもまだ足りぬと心を跳ねさせ、必要な食材を集めてきた。
必死になる、その理由も分からないまま。
家主は、私の言葉を聞くとふんわりと笑ってこう言った。
「おかしいな。頼んだのは水だったんだけどなあ」
「うるせ。水じゃ冷えるだろ。灰汁をこまめにとってじっくり火にかけたんだ。じっくりとしっかり温まるように」
「そっか、それは時間がかかるわけだ」
身体を起こしてお盆の方に手を伸ばす家主。
お椀を手に取ると、私の方へ向き直る。
私は、思わず、身を固くして様子を見守った。
…のだが。
「じゃあ、最初の目的とは違ったけど…」
気づけばお椀が差し出されている。
「さっきはありがとう。お礼に一緒に飲もうかと思って水を頼んだんだだけど、もっと素敵なものになったね」
「ばっ…」
馬鹿と、言いたかったのに、言葉にならない。
一瞬、自分が自分じゃなくなったみたいに停止する。
私に水を頼んだのは……私のため…………
そういえばあのとき、私は外に出ようとしていて、寒いねぐらに帰ろうとするところで……
「…ば、馬鹿…」と、しばらくしてから言い出す間に、奇しくも私の手には一つの器が収まっている。
「これ、は…お前、の、ために……」
しどろもどろになってる私の手から、今度は器を奪う家主。
「そうだね。頂かなきゃだね」
なんなんだよ。と声にならない。
ほんとなんなんだよ……
「……はぁ。美味しい」
家主が漏らした一言に、安堵のため息を漏らす私。
するとどうだろう。止まっていた心が嘘のように動き出す。
「だ、だいたい、私へのお礼を、私に頼んでどうするっ」
「ああ。失礼だったね。ごめんよ」
「それに、どうせ飲むなら、なんで最初に私へ器を渡したんだよっ」
「ああ。そうだね。悪かった」
打てば響く。
家主が言葉を口にするたび、私の中で広がっていく。
なにか。
それはまるで、温かい出汁のようで…
心の中が、じんわりと温まっていく…
「……ばか」
私はたまらず、泣き出した。
終。