馬鹿たちの学校(河出書房新社): サーシャ・ソコロフ | 夜の旅と朝の夢

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【ロシア文学の深みを覗く】
第54回:『馬鹿たちの学校』
馬鹿たちの学校/河出書房新社

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今回紹介するのは、ソコロフの長編小説『馬鹿たちの学校』です。

ソコロフは、1943年生まれのロシア語作家。本書の解説などによれば、1970年代に本格的な作家活動を開始したようですが、ソ連国内では発表の機会に恵まれず、国外へ脱出。1977年にカナダ国籍を取得し、以来カナダで暮らしているとのことです。

翻訳者は本書を「現代ロシア文学の古典」と評していますから、ソコロフは現代ロシア文学を語る上で外せない作家の一人なのかもしれません。ただし、邦訳書としては、本書『馬鹿たちの学校』と、同じ翻訳者による『犬と狼のはざまで』くらいしかなく、その辺りの詳しい事情はよくわかりません。

よくわかるのは、本書『馬鹿たちの学校』が尋常ならざる小説だということです。

先ず、語り手がかなり特異です。例えば、本書は以下のような二人の人物の会話で始まります。

『さて、でも何から始めたものかな、しかもどんな言葉で。何だっていいさ、こんなのはどうだ、そこ駅傍池では、ってのは。「駅傍」だって? いや、そりゃマズいよ、文体上間違っているもの(P6)』

しかし、この会話をしている二人の人物は、本当は一人の人物であり、その人物の中の二つの人格(役割?)だということが読み進めるうちになんとなく分かってきます。

そして、この人物(第1章のタイトルにもなっている「ニンフェア」という名前らしい)は、物事を分かり易く説明できないのか、それともただそれをしないだけなのかは不明ですが、とにかく混乱しています。

自分がある特別な学校(当然、本書のタイトルにもなっている「馬鹿たちの学校」のこと)の生徒であるかのように語ったかと思えば、そんな学校をとっくに卒業したエンジニアであるかのようにも語ります。

このような混乱(というか錯乱?)が全篇にわたって続きますが、唯一の例外が全部で5章あるうちの第2章。第2章は、複数の独立したエピソードが並べられていて、各エピソードには混乱した語りなどは皆無。少し切なく、そして少し安易な物語。

他の章とは一見関係ないようにも思えますが、第2章のタイトル「今となっては」を鑑みると、実際には他の章で描かれたことを後になって冷静に整理し直したものと解釈できるでしょう。つまり、他の章で描かれた混乱した物語と、分かり易い第2章のエピソードは同じ事件を別の側面から見ただけであるとも考えられます。

ということは、ストーリーさえ分かればよいのであれば、第2章だけ読めばよく、他の章を読む必要がありません。しかし、本書を文学足らしめているもののほとんどは、第2章以外に宿っていると言っても過言ではないでしょう。つまり、本書は、ストーリーのような「内容」よりも、どのように描くかという「形式」の方がはるか重要な類の小説というわけです。

訳者は、本書解説において、ロラン・バルトの『零度のエクリチュール』などを用いて、本書を「書くこと」ということを意識した小説であることを強調しています。そのような小説の「読み方」は最近の流行ではあると思いますが、個人的には、「内容」と「形式」の相互作用に関する刺激的な実験小説ととります。

混乱した語りや、句読点のない文章が数ページにもわたって続くといった文体的な実験など、取っ付きにくい小説であることは否めませんが、精読すると、意外と面白く感じます。ということで、臆することなく是非手にとってみてください。

次回もソコロフの予定です。