ユメフダ

ユメフダ

たまたまタロットが得意な私の日常をつづりました。

※鑑定はお休みモードです。ご希望の場合は一度お問い合わせください。

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私はフィギュアスケートが大好きで

真央ちゃん始め、真面目に自分の理想に取り組む選手たちを

特にオリンピックシーズンずっと見ていて、

いつもいいなと思っていた。


昔から何かの職人さんに憧れていたこともあり、

スケート選手の他にも、

何かを極めようと努力してる人を見ると

いいな~私も何か極めたいな~って。

そんな思いがここ一か月ほど高まっていた。

でもきっとそれは例えば新しい趣味など

今やっていない何かではなくて

すでにあるものの中で見つけられるはずとも思っていた。

それができないようじゃ、見つけてもただの逃げのような気もしたから。

でも、なかなか答えが見つからずモヤモヤしていた。


たとえば仕事…って思ったけど、

今の仕事にはそれほど情熱がわいてこない。

たとえば家事育児…って思ったけど、

上手に家事をこなしている人のブログなんかを読んで

あーあ私が極めたって足元にも及ばない…と思ったり。

タロットはもう、必要としてくれる人の役に立てることがあればいい、

くらいのテンションで前ほど向学心もない。


先に極めている人がいると、

どうせそこまでできないしと思ってしまう自分がいる。

この思考は、実は小学生のころからの癖で、

小学校低学年くらいで夢日記をつけ始めようと思った時に

今から始めたって遅い、早い人はきっと保育園くらいからやってるから

どんなに頑張っても、もう数年の差を開けられているって

諦める理由にしていたくらい(どんだけ諦めるの早いって話。笑)。


人と比べて上手にできなければって思ってしまう癖が

大人になった今でもずーっと抜けなくて

自覚はあるし、それが子どもに受け継がれないように

注意も払ってるんだけど、

子どもが「上手?上手?」と聞いてくるたびに

今までの接し方でまずい部分があったかななんて

考えちゃったりする。


比較から抜け出すこと、これは私の人生の一つのテーマだな。


そんな私ですが、ようやく極めたいものが見つかりました。

それも、人と比較せずに済むもの。


それは、「こうありたい自分」を極める、というものです。


これを思いついたとき、すごくしっくりきた。

これなら目標もはっきりしてるし、誰にも評価されずに一人で取り組むことができる。

(書いてて気付いた、私は人から評価されることに敏感なんだな)


スピリチュアルに興味を持ってからというもの、

頭でっかちになりながらも、これまでいろんな本を読んできた。

そして、自分の中で「こういう人になりたい」という姿が

かなり明確になってきてるのを感じている。

スピリチュアルな生き方についてとか、悟りについてとか、

「本当に腑に落ちる」ような経験はないけれども、

これはこういうものだろう、こういうときはこう考えるのだろう、と

頭だけは情報でパンパン。


今までは「こういう人になれたらな~でもできてないな~」だったけれど、

これからは甘いこと言ってないでこれを体現していこうと思った。


「こうありたい自分」には一つ具体的なイメージがあって、

それは「多くを語らない人」。

先日の記事に書いたように、

私はついついお節介をやいてしまうタイプ、

子どもにも家族にも心配のあまり

あれこれ言い過ぎている気がする。

自分の思ってることを全部言いたくなっちゃうし、

言葉の限りを尽くして自分を正当化しようとするところもある。

でも私は「信じて見守る」「多くを語らない」こういう人になりたい。

そういうのもあって、ブログを書かなくなったのもある。

(書くとこうやって長くなるし、結局語ってる。笑)


理想は真央ちゃんのコーチの佐藤信夫さん。

感情に任せて言うのではなく、ちょっと引いて自分を観察して

ぐっと言葉を飲みこんで、様子見ができる、そういう人になりたい。


極めたいことが見つかったことは、

自分が生きていく目標が見つかったような気持ちで

とても嬉しいものでした。

なぜなら今日は誕生日!

とてもいいタイミングで極めたいことが見つかった。

この一年は、「こうありたい自分」を定着させる年に

したいなと思っています♪



ペタしてね

日々いろいろと考えることがあり、

「自分は自分。人は人。」という考え方が

自分の中で割合を増やしてきている。


人の失敗の仕方が気になる私。

これは子どものころからかもしれない。

あの人、あんなことやっちゃってどうなるんだろう…

って自分の周りの人のみならず、

テレビで見る人など他人のことにヒまでヤヒヤするところがあった。

人のやることを失敗なんて失礼もいいところだけど。

自分の思う「失敗」の定義にあてはめて、

人をそれで測ろうとしていることが多いことに気付く。


失敗は成功のもと、本当は失敗なんてない、という考え方もあるけれど

話をわかりやすくするために

「こうなりたくない」と思っていたことになってしまうことを、

ここでは「失敗」と呼んで話を進めます。


私は、失敗するなら傷が浅い方がいいと思う方。

少しでもダメージ少なく、すぐ立ち直れるように、

失敗の影響が最小限になるように、

失敗する前から失敗した場合のことも考えておく方。


でも、そうでない人もいる。

ぎりぎりまで諦めない。失敗のシュミレーションはしない。

ダメージがでかくてもいいって訳じゃないだろうけど、

そこを(私ほどには)気にしてない人。


その人はその人の責任において失敗の仕方を決める権利があるのに、

大丈夫?それじゃ、成功しなかったときに大変なことになるよ?って

お節介やくのがいつものパターン。

でもそこには、私の考え方・やり方こそが完ぺき!という気持ちが

きっとあるんだよね。そんなわけないのに。


そんな私のお節介にも折れずに、あまりに諦めずに突き進む人を見ていて

最近は尊敬の念がわいてきた。よくそこまで頑張れるなって。

大きな不安をよそに希望に目を向け続けるなんて、私にはなかなかできないこと。

もしかしたら、そういう人の方が成功するのかな、とも思う。

そうすると、私のお節介はその人にとっては、

ちょいちょい邪魔になる障害物かもしれない(笑)

そう思うと、お節介な私も口をつぐむようになってきた。


どっちのやり方がいいとかじゃなくて、どっちもその人のやり方。

どっちのほうが成功しやすいとか、傷が浅いとかあるかもしれないけど、

どっちがいいかは本人が選ぶこと。

私は「傷が浅い方がいい」派だけど、それを人に説くのは違う。

というか、自分の人生もよく見えてない私が

人にお節介なんてやいてる場合じゃない。


私はどんな考えが自分を楽にするか(今で言えば傷が浅い方がいいという考え)を

知っているから、私は私の失敗の仕方に気を付けよう。

ただ一人「自分」だけの人生が自分の思うようになるように、注力しよう。

人のことは、その人の好きにさせてあげよう。。。とやっと思えたところ。


お節介、世話焼きは、一歩間違えると人のコントロールになる。

人の領域に立ち入ってはいけない、と改めて思う。

大事な人との距離の取り方。

自分が言ってることは本当に相手のためなのか、

自分を正当化するためじゃないのか。

自分の不安を打ち消すためじゃないのか。

相手のためと思ってすらすら出てくる言葉も、

実は私の長年の考え方が土台になっている。

それは私にとっては真実(と思ってる)の言葉だけど、

他の人にとっては、外からやってきた一情報。

それこそが真実みたいに伝えるのは、あまりに横暴だよね。


自分は自分。人は人。

そこにはっきり線を引くと、とりあえず今目の前にある問題に関しては

自分のやるべきことがすっきりと見えてきた。

人の行動と、自分の行動に、因果関係なんてないんだな。

よく聞く言葉だけど、腑に落ちてきている。

(子どもを含めて考えるとまた混乱するけど。笑)


日々、大事なことをいっぱい学んでいる。と思う。

できればこれが「成功」の話だといいんだけどね(笑)

でも「失敗」という恐怖のもとがあるから、

考えざるを得ないし、話し合わざるを得ないし、

そして学ぶことになるんだろう。


いろんなトラブルを経て、「もう少し」って感じがしてきてる。

自分がこういうふうに人を見たい、世の中を見たい、存在したい…

と思う自分まで、もう少し。

トラブルがあったほうがその速度は早いのかもね。

だから今は大変なこともあるけど、悪くない道のりだと思っています 。


ってここまで書いてきてなんだけど、

やっぱり「失敗」って言葉はしっくりこない。

なんか悪いイメージがある。

きっとただ、「そうならないだけ」なんだろうね。


頭の整理のためのひとり言なんで、聞き流してください(笑)


ペタしてね

たまにはブログを書いてみるか…

こんにちは。お久しぶりです。


いろいろと日々やること考えることがあり、

どれもブログに書くほどのことでもない、とか、

ブログに書いて誰かに読んでほしいというこの欲求がイヤ、とか(笑)

なんかすんなりと書けずにいました。

今日はちょっと記録しておきたいことがあるので記事にします。


その前に近況ですが、

タロットに関しては、お仕事的には完全にストップしております。

その理由は、「自分は人様の人生にアドバイスできるような者ではない」という

思いがものすごく強くなってきたから。

客観的に自分を見た結果というか (; ^ω^)

あと、結局みんな自分の力で人生を切り開いていくし、

私に相談しなくても自分で乗り越えられるのでは、と思うようになってきたのもある。

だから、「相談乗りますよ」という相談を募るようなスタンスは取れなくなってきました。

もちろん、みてほしいという友達や家族には力になりたいので、

そこは出来る限り協力しています。


もし今後お仕事としてやるなら、

1対1よりは、もっと周りの人にもプラスになることが多いような形…

たとえばイベントでやって売上げを一部お渡しするとか

そういうのがいいなぁと思っています。

以前の私はそういうのをピンハネと呼んで嫌がってましたが…(笑)

私一人の力で生きてる訳じゃないですしね。

一人で喜ぶより、たくさんの人と分かち合えるほうが

タロットやるモチベーションにもなりそうな気がしています。

なので、もしそういうお話があれば、お声掛けいただけると嬉しいです。

(ま、一番の問題はそのときに子どもをどうするかなんですが…)


そうそう、書きたかったことは…

つい先日、6年間悩んでいたことに答えが出ました。

ひどく悩む時期は過ぎて、最近は穏やかに対応はできるようにはなってたんだけど、

でもいつかは解決しなきゃとずっと心の奥底にあった問題。

その答えは「そんなに必死に解決しようとしなくてもいい」でした。

死ぬまでに解決しなくても…まあいいか、と思えたら

悩む必要がなくなりました。


これは実は、私ではなく、別の人の問題でした。

本人も解決したいと思っており、私も「どうにか解決してあげたい」と

悩んでおりました。

でも、今考えると誰も私に悩んでくれとは頼んでない(笑)

悩むことと、解決方法を考えることとは違う。


根底にあったのは、他人のコントロールでした。

私が悩んでいたのは、その人の問題というよりも、

その人を変えられないことだったのです。

「その人を死ぬまでに変えられなくてもいい」と白旗をあげたら、

その問題がまだ解決していないこととは、まったく関係なしに、

私の悩みは昇華されました。

(「問題」と書くことすらすでに違和感がある。もう問題ではない。)

もう私はその問題に思いつめることはないでしょう。

その人からしたら、ちょっと冷たく思うかもしれませんが(笑)

これから問題解決に協力しない訳ではなく、

それに関して「私は悩まない」ということです。


今回のことで2つの大きなことに気付きました。


一つは、「人の問題を解決してあげたい」という思いは

裏を返せば、今のその人を否定しているということ。

そんなの私の望むことじゃなかったのに。

なんでそれに気付かなかったんだろう…と思いました。

(だから、冷たいどころかどっちかというと愛が増したと思う)


もう一つは、今すぐじゃなくても「いつかは解決しなきゃ」と思うことは

「最終的に解決できなくてもいい」と思えるようになることで

その執着から解放されるということ。

もし、本当に解決したいのなら、

「いつか解決」は意味がなくて(それはずっと否定が続くことだから)、

今すぐ解決に動かないといけない。


私の場合は「今は仕方ないけど、いつかは"絶対に"解決しないといけない」という

とても強固な否定の気持ちが潜んでいたことに気付きました (; ^ω^)

その否定のエネルギーは、きっと問題解決の障害にもなっていたと思います。


絶対に解決しなきゃいけない問題なんてない、と思います。

解決したいことはあるけど、しなきゃいけないことはない。

しなきゃいけないという気持ちで出来ないことを悩むよりは、

解決に向けてできることを淡々とやる、のほうがいいんじゃないかな。

誰も私に悩めなんて言ってないんだから (*´σー`)


なんて思うようになった今日この頃です。


ペタしてね

あけましておめでとうございます。

書くことがたくさんあるような、何もないような、

そんな一年の始まりです(笑)


とはいえ、年末にとても印象的な出来事がありました。


私の幼いころからの親友がおり、

帰省時に久しぶりに会いました。

話には聞いていたのですが、お子さんが

出産時の事故で最重度の障害を持って生まれたとのこと。

常に寝たきりで、意識もない赤ちゃんを

覚悟を持ちながら、もう一年も育てていました。

その赤ちゃんの写真を今回見せてもらいました。


そして、何枚も撮られたその写真を見て、

涙が止まらなくなってしまいました。

お店にいたので控えめにと思ったのですが

嗚咽してしまうほどの涙…


ちなみに、私は普段そんな泣き方をしません。

ここ数年、というか記憶にないくらいです。

長い親友ですが、彼女の前で泣いたのも初めてかもしれません。


一旦おちついて、お昼を食べたのですが、

そのあともう一回見せてもらったのです。

もう泣かないだろうと思ったのですが、また途中から涙涙…


最初はなんで自分が泣いているのかわかりませんでした。

同情というような気持ちがわいたわけでもないし、

かわいそうとか、友達の苦労とか、そんなことも考えませんでした。

ただ次々涙が出て止まらないのです。


でも、この2回目の涙でわかりました。

なんで自分が泣いているのか。


ただただ、純粋な魂に触れて涙が出たのでした。


あまりに純度の高いものに触れると涙が出ませんか?

芸術とかもそうだと思うのですが、

何かを思うよりも先にぐっとくる感じ。

それに似た感覚がありましたが、

この赤ちゃんの場合はそこに生きようとする尊さみたいなのも加わって、

(なんて、なんて純粋なんだろう…なんて尊いんだろう…)

と私は思っていました。そして涙が流れていました。

こういった経験をするのは初めてでした。


この赤ちゃんの話を数か月前に聞いた時から私は

「Aちゃんが目覚めますように」

ということを祈っていたのですが、

この日から変わりました。

目覚める(=意識を持つというか、起きるというか)ことが

親の望むことでもあると思うのですが、

Aちゃんの魂にとって一番大切なことは

それではないのではないかと思ったのです。

「Aちゃんの魂が輝き続けますように」

「Aちゃんの望む形で魂が生きていけますように」

という感じに変わりました。

誰かがどう生きるかは、その魂が決めること。

私はそれが意図通りに進むようにサポートしたい、

そういうふうに思いました。


このことがあってから、先生 のことも、

「安らかに眠られますように」

「あちらの世界で楽しく過ごしてますように」

とこちらの希望を祈るのではなく(笑)

「先生の魂が輝いていますように」

「先生がやりたいようにやれますように」

という感じに変わりました。


そして、自分の周りの人のことも、

信頼してコントロールしない、

自分はサポートしかできないということを痛感したのでした。


この赤ちゃんの写真を見ると、そんな気持ちにいつでも戻れます。

写真をスマホで撮らせてもらって、自分のアルバムに入れました。

今見返してたらまた涙が出てきました。

強い強い生きる力。パワーをもらいました。


今年は、昨年末からの、人の生死に関わることを自分の中で昇華させて

進む道を固めていくような一年にしたいと思います。


今年もよろしくお願いします!


ペタしてね

すみません、先ほどの生まれ変わりの記事、

自分の中で大事にしたい気持ちもあり、

アメンバー限定にしました。

ご了承くださいませ。


最近ちょうど「生まれ変わりの村」という本のシリーズを読んでいるので

このタイミングで息子が話してくれたことに必然的なものを感じたりしてます。

でも、本を読むこともそうですが、夢の方でもあちらの世界に行ったり、

最近ちょっと首を突っ込み過ぎてるかなと思うところもあるので

自制しなきゃとも思っています。

そっちいきすぎるとまずいよ、と自分の中で警告音が鳴っているので (; ^ω^)

不思議な世界は、バランスよく人生に取り入れていきたいですね。