「天恩寺」代表 世恩坊主の独り言

「天恩寺」代表 世恩坊主の独り言

古来日本の宗教感と原始仏教感を織り混ぜて、独り言を呟いています。名前は世恩と書いて「せおん」と読みます。日本にありがちな宗門・宗派を超えた、身勝手な佛教論を展開しています。気になったら読んでみてください。

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また夜行バスで移動しています。

移動時間は7時間半…

かなりの混雑、若い人で一杯ですよ。

前回は何気にガラガラでしたけど、

やはり日曜日は生活圏に帰る人が…

こんなバス…前回はピンクで、今回は黄色

乗り心地へ…椅子が固いかなぁ。

これからは、月に何度も乗るのかぁ…

馴れるまでが大変だ(・∀・)

前回は殆ど眠れずにいたので

今回は気合いを入れて寝てみるかぁ(笑)

では、おやすみなさい≧(´▽`)≦


世恩

人間は、大小に関わらず、必ず病気になりますね?


チョッとした風邪から、下痢、胃痛…癌などの大病に至るまで、様々です。


現代医学の進歩は甚だ著しく、人の寿命は延びる続けています。


即ち病院とか医者といった科学的シンボルの方向から見れば


当に字の如く患者であり看者なのです。


勿論早期回復、治癒といった部分では、医療の科学は必要不可欠な存在です。


特に大病ともなれば、私達は科学治療とタッグを組み、病と戦いを挑むのです。


「頑張れよ、必ず治るからな…」等と甚く激励をされながら、病む本人は命を懸けた戦いに挑むのです。


しかし戦いは戦い…例え完治したにせよ、精神的にはかなりの疲労が構築されてしまいます。


いやいや、完治すればいいのだけれど、発見が遅れた場合は


余命…を宣告されたり、再発の原因にも繋がります。


近頃では医療ミスの話題も新聞紙上をにぎわせているじゃありませんか…汗



よく治療を拒んだり、霊的治療などと言いながら


医療とは背を向けた考え方をする宗教団体があります。


私は賛成しませんが…


佛教では、決してそんなっことは言いません。


どれだけ科学が進歩しようとも、人の命はそれぞれなのです。


医療を頼り、病を治そうとする姿は、それはそれで正しく、悪いことではありません。


しかし佛教的に考えるならば、病は病で、これもまた真理の一部なのです。


人の命そのものさえ真理の一部なのですから…



私自身も死を考えることがあります。


何時死ぬんだろう?どんな形で死を迎えるのか…


このまま死んでしまおうか…さえ思うことがあります。


しかしその都度思うのです。


死を意識する原因は原因でそれも真理の一部なのだ、と考え直します。


原因を明らかにし、その原因を認め、そして諦めています。


何とかなるさぁ…などと考えているのでありません。


あくまでも、自分が招いたこと、と考え直すようにしています。



病にかかる時、人はどうしても心が弱くなりがちです。


しかし、幾ら考えてみたとしても、その現状から抜け出せるわけでもなく


治療という、科学的攻撃を繰り返した所で、身体に掛かる負担も増えるばかりです。


ならば…病と向き合わず、病そのものを自分にそのまま受け入れて


病の中で出来ることを探しながら生きていこうと決めています。


風邪をひいているにもかかわらず、無理をして仕事をしたり、


身体を動かして何かに執着し、更に身体に負担を与えるより


その時、無理をせず出来ることを見つけ、心を気楽にしてみましょう。


身体を休めるのも、実に簡単な発見なのです。


大病になったなら大病のまま出、無理せず来ることを見つけては、素直にそれを受け入れ


周りの人も変に気を使わず、その大病を知ったまま接すればいいのです。


もし余命が宣告されたなら…その余命を受け入れながら、


出来ることを無理をせずやろうと思っています。


心に余裕が生まれるなら、人間が持つ自然治癒の力で変化があった


なんていう例は幾つもあります。


奇跡などではなく、その人のそれ自体が宇宙の真理の一部なのです。


苦し紛れに治療を焦ったり、言葉や信仰を信じたりせず


自らの今を素直に受け止めながら、病と寄り添うように生きる勇気こそ


佛教の教える正しい考え方なのです。


病に体が蝕まれた時、せめて心だけは


悩まず違わず疑わず…焦らず慌てず騒がず…


日々の命に感謝をしながら、不安に心が捉われることなく


今まで見えなかった何かを探してみる


そんな素敵な心になれるよう、私は祈ろうと思います。



世恩

爾時世尊。従三昧安詳而起。告舎利弗。


諸仏智慧。甚深無量。其智慧門。難解難入。


一切声聞。辟支仏。所不能知。


所以者何。佛曾親近。百千万億。無数諸佛。尽行諸仏。無量道法。


勇猛精進。名称普聞。成就甚深。未曾有法。随宜所説。意趣難解。


「あの時お釈迦様は、静かに瞑想から立ち上がられ、舎利弗に語られました。


諸々の佛の智慧とは甚だ深く計り難く、声聞や辟支仏には


その智慧の法門に入るは難しく理解することは困難です。


だから佛(釈迦)とは何か…


過去世(から今に至る迄)、百千万億の無数の諸仏のお側に於いて深く修行し、佛法を学び


勇猛に精進され、その名前は知れ渡り、誰も知りえなかった佛法をこれ以上なく取得され


それを言葉にされ至る所で話されてきたが、その意味の真理を理解しがたいのです。」



この様に書いてはいますが、少し砕いてご説明すると…


小乗の信徒の智恵では、佛の説かれた真理を理解することは無理だと言い切ります。


人間として佛教を修行した程度では、釈迦の言葉を理解することは出来ない、と諭すのです。


釈迦は過去世に於いて、無数の佛の下で菩薩としての修行を繰り返し、正しき法の真理を学び


故に、その教えを人間の言葉として伝えたにせよ、その真意を伝えることは難しい…


そう、舎利弗に話し始めました。



余談ですが、舎利弗を般若心経の中では舎利子と表現しています。


ご存知の様に舎利弗はお釈迦様の弟子の中で「智恵第一」と言われたお弟子です。


その舎利弗でさえ、師の言葉の真意を理解できていない、と言います。


法華経(宇宙の真理を説く全ての経)を理解するには大乗の大教を知るべき、と説くのです。


そして何度も繰り返しますが、この大教を理解するまでの流れが妙法蓮華経なのです。


シャーリーという女性の子供、という意味を原語サンスクリットの音訳で書けば舎利子になり


中国経典でそれを舎利弗(佛に一番近い知恵者)と訳したのだと、ご理解ください。



人間の言葉として、佛の智慧を語ることは出来ない…


言葉として表現できないことを、佛教語で「言語道断」と言います。


私達が普段使っている意味とは違います。しかしこの言語道断な法の真理を


解き明かし、導きヒントになるものこそ「妙法蓮華経」なのです。



舎利弗。吾従成仏已来。種種因縁。種種譬諭。広演言教。無数方便。引導衆生。令離諸著。


「舎利弗よ、私は成仏して依頼これまで、様々な因縁と比喩をもって、広く言葉として教え伝え


執着から人々を開放し、仏の法に向かわせてきました」



方便とは「向かわせる、正しい方向」などの意味があり、嘘も方便(嘘も一つの方法)


と言う場合の意味とは違うことをご理解ください。


広演言教といっているところが、実は大切な意味を持っています。


どれだけ多くの場所で、様々な説法をしてきたとしても、


それを聞いた多くの人々が、日々の執着から開放されたにせよ


それだけでは正しい菩薩行とは言えない、真理に向かうことは出来ない…まだ足りない何かがある!!


そうお釈迦様は舎利弗を通して語り始めているのです…



次回はこの続きを書き綴りたいと思います。



南無阿弥陀仏 観世音菩薩 合掌…世恩坊主