YURIKAの囁き

【レビュー】は過去に鑑賞した映画を中心としています。

むかし書いたレビューを修正してUPしたものもあります。

ネタバレも数多くあります。

最新作よりも、古い作品の鑑賞レビューが多いです。

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「危険な関係」

 ’88 アメリカ映画 121分


 18世紀フランス革命真っ只中の、パリ貴族社会の堕落とインモラルな世界を描いた秀作。贅の限りを尽くした貴族たちって、もう欲しいものが無いのか、あとはただ只管退廃的な生活を送るだけ、ということを余日に描かれていて、こういう世界は呆れるばかりです。だけど、コスチュームプレイとしては『アマデウス』よりは、こちらのほうが素晴らしい。

 社交界のお局的存在のメルトイユ伯爵夫人は、愛人のバスティード伯爵が若い処女の娘と結婚するらしいという噂を聞き、心中穏やかではいられない。そこで、昔の恋人であり、現在は女ったらしなバルモン子爵を使い、娘の純潔を奪うように唆す。

 見ているだけでウットリとしてしまう豪華絢爛な貴族社会がまた素晴らしい。「本当の恋は決して幸福なんかではない」。女性を籠絡することが仕事であり名誉でもあるバルモン子爵の手に遂に落ちてしまうトゥールベル夫人を、子爵の伯母ににあたる老婦人はこんなふうに慰める。考えてみると、主な女性の登場人物全てと、ベットを共にしている子爵の背徳ぶりは、裏で乱れきっていたとはいえ表向き厳然とモラルに縛られていた18世紀にあっては、かなりスキャンダラスなことであったでしょう。200年も前に書かれたラクロなる人物の原作が禁断の書となったのも納得がいきますね。しかも、子爵もサロンの名士メルトイユ伯爵夫人に半ば操られていたといえる。恋愛を戦略として楽しむ伯爵夫人、色事師の子爵、純愛と裏切りに苦悩するトゥールベル夫人の3人とも、このテーマは不倫と純愛が錯綜する現代にピタリとマッチしています。


 優柔不断で恋愛策士のバルモン子爵役のジョン・マルコビッチがふてぶてしい男をなかなか熱演。メルトイユ伯爵夫人のグレン・クローズは、気高くも、歳を取ることへの恐怖心から破滅へと向う女をこれまた熱演。この人って、けっこう美人だったんだとこの映画で気がついた。トゥルーベル夫人のミッシェル・ファイファーも綺麗ですね。キアヌ・リーヴスの存在感が薄かったのがちょっと残念。バッハのチェンバロ使った宮廷音楽も、この映画を盛り上げています。

「ライフ・アクアティック」

 ’05 アメリカ映画 118分


ウェス・アンダーソン監督といえば、『ロイヤル・テネンバウムズ』という作品を以前に鑑賞したけれど、どうも印象が薄い映画だったのか、監督の【色】みたいなものが掴めなかった。だけど、この監督の作品『天才マックスの世界』、『アンソニーのハッピー・モーテル』と先出の『ロイヤル・・・』と合わせると、映画評論家や映画通の間では、一部に熱狂的なファンもいるほどの監督らしいです。

 物語はというと、世界的に著名な海洋探検家兼ドキュメンタリー映画監督のスティーヴ・ズィスー(ビル・マーレー)は、最近、自作の映画が不振続きでスランプ状態。唯一の右腕でもある友人エステバンを、幻の怪魚ジャガーザメに食われて失うという悲劇にみまわれてもいた。そんな中、失った仲間への復讐と自身のスランプ脱出を賭け、映画クルーたちを乗せ、探査船ベラフォンテ号で航海へと乗り出す。そこへ、自称、ズィスーの元恋人の息子と名乗る青年ネッド(オーウェン・ウィルソン)、妊娠中の妖しいジャーナリストのジェーン(ケイト・ブランシェット)、映画製作の資金融資をしたビル(バット・コート)も加わり、ドキュメンタリー最高傑作製作計画は進むはずだったが・・・。ズィスーが、クルーたちの制止も聞かず警戒水域へ船を進めたため、思わぬ事態が彼らを襲うこととなるのだった・・・。
 登場人物が、前作『ロイヤル・テネンバウムズ』同様に多い。しかも、皆一癖も二癖もありそうな面々。この撮影クルーの総称は【チーム・ズィスー】。笑っちゃうのは、【Z】のロゴ入りシャツとか、赤いニット帽。これがチームのユニフォームです。こういうチームとしての統一感は一人前なんだけど、妙に滑稽に見えるのは何故なんだろ(笑)肝心な時にブレーカーが落ちても、何事もなかったかのような素振り。撮影隊といっても、それはまるで、ドリフターズの探検隊のコントを見てるようなアホらしさが漂っているし、普通なら深刻な状況でも、彼らはいとも簡単に乗りきっちゃうし、苦難に立ち向かう、というよりも、苦難を肥やしにしている感じすらする。ウィレム・デフォーのクルー隊員も、「どうせ俺はB班さ」とイジケてるとこなんか可愛く見えちゃうんです。ただ、こういう映画って、ゲラゲラ笑えるものじゃなくて、どこか微妙なウィットのあるセリフとか、さりげないアイテムの可笑しさ、深刻なシーンなのにどこか滑稽という状況などに、クスッと笑える、という笑いのセンスを理解できない人にはツマラナイ映画かもしれませんね。


「はたらく一家」

 ’39年、日本映画、65分


 プロレタリア文学は壊滅し、左翼作家たちの一部は転向しながらも辛うじて労働者の生活の貧しさを描くことによって抵抗していた、そういう時代背景の中で書かれたと言う徳永直の小説が原作。

 成瀬巳喜男監督は、当時としてはギリギリ、貧しい人々の生活をよりリアルに描くことによって、抵抗の姿勢を示したのでしょうか。
 物語は、年老いた印刷工の父は、息子たちが進学を志して上京しようとする意志を、家の家計が苦しいことを理由に断念してもらいたい。しかし、息子たちの将来性に富んだ人生を、自分の失敗した人生と照らし合わせてみると、なんとも遣る瀬無く、貧しさの中で、子供たちの未来に夢を託すことのできない父親像が哀れ。
 成瀬監督お得意の家族劇だけれど、何作か観たなかでは異色な父親と息子という設定。父親役の徳川夢声が情けない父親をホントに情けなく演じていて、逆に面白い。しかし、当時の高校生とかって、こんなに老けてていいのかってぐらいの老け顔なんですね。ただ役者だから、というのではなくて、未来に向けての惜しみない努力と、生活的な苦しさ、それと知的水準などが加味されて、こういう老け顔になるのかしらと思ってしまった(笑)コンシューマ化されてない作品だけに貴重。

「海を飛ぶ夢」

 ’04 スペイン映画 125分


 実在したラモン・サンペドロ氏の手記を映画化。ラモンは引潮だったにも関わらず浅瀬に飛びこんだことで頭を強打し脊髄を損傷。これにより、四肢が麻痺してしまう。25歳の時だった。それから26年間、家族の支えにより生き長らえてきたけれど、尊厳死を考えるようになり、尊厳死を法的に認めよと訴えている団体の協力と、ラモンの尊厳死を支持する弁護士らによって、計画は進むようにみられた。しかし、訴えは却下。一時は、ラモンは女性弁護士と密かにある計画も立てたが、それも頓挫してしまう。ラモンは、自分のことを最も愛してくれた女性に全てを託そうとする。

 
 尊厳死という重く沈鬱なテーマは、宗教的な意味合いにおいても深い洞察が必要だと思うけれど、ラモンを演じた俳優ハビエル・バルデムの何とも暖かく穏和そうな表情によって、障害者というイメージと、このストーリーの重さを根底から覆すものを感じた。それと同時に、このラモンの性格的な部分で、常に周囲に気を使うわけでもなく、会話もジョークを交えながら、時にユーモアのセンスに長けていたりと、暗くなりがちなテーマとは裏腹に、どこか爽やかな印象も受ける。アメナバール監督は、テーマの持つ比重よりも、ラモンという青年が如何に家族や友人に支えられ、これまで幸福に生きてきたかを客観的に描いていると言えます。
 しかし、鑑賞者は、果たして監督の意図したように観るものか。この映画を観て、感動に震える人も多くいると思うけれど、映画の観方は千差万別、色んな観方があるものです。それは、鑑賞者の歩んできた生き方や、死に対する考え方によって様々なものです。
 この映画は、予想に反して、とても清々しい展開ではあるけれど、正直言ってこういう映画は嫌いです。こういうことを書くと「おまえは鬼か」とか言われそうだけど、死ぬということを選択して以降、そのために尽力していくという行為自体、かわいそうとか哀れむとかいう次元のものではなく、お互いが幸福になるための選択としか見えないからです。この家族たちの本音はどこにあるんだろうか。寝たきりで何も出来ないラモンの周りは、いつも人々が訪れる。ただ寝たきりの男ならば、家族以外の人々は訪れることはないでしょう。ラモンが尊厳死を訴えたから人々が集うようになった。死を選ぶことによって、身体から解放され、本当の意味で自由を勝ち得ると思っているラモン。彼の切なる想いは、後半に一気に加速していく。
 しかし、声を大にして言いたいのは、誰のお陰でこの世に生を受け、誰のお陰でここまで生きてこられたのか。誰かのために生きていってもいいのではないか。一番共感できるのは、ラモンの兄です。最後の最後まで、ラモンの死に否定的な立場を崩さなかった兄。家族の真の想いは、この兄ひとりに凝縮されていると言っていいと思う。この兄は別として、他の家族の真意がいまひとつ理解に苦しい。だけれど、別の角度から見ると、ラモンを間近で介護していたのは、他ならぬ義理の姉であって、直接的な介護はしていなくても、直結な血の繋がりのある兄とは、また、ラモンの死への考え方は違ってくるのだろうか。
 兄の願いを置き去りにして死を選ぶラモン。この映画を観終わった今でも、自分的に結論を出せないでいます。清々しさのあるこの映画の中の重いテーマ。なんとも遣る瀬無いこの映画。映画賞もたくさん摂っているし、スピルバーグなんかは手放しで誉めてるけれど、ラモンのあの爽やか過ぎる笑顔を思い出すと痛々しさすら感じます。


「河内山宗俊」

’36年 日本映画 山中貞夫監督 82分


 山中貞夫監督という人物、すでに故人ではありますが、生きていれば、黒澤、溝口、小津などと並ぶ、天才肌の監督になっていたはずの人だそうで、兎に角絶対観るべし、と日頃から言われ続けていました。しかし、実はこんなにも古い作品って、観るのに少し抵抗がある。まず、なんと言ってもフィルムの状態の悪さなどからくる煩わしさ、聞き取りにくい音声、どことなく芝居がかった台詞廻し。現代の映画に慣れ親しんでいるせいか、荒削りな古い映画には、抵抗感があって不思議は無い。

 しかし、映画というものを芸術的な視点で鑑賞する者たちにとって、この山中貞夫映画は、当時の技術とかいうものよりも、まず、その映画的なセンスの良さ、演出力の確かさなどで、最高に魅力的なのです。

 この『河内山宗俊』では、まず、現存するもっとも若い頃の原節子を鑑賞できます。当時16歳だというからビックリです。物語は、講談『天保六花撰』、歌舞伎『天衣紛上野初花』を山中流にアレンジしたもの。お浪(原節子)の弟・直侍(市川扇升)は芸者の三千歳(衣笠淳子)と恋仲で、共に心中をしようと計画をする。ところが、心中は失敗し、直侍だけが生き残ってしまう。そのために事もあろうか、直侍の姉・お浪に、芸者界を総括するヤクザの親分が、三百両を都合つけろと言い渡す。オトシマエというやつですね。お浪は、自分の身を売って、お金を作ろうと決心しますが、そういう不正を聞き捨てならんとする河内山宗俊(河原崎長十郎)と金子市之丞(中村翫右衛門)が俄然とお浪とその弟を守るべく起ち上がる。

 一見、人情喜劇のような様相ではあるけれど、ラストなどの立ちまわりのシーンはかなり迫力あるし、随所に、映画的にハッとさせられる叙情性も兼ね備えた、映画作品としての娯楽性に富んだ素晴らしさ。そして、小津監督に影響を与えたと言われるローアングルポジション撮影。地面スレスレを狙うカメラの絶妙なアングルに思わず唸ってしまう。移動やパーンといった手法は後半にほんの少しのショットであるのみで、フィックスで極めて無造作に対象物を捉える。山中監督が、対象への視座について深い洞察力をもっていることを示唆していると言っていい。

 お浪が、弟・直侍の失態に怒り、弟を叩くシーン。一瞬の静寂の後、静かに粉雪が降ってくる。昭和11年の映画で、こんな叙情的なシーンを描くなんて、さすが天才監督。

「ヴァージン・スーサイズ」

 ’99年 アメリカ映画 98分

 5人姉妹の末っ子セシリアが、聖母マリアの写真を抱きながら剃刀で自殺未遂をした。1970年代のミシガン州のとある住宅街。ハイスクールに通うリスボン家の5人姉妹。セシリアの自殺未遂から数日後、今度はセシリアは自宅の窓から投身自殺を図り、彼女は帰らぬ人となった。この事件を機に、さらに4女ラックスも事件を起こし、ついに彼女たちは、親により軟禁状態を余儀なくされる。そして、彼女たちを家から救おうとする少年たち。

 原作は、1993年に出されたジェフリー・ジェニデスの小説『ヘビトンボの季節に自殺した5人姉妹』。監督は、ソフィア・コッポラ。これが長編第一作です。物語が70年代を描いているため、当時、世間で流行となった音楽をふんだんに使っていて、当時の世相などをよく知っている人には懐かしさもあっていいと思います。映画的なセンスは、やはり父親譲りですね。表現方法などに優れているし、少女の内面などの心の襞をうまく表現されていて、女性的な演出をしています。一見、少女趣味になりがちな設定ではあるけれど、そこのところを幻想的にもアンニョイさを残しつつシビアに描いていると思う。少年たちから見た少女の持つ神秘さとか、大人たちから見た少女たちの曖昧さとか、そういった、少女の持つ曖昧な部分と神秘性を、監督自らの実体験的な表現によって、ノスタルジックに描いた不思議な映画ですね。
 自殺という重く暗い雰囲気なのに、そこには、どことなく重くも暗くもない、微妙なニュアンスがあって、そこに、この映画の魅力もあるんだと思う。観た人たちの中には、少女たちの短絡的な生き方などに批判的な人もいるけれど、この映画の中で、狂気に陥っているのは少女たちではない。大人たちが理解し得ない少女たちを家に閉じ込め、母親は思い出を燃やし、父親は仕事を無くし、そして少女たちを精神的に見捨てる。この大人達こそ狂気そのものなのだと映画は訴えています。
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ソフィア・コッポラの映画初監督作『Lick The Star』。
4人の女の子が完全犯罪を計画するというお話。98年に製作されたこの作品は、後の『ヴァージン・スーサイズ』の原型ともいうべき作品。短編らしいですが、近く、ショートフィルム・フェスティヴァル等で公開予定らしい。
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 ピクニックatハンギングロック ’75年 116分
『ヴァージン・スーサイズ』が好きな人には、こちらもお勧め。
ビクトリア王朝時代の名残ある1900年。寄宿学校の少女たちが、ピクニックに出かけ、その内の数人の少女が忽然と行方を絶つ。当時のフリルの多いファッションとか、白いレースとか、少女たちの不思議さや神秘さが、映画全体を通してよく表現されてて、好きな映画の一本です。

「グローリー」

 ’89年 アメリカ映画 122分


 近代アメリカのターニング・ポイントとなった南北戦争。北軍に実在した黒人部隊という知られざる史実を確かな考証で描いた作品が『グローリー』です。

 1861年に始まった南北戦争は黒人奴隷をめぐる対立として語られることが多いなか、現実にはイギリスに対抗して保護貿易で工業化を進めたい北部と、奴隷制プランテーションによる綿花の輸出を自由貿易で増加させたい南部の経済戦争でした。1868年の奴隷解放宣言は戦争の名目として必要な建て前にすぎなく、映画では、北軍内部の黒人蔑視 (奴隷解放論者も必ずしも彼らを人間とは見ていなかったようです)、黒人兵への物資や報酬の貧しさ、黒人同士の対立も浮き彫りにされています。

 黒人部隊の指揮官で弱冠25歳のショー大佐(マシュー・ブロデリック)は、”理解しようとしても彼らの考え方や音楽は僕には異質なものだ” と述懐します。ですが、白人を憎悪するトリップ(デンゼル・ワシントン)や白人を批判するけれど融和的なローリンズ(モーガン・フリーマン)らの信頼を次第に得ていきます。そして部隊は、難攻不落の砦フォート・ワグナーへと向う・・・・。

 戦いの前夜、黒人たちは霊歌を歌います (歴史的にはゴスペル、ブルースの前身の霊歌ですが、ここではラップ調のリズムという感じ)。ローリンズはそこで、”明日が最後の審判の日となっても、自由のために戦って死んだと家族に伝えてください” と祈るように叫ぶ (その姿はキング牧師を彷彿とさせます)。苦悩に満ちた現世を去っても、天国で祝福されること。これがタイトルの『グローリー』が意味するところなんですね。


「エゴン・シーレ」

 ’80年 オーストリア/西ドイツ 94分


 画家の伝記映画というのは割りと多い。ロートレックの『赤い風車』、『炎の人ゴッホ』、モジリアーニの『モンパルナスの灯』、『情熱の生涯ゴヤ』、『ピロスマニ』。しかし、この『エゴン・シーレ』は他の伝記映画とは次元的に異色なものがあります。

 20世紀初頭に起きた芸術運動【表現主義】は、絵画、彫刻、文芸、演劇、映画、音楽に及び、作家の内面における生命、自我、魂の主観的表現によって感情を表出する。ウィーン表現主義の画家であったシーレは、短い生涯に性と死を見つめ、表現主義を自ら体現した人です。

 シーレはウィーンで生まれ、暗く陰鬱な美青年に成長。16歳の時に異様な絵の才能を見出され、ウィーンの絵画アカデミーに入ります。3年後、アカデミーを脱退した画家たちと【新芸術家グループ】を結成。展覧界を開き、批評家と親交を結び、ライニングハウス男爵というスポンサーを得る。21歳の時、アール・ヌーボォーの代表的な画家であり恩師のグスタフ・クリムトのモデルだったヴァリと同棲を始めます。

 妹の裸のデッサン、自慰をする自画像などにはじまる彼の性への傾注は、少女や若い女性に大胆なポーズを要求し、大きく開かされた女性の股間に執着するなど、芸術活動に寛大だったウィーンでさえも、変態や倒錯だと物議をかもすほどだったとか。翌年、映画の最初のエピソードに描かれる、少女クロッキーがもとで未成年レイプの容疑に問われ、押収された絵やデッサンが猥褻物として問題になり、裁判所の独房に24日間留置される。少女の親が嘘と知って告訴は取り下げられたけれど、公判は引き続き行われた。オーストリアのハプスブルグ王朝の1000年近い歴史では、猥褻罪で投獄された芸術家はシーレただひとりだったとか。

 映画作品としては、芸術家の伝記だという部分はさて置いて、ひとりの芸術家気取りの堕落した男が、いかに女性からインスピレーションを得たか、という点と、性と自ら芸術と称するモノとが、どのような芸術的接点にあったかを表現したに留めているので、全体的には、退屈する作品になってしまっている。音楽として使われているプライアン・イーノの曲だけど、これは、ヘルベルト・フェーゼリー監督がイーノに無断で使用したらしく、当時は訴訟問題にまで発展したらしいです。

「セックスと嘘とビデオテープ」

 ’89年、アメリカ映画、100分


’89年のカンヌ映画祭で、審査委員長だったヴィム・ベンダースが「映画の未来に大きな信頼をもたらした」と絶賛し、その年のグランプリを獲得したこの作品は、一方では、辛口のスパイク・リーにして「審査員は全員人種差別主義者だ」という言葉をも導き出しました。この映画の感想記事などを色々と検索してみても、そこには【愛の不毛時代の寓話】だとか、【人間が持ち得た愛の勝利】だとかいうように、捉えどころ無く語られているのは少し寂しく感じます。

 もしこの作品が、何かの不毛を描いているとするならば、それは個人と個人の間にある【距離の不毛】ではないかと思う。確かにその【距離】を繋ぐものこそが人間の愛なのだとも言えなくもないけれど、【愛】という抽象的な言葉を出した瞬間、【距離】という具体的な存在が消えてしまう。ソダーバーグ監督は、具体的にその距離を描かないことだけをしていると言えないでしょうか。


 映画の中で舞台となるのは、5ヶ所。妻と夫の家、夫の事務所、妻の妹の家、妹の働いているバー、夫の友人の家。彼らはその5ヶ所を行ったり来たりするのだけれど、ソダーバーグ監督は決して彼らの移動する姿を写さない。せいぜい車に乗るところ、車から降りるところくらいです。だから場面は場所から場所へと無媒体的に移っていきます。人と人とは、ビデオテープ、電話といった、やはり距離を欠いた通信機器だけで繋がっています。車に乗り、途方も無い距離を移動し、その長さによって人間のコミュニケーションを描いてきたヴェンダース監督が、この映画の中に未来を見たのも、あくまでも目に見える具体的な形で、ソダーバーグ監督が距離の不在を描いたことそのものにあったのではないかと思います。

「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」

 ’84 アメリカ映画 227分


映画の構成は複雑です。1923年、1933年、1968年という3つの違う時代背景を織り込んだもので、以下に説明するように、思慮深いヌードル(ロバート・デ・ニーロ)と衝動的なマック(ジェイムズ・ウッズ)率いるユダヤ人のギャングスターたちの、人生と宿命を描いた作品。物語のあらゆる個所で登場し、盛り上げてくれるのは、ヌードルの幼馴染の恋人で後に有名なブロードウェイ女優になるデボラ(エリザベス・マクガバン)、マックスのガールフレンドとなる賢くてセクシーなキャロル(チューズディ・ウエイト)、組合のリーダーであるジミーオドネル(トリート・ウィリアムス)そしてイタリアン・マフィアの一員を演じるバート・ヤングとジョー・ペシ。物語は組織犯罪の増加、禁酒法の施行、労働の強要などを全て扱っており、こういったことが【昔の幼馴染たち】に与える影響などを描いています。


 西部劇監督のレオーネにとって、これらのテーマ――社会のはみ出し者、友情と裏切り、崩壊とヴァイオレンスはありふれたものなのでしょうけれど、映画のスタイルはもっとダークで、ほとんどオペラ的だといっていい。全体を通して、写実的でもないし、歴史的なものでもない。これは現実的なもの、大人のための寓話だと言えないでしょうか。非常に男性的な映画ではあるけれど、それは刺激的で、心に深く残る。無情なほどパーソナルであり、永続的に美しい。叙情詩的なアプローチと、オリジナリティ溢れる構成力と説得力。この映画は人の心を魅了してしまうといっても決して過言ではないと思う。約4時間という時が、映画職人としての自信、構成の確かさ、彼の熟練されたショットの数々と共に流れていき、主演のデ・ニーロのあまりに存在感が強く、完成されつくした映像もあまりに素晴らしい。犯罪と歴史の壮大なおとぎ話であり、それは、メランコリー、流血事件、下劣な世界、お金とヴァイオレンス、壊れゆく愛、そして狂おしいまでに崇高な男たちの物語です。

 映画と同様に、音楽のエンニオ・モリコーネが描くテーマ曲のパンフルートの美しさも絶品。

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