すすめ!宇留寅万太郎

すすめ!宇留寅万太郎

関東で楽しく生きてます

私が春頃まで勤務していたとあるお店の運営会社、皆さんには社名等を伏せてHのGとしときましょう。私は最初、アルバイト採用で後に正社員雇用という話でした。ですが、社内上長の全会一致での承諾を得られず2回も見送りにさせられました。結局その会社は夏前に退職しました。

私を認めなかったK氏、及び仲を取り持つどころか向こう方の味方しかしなかったT氏。いずれの人物にも怒りと疑い、憤りを感じます。しかし、上からは更なる業務の追加、新人への教育。


ちなみにK氏もT氏も自分のミスを私へ回してきました。表情には出しませんでしたが、ハッキリ言って迷惑。だが、私のやることにはいちいち口を出す癖にK氏本人は「これ以上私の業務を増やすな」と抗議をする始末。


・休職の経緯と退職までの流れ

進行部統括部長K氏と業務の進め方、アルバイトから正社員雇用に際する条件で折り合いが合わず、倉庫管理部部長T氏(直属の上司)からの叱責にて正常に業務を遂行するのが困難になり心療内科へ受診、流れで休職となる。


休職中にもかかわらず、無断欠勤扱いとなり社内幹部全会一致で退職を促される。


向こうの証言では会社、幹部の電話からこちらへ何度も連絡したが繋がることは無かった。だが、こちらの電話に着信履歴一切無し。(別の電話は正常に着信)


入社前に社用Gメールを作成・連絡するように伝えられるが、業務上のやり取りをする上で使用された形跡無し(むこうからやり取り用のメールを教えてくれと言われたが事前に伝えてあるものを何故使用しないのか分からなかった)


実は私が考えた商品やイベントだってありました。ですが、評価や給与への反映は一切認められませんでした。ここまで社に尽力したにもかかわらず休職に追い込まれ、連絡が取れなかったという理由で退職にまでさせられるのは何度も言いますが憤りしかありません。


ちなみに私よりも前に何人もの人物が休職から退職にまで追いやられているそうです。事実、私が入社する数ヶ月前に大幅な人員の入れ替えがあったようです。


社長に怨みはありません。ただ、いつまでこのようなことを続けるのでしょうか?

父の半生をこちらに記載します(括弧内は万太郎から見た親等です)


※一部自分の半生と被る内容がありますがご了承ください


仮に父の名をTとしましょう


1965年9月3日T誕生

自分と同じく北海道札幌生まれで父(父方の祖父)は元寺の息子で婿養子、母(父方の祖母)との三男坊として生まれ祖父母(父方の曾祖父母)と共に暮らしていました。兄弟はというと長男は生まれてまもなく他界。次男は生まれてすぐ障害が見つかり生涯歩くことはおろか喋ることすら出来ませんでした


幼少期

3回もの出産を経験した母はすっかり育児ノイローゼになりTの面倒を見れる状態ではなかったそうです。世話は全部祖母が見ていたそうでTはおばあちゃん子になっていったそうです。父は最初国鉄の職員だったそうで自分が子どもの頃、機関車の話などを何回か聞いたことがありました。ですが先輩職員が不正を働いているのを知り責任逃れをしたくなり自主退職したそうです。そこから毎日酒浸りで帰りのタクシー代を祖母に払ってもらったり職を転々とするようになり一時期は蒸発してしまったこともあるそうです。そんな父に嫌気が指したある日、母は父と我が子Tに刃物を向けて無理心中を図ったこともあったそうです


学生時代

小学生だったTがある日家に帰ると自宅がもぬけの殻になっており誰も居なかったそうです。後から分かったのがTの存在を忘れて勝手に引越しを行ったそうで転校の手続きも全てしていなかったそうです。しばらくの間引越し先から小学校まで電車で1時間掛けて登校していたそうです。そこからいじめられるようになり元々明るく活発だった性格が徐々に大人しく内気な性格になっていったそうです。

Tにも反抗期という時期があり頭をリーゼントにし毎晩バイクに跨り暴走族として街の中を走っていたそうです。ただTはバイクの免許を持っていなかったので仲間のバイクに2人乗りの後ろに座っていたそうです。何故そんなことをしていたのかと聞いたらそうしないと仲間外れにはされていじめられるからだそうです

とある日、仲間内からTの兄が障害者であると知られ「心身障害者の家族が居るしんちゃん」というあだ名を付けられたそうで自分も時々Tの知り合いからそのあだ名で呼ばれていることに疑問を持っていましたがそのような経緯があったそうです

Tは音楽に目覚めていました。洋楽のコピーバンドのメンバーだったりもしたそうで高校卒業後、上京して一緒に音楽でやらないかと仲間に誘われたそうです。しかし、Tは勇気が無いからという理由でその誘いを断っていたそうです。Tは音楽に凄くこだわりがあり自分の幼少期、ギターを時々持ち出しては英語の歌を歌いながら弾き語るということをしていました。当時実家にあったピアノも弾けたりしてそんなTがカッコよく見えました


結婚と家族

Tはフリーターとして生計を立てていましたが、パチンコ等に明け暮れて荒れた生活を送っていたそうです

そんなある日、Tの友人が結婚するとのことで出席。後の伴侶となるS(万太郎の母)と出会います

2人が結婚するとなった時にSの父(母方の祖父)はTのことを大変気に入り挨拶は円満に終わったそうです。この時Sは父のTに対しての態度を大変不満に思っていたらしく結婚前に子どもがお腹の中に居るのにTではなくSを叱ったそうです

1992年5月

TとSは結婚し、同年9月1人の子宝に恵まれます。それが後の私宇留寅万太郎です。2年後には2人目である妹を授かり傍から見れば幸せの絶頂でした


振り返ると自分の父Tは土日も関係なく働いていたという印象で家に居る時は嬉しくていつもベタベタくっ付いていました。出張も多く、家を空けることが何回もありました


結婚生活から子どもを授かるまで住んでいたアパートが徐々に手狭になり自分が当時通っていた幼稚園からほど近い一軒家に引っ越しました。物件を決める際、Tは仕事と言ってSに全てを任せていたそうです。Sは相当不満に思っていたそうです


Tは手先が器用で日曜大工で家族の使用する家具(椅子やテーブル、拡張の靴棚)を作ってくれたりもしました。自分が愛用したのは勉強机の本棚とウルトラマンのソフビを飾る用の壁掛け棚でした


自分が小学4年くらいの頃、Tの勤め先(土木系)が倒産になり転職を余儀なくされました。幸い、昔の得意先がTを大変気に行っていたらしくすぐに転職先(こちらも土木系)が決まったそうです。そこからが大変だったそうで大卒の新人が毎年入るような会社なので高卒だったTは業務内容に着いていくのがやっとだったそうです。最終的には現場監督や係長に就任したそうです

翌年の冬、90近かった祖母(父方の曾祖母)が亡くなりました。前年に祖父(父方の曾祖父)が90過ぎで亡くなったので長くは無いと分かってはいました。出棺後、骨粗鬆症だった骨はとても量が少なかったと記憶しています


自分が専門1年の冬、ショッキングなニュースが舞い込みました。Tが道路の路肩で社用車の中から昏睡状態で発見されたとの事で放課後家族で搬送先の病院へ駆け込みました。するとTはたくさんの管に繋がれなんとか生命を保っている状態で目の前の状況にただ唖然としました。Sは自分達兄弟が来る前に警察から事情聴取を受けていたそうで自殺か事件に巻き込まれたかその2点で調べを進めると共に目覚めたTからも事情聴取するとのことでした。

2日後お見舞いに行った時にTが目覚めました。すると自分ら家族の姿を見るやいなや弱々しい声で「ごめんなさい、ごめんなさい…」と涙ながらに繰り返し謝罪していました。その時Tは自殺を図ったのだと悟りました。この時Tはうつ病を患っていました。搬送先から精神科のある病院へ転院し、しばらくの間休職と入院生活を余儀なくされました


翌年の春、Tが退院し久々に家族で集めてことの経緯を説明し始めました


うつ病の原因は不眠症にTが悩まされていたらしく会社で係長をしていた当時のTは現場監督の掛け持ちやクレーム対応などもしていたそうです。そんな中ストレス発散のためにパチンコに通い詰め自宅への帰宅を夜遅くにしあたかも残業してるかのようにカモフラージュしていたそうです。そんな生活を続けるうちに家族に内緒で莫大な借金を抱えていたそうで様々なサラ金等から督促の電話が着ていました。思い返せばT宛の電話は全て金融会社からの督促の電話だったのだろうと受けた自分は知りもしませんでした。同時にTのこれまでの半生をここで初めて知ることになります(先に記載した幼少期から結婚までの話)。初めて聞いた時、子ども頃力強くカッコいいと思っていた父は全部嘘だったのか全部家族に真実を隠しながら生きていたのかと悲しくなりました。最後の締めくくりは諸々の身辺整理を済ませた後、Sと離婚するでした。自分は泣き叫び、どうして今までのことを話してくれなかったのかどうして家族を避けてきたのか問い詰めました。誰を責めても仕方ないのですがその時は悲しくて悔しくてどうしようもありませんでした。TとSが出会っていなければ自分さえ誕生しなければよかったのだとも思うようにさえなりました


借金の方として自分が幼少期から住んでいた一軒家の実家は手放しTとSは離婚、Tは自己破産という形で落ち着きました


その後、家族の動向は…

Tは病院での治療の一環として行っていた革工芸に興味を持ちワークショップで働くことになりました

Sは母方のアパートへ引越し母方の祖母の面倒を見ながら働くということでした

妹は地方の美術系大学へ進学、親元を離れひとり暮らしを始めました

自分は先の一件で進学を途中で切り上げ就職し最初は母方の祖母と2人暮らしをしました。ですが、やがて生活リズムが合わずSの元へ引っ越しました


その後の父

ここからはTとSを父及び母と呼称します

革工芸のワークショップで働いていたある日一緒に事業を立ち上げようと話を持ちかける人が現れたそうです。当然詐欺だったらしくいつの間にか当人と連絡が着かず資金も持ち逃げされたそうです。1回父から何も言わずにお金を貸してくれと言われたことがありましたがその時既に自分は上京し新生活をスタートさせていました。先程の一件もあり理由も分からないのにお金は貸せないと父を見放しました。後に理由を知った時はまた事情を話してくれなかった。話してさえくれれば助けたのにと歯痒い思いをしました。

5年前の夏、一時帰郷した際父との連絡が着かない時期がありました。ですが母がフェイクフードの作品を出店すると誘われた会場に父の姿もありました。あろうことか自分の革製品を売りに出していました。一体ここで何をしているのか何故連絡が着かなかったのかと色々その場で問い詰めましたがただ一言「ごめん…」としか答えてくれませんでした。腹が立ちながら地元を後にした1週間後、突如父から連絡が入りました。父方の祖父が他界したと…

またもや何も知らせてくれなかった父、その場で話してくれれば済んだことなのに何故祖父の病状のことや近況を話してくれなかったのか腹立たしく思いながら再び帰郷し、後の近況を妹と共に聞きました。既に大学を卒業し地元で就職した妹は事情を知っていたようで遠くに行った息子より近くに居る娘なのかと劣等感と疎外感を感じました

そこから年月が経ったの一昨年の冬、父方の祖母が亡くなりました。同年の春頃に父の兄がガンで亡くなったとの事でもう長くは無いだろうと察しはしていました。昨今の状況もあり通夜と葬式への参加は見送りましたが納骨くらいは参加しとおこうと思い、去年の春先に帰郷しました。納骨当日、横殴りの雨の中実家の墓に手を合わせ祖母の骨を納めました。その後、祖父母が住んでいた平屋の一軒家へ向かい身辺整理を手伝いました。生前使用していたものはほとんど破棄され愛用の品々もお焚き上げに出すとの事だったので捨てられる前に何か持って帰ろうと思いました。自分が見つけたのが子どもの頃撮った地元を遠出した家族のスナップ写真でした

 

 

持ち帰ったものは使用していた薄型テレビで捨てるのも売り出すのも勿体ないと思い自分が引き取りました


現在父は結婚式場で働いているらしく昨今の状況下で苦しい生活も余儀なくされたそうです。ですが結婚式に必要な花を卸している業者相手に仕事するよう言われたそうでそれで収入は安定しているそうです