【レビュー】は過去に鑑賞した映画を中心としています。
むかし書いたレビューを修正してUPしたものもあります。
ネタバレも数多くあります。
最新作よりも、古い作品の鑑賞レビューが多いです。
「危険な関係」
18世紀フランス革命真っ只中の、パリ貴族社会の堕落とインモラルな世界を描いた秀作。贅の限りを尽くした貴族たちって、もう欲しいものが無いのか、あとはただ只管退廃的な生活を送るだけ、ということを余日に描かれていて、こういう世界は呆れるばかりです。だけど、コスチュームプレイとしては『アマデウス』よりは、こちらのほうが素晴らしい。
社交界のお局的存在のメルトイユ伯爵夫人は、愛人のバスティード伯爵が若い処女の娘と結婚するらしいという噂を聞き、心中穏やかではいられない。そこで、昔の恋人であり、現在は女ったらしなバルモン子爵を使い、娘の純潔を奪うように唆す。
見ているだけでウットリとしてしまう豪華絢爛な貴族社会がまた素晴らしい。「本当の恋は決して幸福なんかではない」。女性を籠絡することが仕事であり名誉でもあるバルモン子爵の手に遂に落ちてしまうトゥールベル夫人を、子爵の伯母ににあたる老婦人はこんなふうに慰める。考えてみると、主な女性の登場人物全てと、ベットを共にしている子爵の背徳ぶりは、裏で乱れきっていたとはいえ表向き厳然とモラルに縛られていた18世紀にあっては、かなりスキャンダラスなことであったでしょう。200年も前に書かれたラクロなる人物の原作が禁断の書となったのも納得がいきますね。しかも、子爵もサロンの名士メルトイユ伯爵夫人に半ば操られていたといえる。恋愛を戦略として楽しむ伯爵夫人、色事師の子爵、純愛と裏切りに苦悩するトゥールベル夫人の3人とも、このテーマは不倫と純愛が錯綜する現代にピタリとマッチしています。
優柔不断で恋愛策士のバルモン子爵役のジョン・マルコビッチがふてぶてしい男をなかなか熱演。メルトイユ伯爵夫人のグレン・クローズは、気高くも、歳を取ることへの恐怖心から破滅へと向う女をこれまた熱演。この人って、けっこう美人だったんだとこの映画で気がついた。トゥルーベル夫人のミッシェル・ファイファーも綺麗ですね。キアヌ・リーヴスの存在感が薄かったのがちょっと残念。バッハのチェンバロ使った宮廷音楽も、この映画を盛り上げています。
「ライフ・アクアティック」
ウェス・アンダーソン監督といえば、『ロイヤル・テネンバウムズ』という作品を以前に鑑賞したけれど、どうも印象が薄い映画だったのか、監督の【色】みたいなものが掴めなかった。だけど、この監督の作品『天才マックスの世界』、『アンソニーのハッピー・モーテル』と先出の『ロイヤル・・・』と合わせると、映画評論家や映画通の間では、一部に熱狂的なファンもいるほどの監督らしいです。
「はたらく一家」
プロレタリア文学は壊滅し、左翼作家たちの一部は転向しながらも辛うじて労働者の生活の貧しさを描くことによって抵抗していた、そういう時代背景の中で書かれたと言う徳永直の小説が原作。
「海を飛ぶ夢」
実在したラモン・サンペドロ氏の手記を映画化。ラモンは引潮だったにも関わらず浅瀬に飛びこんだことで頭を強打し脊髄を損傷。これにより、四肢が麻痺してしまう。25歳の時だった。それから26年間、家族の支えにより生き長らえてきたけれど、尊厳死を考えるようになり、尊厳死を法的に認めよと訴えている団体の協力と、ラモンの尊厳死を支持する弁護士らによって、計画は進むようにみられた。しかし、訴えは却下。一時は、ラモンは女性弁護士と密かにある計画も立てたが、それも頓挫してしまう。ラモンは、自分のことを最も愛してくれた女性に全てを託そうとする。
「河内山宗俊」
山中貞夫監督という人物、すでに故人ではありますが、生きていれば、黒澤、溝口、小津などと並ぶ、天才肌の監督になっていたはずの人だそうで、兎に角絶対観るべし、と日頃から言われ続けていました。しかし、実はこんなにも古い作品って、観るのに少し抵抗がある。まず、なんと言ってもフィルムの状態の悪さなどからくる煩わしさ、聞き取りにくい音声、どことなく芝居がかった台詞廻し。現代の映画に慣れ親しんでいるせいか、荒削りな古い映画には、抵抗感があって不思議は無い。
しかし、映画というものを芸術的な視点で鑑賞する者たちにとって、この山中貞夫映画は、当時の技術とかいうものよりも、まず、その映画的なセンスの良さ、演出力の確かさなどで、最高に魅力的なのです。
この『河内山宗俊』では、まず、現存するもっとも若い頃の原節子を鑑賞できます。当時16歳だというからビックリです。物語は、講談『天保六花撰』、歌舞伎『天衣紛上野初花』を山中流にアレンジしたもの。お浪(原節子)の弟・直侍(市川扇升)は芸者の三千歳(衣笠淳子)と恋仲で、共に心中をしようと計画をする。ところが、心中は失敗し、直侍だけが生き残ってしまう。そのために事もあろうか、直侍の姉・お浪に、芸者界を総括するヤクザの親分が、三百両を都合つけろと言い渡す。オトシマエというやつですね。お浪は、自分の身を売って、お金を作ろうと決心しますが、そういう不正を聞き捨てならんとする河内山宗俊(河原崎長十郎)と金子市之丞(中村翫右衛門)が俄然とお浪とその弟を守るべく起ち上がる。
一見、人情喜劇のような様相ではあるけれど、ラストなどの立ちまわりのシーンはかなり迫力あるし、随所に、映画的にハッとさせられる叙情性も兼ね備えた、映画作品としての娯楽性に富んだ素晴らしさ。そして、小津監督に影響を与えたと言われるローアングルポジション撮影。地面スレスレを狙うカメラの絶妙なアングルに思わず唸ってしまう。移動やパーンといった手法は後半にほんの少しのショットであるのみで、フィックスで極めて無造作に対象物を捉える。山中監督が、対象への視座について深い洞察力をもっていることを示唆していると言っていい。
お浪が、弟・直侍の失態に怒り、弟を叩くシーン。一瞬の静寂の後、静かに粉雪が降ってくる。昭和11年の映画で、こんな叙情的なシーンを描くなんて、さすが天才監督。
「ヴァージン・スーサイズ」
5人姉妹の末っ子セシリアが、聖母マリアの写真を抱きながら剃刀で自殺未遂をした。1970年代のミシガン州のとある住宅街。ハイスクールに通うリスボン家の5人姉妹。セシリアの自殺未遂から数日後、今度はセシリアは自宅の窓から投身自殺を図り、彼女は帰らぬ人となった。この事件を機に、さらに4女ラックスも事件を起こし、ついに彼女たちは、親により軟禁状態を余儀なくされる。そして、彼女たちを家から救おうとする少年たち。
「グローリー」
近代アメリカのターニング・ポイントとなった南北戦争。北軍に実在した黒人部隊という知られざる史実を確かな考証で描いた作品が『グローリー』です。
1861年に始まった南北戦争は黒人奴隷をめぐる対立として語られることが多いなか、現実にはイギリスに対抗して保護貿易で工業化を進めたい北部と、奴隷制プランテーションによる綿花の輸出を自由貿易で増加させたい南部の経済戦争でした。1868年の奴隷解放宣言は戦争の名目として必要な建て前にすぎなく、映画では、北軍内部の黒人蔑視 (奴隷解放論者も必ずしも彼らを人間とは見ていなかったようです)、黒人兵への物資や報酬の貧しさ、黒人同士の対立も浮き彫りにされています。
黒人部隊の指揮官で弱冠25歳のショー大佐(マシュー・ブロデリック)は、”理解しようとしても彼らの考え方や音楽は僕には異質なものだ” と述懐します。ですが、白人を憎悪するトリップ(デンゼル・ワシントン)や白人を批判するけれど融和的なローリンズ(モーガン・フリーマン)らの信頼を次第に得ていきます。そして部隊は、難攻不落の砦フォート・ワグナーへと向う・・・・。
戦いの前夜、黒人たちは霊歌を歌います (歴史的にはゴスペル、ブルースの前身の霊歌ですが、ここではラップ調のリズムという感じ)。ローリンズはそこで、”明日が最後の審判の日となっても、自由のために戦って死んだと家族に伝えてください” と祈るように叫ぶ (その姿はキング牧師を彷彿とさせます)。苦悩に満ちた現世を去っても、天国で祝福されること。これがタイトルの『グローリー』が意味するところなんですね。
「エゴン・シーレ」
画家の伝記映画というのは割りと多い。ロートレックの『赤い風車』、『炎の人ゴッホ』、モジリアーニの『モンパルナスの灯』、『情熱の生涯ゴヤ』、『ピロスマニ』。しかし、この『エゴン・シーレ』は他の伝記映画とは次元的に異色なものがあります。
20世紀初頭に起きた芸術運動【表現主義】は、絵画、彫刻、文芸、演劇、映画、音楽に及び、作家の内面における生命、自我、魂の主観的表現によって感情を表出する。ウィーン表現主義の画家であったシーレは、短い生涯に性と死を見つめ、表現主義を自ら体現した人です。
シーレはウィーンで生まれ、暗く陰鬱な美青年に成長。16歳の時に異様な絵の才能を見出され、ウィーンの絵画アカデミーに入ります。3年後、アカデミーを脱退した画家たちと【新芸術家グループ】を結成。展覧界を開き、批評家と親交を結び、ライニングハウス男爵というスポンサーを得る。21歳の時、アール・ヌーボォーの代表的な画家であり恩師のグスタフ・クリムトのモデルだったヴァリと同棲を始めます。
妹の裸のデッサン、自慰をする自画像などにはじまる彼の性への傾注は、少女や若い女性に大胆なポーズを要求し、大きく開かされた女性の股間に執着するなど、芸術活動に寛大だったウィーンでさえも、変態や倒錯だと物議をかもすほどだったとか。翌年、映画の最初のエピソードに描かれる、少女クロッキーがもとで未成年レイプの容疑に問われ、押収された絵やデッサンが猥褻物として問題になり、裁判所の独房に24日間留置される。少女の親が嘘と知って告訴は取り下げられたけれど、公判は引き続き行われた。オーストリアのハプスブルグ王朝の1000年近い歴史では、猥褻罪で投獄された芸術家はシーレただひとりだったとか。
映画作品としては、芸術家の伝記だという部分はさて置いて、ひとりの芸術家気取りの堕落した男が、いかに女性からインスピレーションを得たか、という点と、性と自ら芸術と称するモノとが、どのような芸術的接点にあったかを表現したに留めているので、全体的には、退屈する作品になってしまっている。音楽として使われているプライアン・イーノの曲だけど、これは、ヘルベルト・フェーゼリー監督がイーノに無断で使用したらしく、当時は訴訟問題にまで発展したらしいです。
「セックスと嘘とビデオテープ」
’89年のカンヌ映画祭で、審査委員長だったヴィム・ベンダースが「映画の未来に大きな信頼をもたらした」と絶賛し、その年のグランプリを獲得したこの作品は、一方では、辛口のスパイク・リーにして「審査員は全員人種差別主義者だ」という言葉をも導き出しました。この映画の感想記事などを色々と検索してみても、そこには【愛の不毛時代の寓話】だとか、【人間が持ち得た愛の勝利】だとかいうように、捉えどころ無く語られているのは少し寂しく感じます。
もしこの作品が、何かの不毛を描いているとするならば、それは個人と個人の間にある【距離の不毛】ではないかと思う。確かにその【距離】を繋ぐものこそが人間の愛なのだとも言えなくもないけれど、【愛】という抽象的な言葉を出した瞬間、【距離】という具体的な存在が消えてしまう。ソダーバーグ監督は、具体的にその距離を描かないことだけをしていると言えないでしょうか。
映画の中で舞台となるのは、5ヶ所。妻と夫の家、夫の事務所、妻の妹の家、妹の働いているバー、夫の友人の家。彼らはその5ヶ所を行ったり来たりするのだけれど、ソダーバーグ監督は決して彼らの移動する姿を写さない。せいぜい車に乗るところ、車から降りるところくらいです。だから場面は場所から場所へと無媒体的に移っていきます。人と人とは、ビデオテープ、電話といった、やはり距離を欠いた通信機器だけで繋がっています。車に乗り、途方も無い距離を移動し、その長さによって人間のコミュニケーションを描いてきたヴェンダース監督が、この映画の中に未来を見たのも、あくまでも目に見える具体的な形で、ソダーバーグ監督が距離の不在を描いたことそのものにあったのではないかと思います。
「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」
映画の構成は複雑です。1923年、1933年、1968年という3つの違う時代背景を織り込んだもので、以下に説明するように、思慮深いヌードル(ロバート・デ・ニーロ)と衝動的なマック(ジェイムズ・ウッズ)率いるユダヤ人のギャングスターたちの、人生と宿命を描いた作品。物語のあらゆる個所で登場し、盛り上げてくれるのは、ヌードルの幼馴染の恋人で後に有名なブロードウェイ女優になるデボラ(エリザベス・マクガバン)、マックスのガールフレンドとなる賢くてセクシーなキャロル(チューズディ・ウエイト)、組合のリーダーであるジミーオドネル(トリート・ウィリアムス)そしてイタリアン・マフィアの一員を演じるバート・ヤングとジョー・ペシ。物語は組織犯罪の増加、禁酒法の施行、労働の強要などを全て扱っており、こういったことが【昔の幼馴染たち】に与える影響などを描いています。
西部劇監督のレオーネにとって、これらのテーマ――社会のはみ出し者、友情と裏切り、崩壊とヴァイオレンスはありふれたものなのでしょうけれど、映画のスタイルはもっとダークで、ほとんどオペラ的だといっていい。全体を通して、写実的でもないし、歴史的なものでもない。これは現実的なもの、大人のための寓話だと言えないでしょうか。非常に男性的な映画ではあるけれど、それは刺激的で、心に深く残る。無情なほどパーソナルであり、永続的に美しい。叙情詩的なアプローチと、オリジナリティ溢れる構成力と説得力。この映画は人の心を魅了してしまうといっても決して過言ではないと思う。約4時間という時が、映画職人としての自信、構成の確かさ、彼の熟練されたショットの数々と共に流れていき、主演のデ・ニーロのあまりに存在感が強く、完成されつくした映像もあまりに素晴らしい。犯罪と歴史の壮大なおとぎ話であり、それは、メランコリー、流血事件、下劣な世界、お金とヴァイオレンス、壊れゆく愛、そして狂おしいまでに崇高な男たちの物語です。
映画と同様に、音楽のエンニオ・モリコーネが描くテーマ曲のパンフルートの美しさも絶品。