今、考えていること -7ページ目

人間は霊界を知り得るか 金森誠也

金森 誠也
人間は霊界を知り得るか

 大学ではドイツ文学を専攻した。ドイツ文学といえば、ゲーテやシラーが有名で、一般に馴染みがあるのは、ヘルマン・ヘッセ「車輪の下」ぐらいだろうか。ほんの最近までは、ドイツ文学を5年間もやったくせに、ドイツ文学にはとんと興味が湧かなかった。
 入学した時からそもそもドイツ文学に興味があったわけではなく、前年の志望倍率が低かったのをいいことに受験して、受かってしまっただけである。だから、非常に残念ではあるが、ドイツ語は話せないし、書けないし、読めない。5年間何をやっていたんだといわれるだろうが、一応卒業はさせてもらった。5年掛かったのも決して単位を取るのに苦労したわけではなく、就職のために無理やり留年したのだ。当時はききしにまさる就職難だったのである。


 進学校が必修科目を生徒に受けさせないで、その時間を受験に有利な科目に振り替えていたという事件が表ざたになっている。たぶん、昨日、今日始まったことではないのだろうが、まあ、学校ぐるみの『悪巧み』なのか、教育行政に楯突いているのかはわからないが、何故、今までばれなかったのか、どうして今になってばれたのかが知りたいところだ。
 私が高校を卒業したのは、ゆうに30年以上も前のことである。しかし、どうもその必修科目だかは当時も今もあまり変わっていないようだ。娘が今年高校に入学した。単位制の高校で結構ユニークな科目もあるようだが、やはりその必修科目とやらが結構多いのには驚いた。どんなにシステムがユニークでも結局やってることは同じではないか、と教育に関する素人は思う。まあ、こんど安部さんが首相になって、教育に政治が口を出すことになった。今までの歴史を見ると、教育に政治が口を挟んで、うまくいった例はない。高校も大学も義務教育ではないのだから、もっと好きなようにさせればいいではないか。
 私は端から私立文系の志望だったから、必修の世界史は私も個人的にも必修だった。大学受験に必要だったから、まじめに受けていたが、同じ私立文系でも日本史を選択する者は世界史などどうでもいいことになる。だから、もちろん、出席はしているが、まじめに授業など聞かない。もっとすごいのは、化学である。これも必修だったと思う。私立文系クラスの誰もが化学を受験科目にしている大学を受けない。そんなことは教えている教師が一番良く知っている。授業は、かるめ焼きを作ったり、何だかわからない実験ばかりで、まあ、楽しかったと言えば楽しかった。
 私の出た高校は、大学進学率は限りなく100%に近かったが、決して進学校ではなかった。でもその当時でも進学校といわれた高校では、受験に不必要な科目は必要な科目と振り替えていたのかもしれない。
 大学を最終学歴と考えるなら、高校は、通過点に過ぎない。そして、その高校はいい大学に入るためのステップでしかない。そう、生徒も親も教師も考えるなら、受験に不要な教科など授業で教える必要はない。それで誰が文句をいうことなどないではないか。


 ドイツ文学を大学時代専攻しながら、その5年間で学んだドイツ文学を全く覚えていない。しかし、ここにきて、どうもドイツ文学はおもしろいらしい、と思えるようになってきた。人間、何事も遅いということはない。知りたい、学びたいという欲求が芽生えた時に人は自ら『知』の道へ入っていく。実は教えてもらうことなど何もないのだ。
 金森先生は大学で独文を専攻されたが、NHKに入社されて、25年後に学究の途についた。独文を出て、NHKに就職できたのもすごいことだが、25年間も宮仕えた後に学びの森に戻られるというのもすごいことである。


 哲学者と霊界というのはどうも普通に考えるとミスマッチである。ところが、そうではないのだ。『学』におけるフュージョン化が進んでいるが、誰もが知りたいのは、『真理』『真実』である。その真理、真実にたどり着くための方法論が哲学だったり、宗教だったり、量子力学だったりするのだろう。ちなみに、お釈迦様も、イエス・キリストもそしてソクラテスも自著としての文献は残していない。

知ることより考えること 池田晶子

池田 晶子
知ることより考えること

 池田晶子さんのファンである。ファンといっても容姿が好きなわけではない。いや、それは失礼な言い方になった。実物を拝見したことがないので、実際のところはわからないが、写真でお見受けする限りはとっても美しい方である。美しい方ではあるが、私がファンなのは、文筆家としての池田さんに対してである。池田さんの文章は私にはとっても心地良いのだ。それは文体とかよりも、その考え方にあるのだと思う。
 まずもって、池田さんは社会に媚びない。きっと心が強いからなのだろう。人間、何故心が弱いのかといえば、そこに欲望があるからである。無欲、無心になったとき、人間の心は強くなる。
 三大欲というのは、見栄、金、色、といわれている。そして現代のビジネスと呼ばれているものは、この見栄とお金と色の欲を満たすための仕掛けである。
 無心というのは、こだわらない心のことを言う。ビジネスの世界ではこの『こだわり』が重要な要素で、『拘れ』とマスメディアを使って宣伝をかける。
 よくよく考えてみると、この私たちが暮らしている社会は、人間の心の弱さに便乗したビジネスで成り立っている。この社会で暮らす者の心が池田晶子さんのように、皆強くなって、見栄も張らず、金にも執着せず、色恋沙汰に全く興味を示さなくなると、心は強くなるが、社会は成り立たなくなってしまう。


 『考える』とはどういうことかを教えてくれたのは、池田晶子さんで、このブログの題名は決して池田晶子さんの影響でつけたわけではないが、『考える教』の教祖はこの池田晶子さんだと思っている。
 人間はどこで考えているのか、脳なのか、心なのか、はたまた魂なのかということを考えただけでも、一時間や二時間考えつづけなければならない。
 池田晶子さんは、根っからの『考える人』だから、たぶん、『考えない』お人の気持ちはわからないのではないかと思う。つまり天然である。そこにいくと、私は『考える人』になってからは日が浅い。しかし、考えない日々が長かったせいか、考えない人たちの気持ちもよくわかる。そして、実は考えないで一生を終えられるものなら、それはそれで仕合わせなのではないかと思っていた。でも、最近気がついたのだが、そんな人生を送れる人は1人もいないのだ。
 勝手なことを言うな。私は、今でも『考えてなんかいない』という方がいるかもしれない。少なくともこのブログを読んでしまった人はこれから考えざるを得なくなる。そして、友達に『考えている』とはとても思えない人がいても、その人だって、いつかは考えるようになるのである。これは、議論するようなことではない。


 話は変わるが、政治家とは議論好きな人のことだが、そんな議論好きな人たちでも、やはり論理的な会話はして欲しいものだ。
 日本が核を保有する、しないに関して議論はしてもいいのではないか、という発言がある政治家から出た。何のために議論するのだろうか。議論するからには、目的があってしかるべきである。保有するか、しないかと議論するのは、保有するかしないかを議論するのである。言葉の通りだ。しかし、その政治家先生は、『非核三原則』は絶対に守らなければいけないとおっしゃる。それなら、日本は核を保有しないのである。何も議論する必要などないではないか。議論とは1人でするものではない。『考える』ことは、議論することではないから、1人で考える。逆な言い方をすれば、複数の人数では考えない。議論することとは、反対の位置にいる。だから、日本が核を保有するべきなのか、やっぱりしない方がいいのかをその政治家先生が『考える』のは自由である。誰も止めやしない。だから、正直にそういえばいい。しかし、議論すると言い出す。いや、もっと姑息な言い方で、『議論があってもいい』と言う。
 私が言いたいのは、核の話ではない。日本語の話である。言葉の使い方は大切である。前の総理大臣は、大変ユニークな日本語の使い方をした方だが、変なところは真似しないほうがいいと思う。


 池田晶子さんの話しに戻る。池田晶子さんはパソコン、携帯を使わない。つまりブログもE-Mailも全く関係ない。だから、私のブログを読むことはない。でも、もし池田晶子さんのブログができれば、とてつもないインパクトが社会に与えられるのではないかと思うのは私一人だろうか。もちろん、そんなインパクトに何の意味があるの?と池田晶子さんはおっしゃるに決まっているが。



池田 晶子
41歳からの哲学
池田 晶子
勝っても負けても 41歳からの哲学
池田 晶子
人生のほんとう
池田 晶子
魂を考える
池田 晶子
14歳からの哲学―考えるための教科書

ブッダは、なぜ子を捨てたか 山折哲雄

山折 哲雄
ブッダは、なぜ子を捨てたか

 最近あまりテレビを見なくなったので、何か困ることがあるかというと、そうでもない。私は昭和29年の生まれだから、ほぼテレビとともに生きてきたようなもので、もちろんテレビっ子だった。だった、というのは、最近あまり見なくなったのは、別に電磁波が気になったわけでもなく、単純に見たいものがないだけである。部屋にはテレビはあるが、マンション暮らしではないので、アンテナに繋げていない。ほぼ、ビデオ専用である。まあ、そのせいもあるのだが、積極的に見たい番組がない。
 お袋の部屋と長男の部屋にはCATVが入っていて、普通の地上波の他にケーブルの番組が見れる。ガオラというスポーツ局は、テニスを多く放送するので重宝しているが、ほとんどビデオに撮ってみるので、積極的に自分の部屋のテレビにもCATVを接続する気にはなれない。


 何しろ今週はテレビも新聞も北朝鮮の核実験の話ばかりである。安部さんの訪韓に合わせた絶好のタイミングというのは、7月のアメリカ独立記念日に合わせたテポドンだか、ノドンだかのミサイル実験のタイミングにシンクロしている。アメリカの独立記念日は毎年7月4日と決まっているから、計画も立てやすかっただろうが、今回の安部さんの訪韓は結構突然の決定である。にもかかわらず、北朝鮮がそのタイミングで核実験ができたのは、前から準備をしておいて、タイミングだけ見計らっていたのだろうか。
 きっと、こんな話もどこかのワイドショーで専門家の先生方がもっともらしい話をされているのだろうけど、そのワイドショーをほとんど見なくなったのでわからない。
 別にキム・ジョンイルが好きなわけではないけれど、キムさんは、ひょっとしたら、アメリカのブッシュさんとお友達なのではないかと思ってしまう。そして、ブッシュもキムさんを信頼しているのだ。
 何を言っているのかといえば、今、北朝鮮が核実験をして一番得をするのは、誰かということである。それは、どう考えてもアメリカしかないのだ。いや、アメリカというよりもブッシュ政権である。
 ご存知の通り、今やブッシュはイラク戦争の件で四面楚歌である。中間選挙では、共和党惨敗といわれている。後2年の大統領としての年月をレイムダック状態で過ごさなければならない。
 しかし、こと極東有事ということになれば、ブッシュの面目躍如である。もちろん本当に有事になってもらっては困る。有事になるかもしれない火種が大事なのだ。それを見事に演出してくれたのが、キム・ジョンイル同志である。そりゃあ、ブッシュ・キムのホットラインがあるんじゃないかと疑いたくもなる。
 これは、安部さんにとってもラッキーである。超タカ派の安部さんなら、きっとこんな時、日本国民の気持ちがすっきりするような制裁を北朝鮮にするに違いない。そんな制裁措置ができるのも、北朝鮮が核実験をしてくれたお陰である。
 実はいい迷惑だと思っているのは、中国なのだ。もちろん北朝鮮と中国は地続きである。核実験をすれば、放射能漏れが生じるかもしれない。地下核実験だから、地中に放射能が漏れることだって十分あり得る。北朝鮮の技術が大したことがないのをよく知っているのは中国なのだ。
 これでしばらくは、カニ、ウニ、マツタケが高い国産品を食べなければならなくなる。まあ、カニもウニもマツタケもしょちゅう食べるような代物ではないが。


 ブッダと北朝鮮の核実験と何か関係があるのか?全くない。たまたま読んだ本と北朝鮮の核実験が重なっただけのことで、それならそんなのをタイトルにするなと怒られそうだが、まあ、世の中そんなものである。
 北朝鮮で核実験があって、日本人で直接の影響を受ける人というのは何人ぐらいいるのだろうか。少なくとも私の知っている範囲には1人もいない。それは、アメリカでもそうだろう。アメリカの方がもっと影響しない。北朝鮮がどこにあるのか知らないアメリカ人はたくさんいるのだ。つまり非日常の出来事である。北朝鮮で核実験をしてもミサイル実験をしても日本の学校が休みになることもないし、もちろん役所が閉鎖されるわけでもない。


 突然、ブッダの話である。ブッダは、生まれながらにしてブッダではない。ゴータマ・ジッタールタという当時のインドの部族の王様の息子、王子さまである。その王子さまが家を捨て、子を捨てて悟りの道を拓いたから2500年の今もその教えが残っているのだ。そして、それはその当時のヒンズー教を飛び越えるほどの思想で、万民への、そして時代を超えた普遍性があったのである。
 仏教は、ブッダの教えである。そしてそのブッダの教えとは『無欲』『無心』である。柳澤桂子さんは、『生きるための智慧』と言った。
 最近の精神世界は、『死後の世界』がブームである。この世に生きるものにとっては、必ず死を迎えるのだから、『死後の世界』に興味があるのは至極当然のことだ。しかし、元々のブッダの教えには、この『死後の世界』が出てこない。言い方を替えれば死後の運命に興味を示していないのだ。四苦八苦の四苦とは、『生病老死』のことで、この四苦は人間にはどうすることもできない宿命だと言っている。
 精神世界では、魂が魂の意志でこの世に生まれてくると考える。つまり、この世に生きていることは必然である。生きていることが必然であれば、死ぬことも必然である。寿命というのも実は魂の意志ということになる。魂は永遠で、肉体を纏った魂がこの世に生まれる。そして肉体の死とともにあの世に還る。


 北朝鮮には「主体思想」(チュチェ思想)なるものが存在する。共産主義思想だから、そこには神も仏も存在しない。自分の運命は自分で決めて自分で責任を持つという考え方である。この考え方自体は、いい悪いではなく、日本人にも結構そう考えている人は多い。所謂唯物史観である。しかしそこに、革命だとか、党だとか首領様とかがでてくると、ややっこしいことになる。独裁者の登場である。歴史的に見るとこの唯物史観と独裁者というのは相性がいいようだ。


 この世の中わからないことだれけである。わからないことをわからないといえる社会、知らないことを知らないといえる社会はいい社会なのだと思う。そしてどんな社会であろうと、考えるのは自由である。だから、どんな時でも自分の頭で考えることだ。そして考えれば考えるほど、人の考えなどでは思いも寄らない世界に行き当たる。人間の心はやっぱり弱いものなのだ。

霊の発見 五木寛之 鎌田東ニ

五木 寛之, 鎌田 東二
霊の発見

 世界三大宗教は、キリスト教、仏教、イスラム教といわれている。その大というのは、信者の数である。キリスト教といっても大きく分けるとバチカンを頂点とするカソリックとプロテスタントに分類できるが、宗派であれば、もう数え切れない。仏教は、お釈迦様が広めた宗教だが、これも大きく分けると大乗と小乗がある。宗派は、ご存知のとおり、これもたくさんあって、お経の上げ方とか葬式の仕方とかに違いがある。
 イスラム教は、日本人にはほとんど馴染みがない。しかし、ニュースにはよく登場する。9.11やアフガン戦争の主役はイスラム教徒である。


 日本古来の宗教といえば、神道である。「しんとう」と読む。神様の道である。
 キリスト教は、イエス・キリスト、仏教はお釈迦様、ゴータマ・ジッタールタ、そしてイスラム教はムハンマド、我々の頃は、マホメットと教えられたが、いずれにしても、その人物は現存したとされている。キリスト教は、イエスが神の子だから、神さまで、お釈迦様は、悟りを拓いた人だから、ブッダとなり、ムハンマドは、アッラーの預言者である。
 この三つの宗教には、その人物が神なのかどうかは別にして、人間として歴史の中に立派に存在した。しかし、神道には、特定の実在したであろう人間がでてこない。そう、始めっから、神さまの集まりなのだ。八百万(やおよろず)の神々が人間に説いたのが、神道である。


 まさに、神ありきから始まっている。つまり、日本人は、それが宗教感覚なのかどうかはわからないが、『神の存在』を身体感覚として持っている。それもひとつの神ではなく八百万の神さまとして捉えている。
 日本人が宗教に関してナイーブなのは、本来持っている『神の存在感』を明治以降の国家神道教育によって歪められた結果である。
 天皇が現人神となって、神道の神様の頂点に立ってしまった。イスラム教におけるアッラーと同じだから、天皇の言葉は神の言葉になった。戦後は一転、国家神道は戦争責任を負わされる。しかし、神道そのものを裁くことなどできはしない。そこにいたのは天皇だけで、本来の神道には、組織もヒエラルキーも存在しなかったからだ。
 神道には、教義も教主も存在しない。神道とは、神様のアソシエーションだからである。神主とは、そもそも神からの御言葉を人間にお知らせする報道官に過ぎない。
 本来神の世界と人間の世界が交流することはない。神の世界とは、人間には見えない世界だからである。私は人間で、その神の世界に行ったことがないのでわからないが、どうも神の世界からは人間の世界が見えるようである。そして、人間を造ったのも地球を造ったのも、となれば宇宙を造ったのもそれは、神様ということになる。
 名前はどうあれ、この宇宙を造った、もちろん人間も造った神様が存在する。見えなくとも現存している。というのが、神道の考え方である。


 霊能ブームである。実はそのブームというのは、日本ではバブルの崩壊以後から起こっている。そのブームが続いているというのが私の考え方である。霊能ブームというよりは、『唯物論』の否定と言い換えてもいい。いけいけどんどんでやってきた社会が、どこかで立ち止まる時がきたのだ。それは、世の必然だったのかもしれない。世界でもっとも物質的には豊かな国になっても『仕合わせ』になれなかったのだ。
 ダー・ウインの進化論とマルクスの唯物史観では前に進めなくなってきた。
 神様がいるのではないか。そしてあの世があるに違いない。魂は永遠で、この世に生きている人間は肉体を脱ぎ捨てて、あの世に往く。
 霊能師とは、普通の人には見えないモノが見える人のことである。そして普通の人では聞こえないモノが聞こえたり、感じたり出来ないモノを感じることができる人のことを言う。
 精神世界では、魂は永遠であり、この世に生まれてくる魂は、その運命を決めてくるという。つまり、その魂は自分の運命を知っているのだ。霊能師は自分ではわからないその運命を代わりに自分の魂に聞いてくれる。


 霊界があるのかないのかを議論しても始まらない。見える人には見えるし、見えない人には見えないのだ。しかし、見えるモノがすべてではないし、見えないから存在しないわけではない。この世にも人知の及ばないところがたくさんある。この世とて、人間だけの世界ではないのだから。

般若心経 玄侑宗久

玄侑 宗久
現代語訳 般若心経

 ここのブログでも『般若心経』については何度も書いてきた。柳澤桂子さん、新井満さんの現代語訳である。仏教学者や宗教学者ではない人が『般若心経』に挑んだところが新鮮だった。しかし、現役バリバリの坊さんが書くというのもこれまた新鮮である。
 玄侑宗久という人は、宇宙物理学がお好きな人で、まあ、仏教そのものを『真理の追求』と考えていらっしゃるから、必然として宇宙志向になっていく。科学と哲学、宗教が何となく、全く別次元で捉えられていたのが、20世紀ではないかと思う。 実は、哲学、宗教の先に科学があって、その科学の先に宗教、哲学があるというめぐり巡った構造をしているのではないか、とおぼろげにわかってきたのが、21世紀なのだと思う。
 今や、キリスト教原理主義とダー・ウインの進化論は真っ向から対立しているし、精神世界と量子力学はどこか同じ方向を見つめているように感じる。


 拝金主義だとか、物資至上主義とか言われて久しいが、社会全体は、結局、見えるモノだけを対象にして営まれている。みんなが、幸せになろうとあくせく金儲けに励んでいる。
 金はあるにこしたことはない、と誰もが信じているのが拝金主義なのに、自分は拝金主義だとは誰も思っていない。
 文明国の人間は『健康病』に苛まれている。健康になるためなら、金は惜しまない。つまり、誰もが現在、健康だと思っていないのだ。健康でないことが実はトレンドである。そして健康でないものが健康になるという過程を楽しんでいる。健康になるための薬や道具が流行る。これらを使うためには健康体であってはならない。ヘルシア緑茶を飲めるのは、体脂肪が多い人間の特権である。カルシウムの錠剤を飲めるのは、いつもカリカリといらついていなければならない。


 考えてみればおもしろい世の中である。考えてみないとその面白さはわからない。だから、いちどゆっくり、考えてみるといい。それは、どんどん根源の世界に向かっていくはずである。もちろん、結論はわかっている。わからないのだ。わからないということが、わかるのだ。そんなわからないことは、とうにわかっているのだから、無理に考えなくてもいいではないか。と考えられる人は、しあわせな人である。そう、無理に考える必要はない。でも、一生、何も考えないで暮らせることなど残念ながらないのだ。『般若心経』など、わけのわからない『呪文』を唱えたくなる時がいつか来るのだ。


 この世には、時間も空間も存在する。だから、肉体を持つ我々は、この世では、永遠ではない。そして『諸行無常』である。
 我々はこの世に生を受けたときから、死へのカウントダウンが始まる。人それぞれにこの世で過ごす日数は異なる。それは、寿命とこの世では言われているが、長くこの世にいることがよい訳ではない。もちろん悪い訳でもない。そのこの世で過ごす日数を決めたのは精神世界では、その本人の魂である。その精神世界の考え方でいけば、この世に生まれたのには、それぞれの理由がある。この世での使命ともいえるのだが、この世での過ごし方である。
 その使命、この世の過ごし方を決めたのも、本人の魂である。だから、自分の魂とコミュニケーションできれば、この世で迷うことなどない。
 お釈迦様が到達したのも、まさにこの世界である。悟ったというのは、自分の魂とコミュニケションすることができたということなのだ。この世で迷い、苦しみ続けていられなかったのである。
 『般若心経』は、その悟りへの道標である。だから、それぞれの『般若心経』があってもいいのである。


柳澤 桂子, 堀 文子
生きて死ぬ智慧
新井 満
自由訳 般若心経
ひろ さちや
般若心経入門―生きる智慧を学ぶ
松原 泰道
般若心経―276文字が語る人生の知恵
水上 勉
「般若心経」を読む―「色即是空、空即是色」 愚かさを見すえ、人間の真実に迫る
瀬戸内 寂聴
寂聴 般若心経―生きるとは

悪魔のささやき 加賀乙彦

加賀 乙彦
悪魔のささやき

 最近あまりこのブログに書かなくなった。書かなくなったのは、考えなくなったわけではない。そして、この世がちょっと変なのも変わってはいない。


 最近のマスコミの話題はもっぱり『飲酒運転』である。都会は別にして田舎街では、公共の交通機関が整備されていない。当然、車での通勤になる。そして仕事が終われば、一杯やっていこうとなって、一杯が二杯になり、二杯が三杯になるのはわかっているが、そこからは酒の力で自制心など効く筈がない。加賀先生流に言えば、『悪魔』が一番入りやすい状況になってくる。
 車は、酒を飲んでいようがいまいが、基本的には走る凶器である。そして残念ながら、その車は勝手には動いてくれない。勝手に動いてもらっても困るのだが、車は人間の道具である。
 道具というのは、その使い手によって、時として凶器になる。野球のバットで殴られて死んだ人も結構いるだろう。もちろんナイフや包丁も使い方を間違えると、使っている本人も怪我をする。
 まあ、こんなことは、誰もが考えればわかることで、酒を飲んで運転をしてはいけない、というのは、車が『走る凶器』で、その『走る凶器』を凶器でないものにしておくためには、その道具の使い手である人間の操作技術に委ねられているからである。
 どこぞの評論家も言っていたが、日本の社会は『飲酒』に対して大変甘いところがある。もちろん、人生での失敗の大半は、男であれば、酒と女とギャンブルである。逆に考えれば失敗するのがわかっていてもその誘惑に勝てないぐらいの魅力があるということにもなる。もちろん、酒も女もギャンブルもほどほどであれば、大変楽しい人生を与えてくれる。
 しかし、哀しいかな人間は弱い生き物である。その程々が程ほどで終わらない。のめりこんでしまうのだ。
 一杯で止めておけば事故など起さなかったのかもしれない。しかし、一杯飲んだら、『悪魔』がささやきかけるのである。「あんた、強いんだから、後2杯ぐらい飲んでも大丈夫」と。そして2杯飲み終わったら、もうそこには『悪魔』などいない。しかし『悪魔』などいなくてももうすでに自分をコントロールすることなどできない。


 どうして、あんな真面目な人が。犯罪が起きると、時々こういう周りの声が聞こえてくる。『悪魔のささやき』は真面目な人だろうと不真面目な人だろうとそんなことは関係ない。人間であれば誰にでも潜んでいる罠である。
 人間の心は弱いものだ。そして『悪魔』はその弱い心が好きである。悪魔のささやきから逃れる方法はひとつしかない。心を強くすることである。それでは、どうすれば心は強くなるのか。無欲、無心である。無欲は、まさに欲張らないことだし、無心とは、拘らないことである。そして、これは、加賀先生もおっしゃっているが、『自分の頭で考える』ことだ。自分の人生である。そして『悪魔のささやき』もそれは、自分自身の声なのである。

5つの魂 ジョヤ・ポープ

ジョヤ ポープ, Joya Pope, 星川 淳, 草野 哲也
惑星地球を癒す5つの魂―宇宙進化の鍵

 最近本当にテレビを見なくなった。前にも書いたが、全然おもしろくない。たぶん、私自身の感性が一般の感性とずれてしまっているからかもしれない。

 魂には五種類あるそうで、その五種類の魂の比率でその社会が変わる。乳児期、幼児期、青年期、成熟期、老年期の五つで、現在世界を牛耳っているアメリカは青年期の魂が多くて、その魂が「物質世界の優秀なリーダー」として活躍したから「今」の世界地図になったらしい。しかし、そのアメリカも徐々に成熟期の魂が増えてきて、変わっていかざるを得ない状況にあるという。
 この本が書かれたのは、1994年のことで、「2000年までに人口は20%減少する」という項目がある。残念ながら、21世紀に入っても世界的にみて人口が減少した事実はない。それは何を意味するかといえば、地球規模での危機がより身近になったということである。1994年当時の世界の人口は60億ぐらいだったろうか。現在の世界人口は約65億、十年で5億増えた計算になる。
 日本だけ見れば、これから人口は減っていく。生まれる数より、死ぬ数が多くなるからである。日本は少子化といって、どうすればその少子化を防げるのかに必死である。人口増大に苦しむ国はどうやれば人口を減らすことができるのかに必死である。日本が平和だということなのだろうが、見せ掛けの平和の中では本来の魂の進化は成し遂げられない。

 「個人的で野心的な青年期の魂」が物質主義の世界では繁栄をもたらしてきた。しかし、それは、一方で、犠牲を伴う。世界の富の半分はたった6%の人間が牛耳っている。「個人的で野心的」ということは、言葉を替えれば、自己中心ということである。国単位で考えれば、国益という考え方は、自国中心主義のことである。
 先進国といわれる国は、青年期の魂から成熟期の魂にシフトしつつある。しかし、物質社会が続く以上、「個人的で野心的な青年期の魂」も「優秀なリーダー」であり続ける。現在の中国やインドには、青年期の魂が増えているという。こんままいけば、どこかで、その青年期の魂同士の激突が起こるかもしれない。十分に成熟した魂たちがその激突を回避することができるのだろうか。

 精神世界から見た「予言書」である。チャネリングによる宇宙からの情報は、「バシャール」ではなく「マイケル」である。
 
 生まれて、物心ついた時から日本は平和だった。平和だったけど、常に競争させられてきたような気がする。大学を卒業するまでは受験競争だし、社会人になれば出世競争である。しかしふと気がついてみると、その競争に勝ったのか負けたのか判然としない。果たして人生とは競争なのだろうか。そして競争ならば、勝たなければならない。と思って人生を送っている人がきっとたくさんいるのだろう。その人たちはマイケルが言う、青年期の魂かもしれない。しかし、魂も進化する。いや、魂の目的は進化することだけである。もしあなたが、今青年期の魂として物質世界の優秀なリーダーでも、それが終点ではない。青年期の魂は、成熟期の魂に進化しなければならない。そして成熟期の魂は老年期の魂へと進化する。魂は決して後戻りはできないのである。


ダリル・アンカ
バシャール

天界の原理 トム・ヤングホーム

トム ヤングホーム, Tom Youngholm, 池田 真紀子
天界の原理

 精神世界に興味を持ったのは、やはり『波動の法則』の影響が大きい。ジェームズ・レッドフィールドの『聖なる予言』の日本語訳初版が出たのが1994年で、ニール・ドナルド・ウォルッシュの『神との対話』の翻訳が出たのが1997年のことである。
 トム・ヤングホームの書いた『天界の原理』も日本で翻訳されて出版されたのは1999年だが、アメリカで出版されたのは1994年である。『波動の法則』も初版は1994年で、『生きがい』シリーズの端緒『生きがいの夜明け』という飯田史彦氏の論文が学術誌に記載されたのが1995年である。(単行本として出版されたのは『生きがいの創造』で1996年である。)
 どうも1994年からやたらと精神世界の本が世に現されてきた。単なるブームといってしまえばそれまでだが、バブルがはじけて、物質主義の限界を皆が感じてきた頃である。しかしその精神世界の盛り上がりに水を刺す事件が起こる。「オウム真理教」である。世界的にもカルト集団による事件が相次いだ。
 それでなくても宗教にはナイーブな日本人がよりナイーブになってしまった。
 軍国主義と神道が結びついた戦前の養育の裏返しで、戦後は宗教そのものをタブー視してきた。無宗教でいることがまるで知識人の証しになった。宗教をいかがわしいものとして、遠ざけたから日本人は皆宗教にナイーブになった。そのナイーブとは無知ということである。そして宗教と同じカテゴリーに属する精神世界についても見て見ぬふりを決め込んだ。だから、高度成長をとげ、物質社会の先輩であるアメリカさえも凌駕する時がきた。
 アメリカの物質主義を支えていたのは、実はキリスト教をベースにした信仰心である。つまり神の存在があるから物質主義に走れたのだ。しかし日本人は神の存在なしで突っ走った。歯止めがきかないのだ。
 今、中国がまさに日本と同じ、いやそれ以上に歯止めのない物質主義の世界を突っ走っている。共産主義の世界で物質主義がどういう結末を生むのか。正直見たくない世界である。

 どんな時代や社会や世界に暮らしていても、生まれて死ぬまで何の疑問も感じないでいられる人間などいやしない。どこかで挫折を味わう。それは単に早いか遅いかの違いだけだ。人は挫折して初めて自分を振り返る。その時に頼りになるのが他でもない、宗教であり、精神世界であり、哲学である。その名称のつけ方はいろいろでも、その助け舟は見えない世界のことである。
 神さまと呼ぶのか、ゴットと呼ぶのか、アッラーなのかはたまた、サムシング・グレイトなのかは知らないが、自分は生かされているという思いが人間の心を強くする。
 人間は傲慢になった時、その鼻っ柱を折られることで、その傲慢さに気づく。もしそれを挫折と呼ぶなら、それが神さまからのプレゼントである。だから、挫折した時、失敗した時にこそ、神さまに感謝しなければいけない。宗教も精神世界も哲学ももしそれが本物であるのなら、全ての基本はそこにある。そう教えていない宗教も精神世界も哲学も信用しない方がいい。


ジェームズ レッドフィールド, James Redfield, 山川 紘矢, 山川 亜希子
人生を変える九つの知恵―『聖なる予言』の教え
ニール・ドナルド ウォルシュ, Neale Donald Walsch, 吉田 利子
神との対話―宇宙をみつける自分をみつける
足立 育朗
波動の法則―宇宙からのメッセージ
飯田 史彦
生きがいの創造―“生まれ変わりの科学”が人生を変える

瞑想 J.クリシュナムルティ

ジッドゥ クリシュナムルテイ, J. Krishnamurti, 大野 純一
クリシュナムルティの瞑想録―自由への飛翔

 「瞑想をしようとする努力はすべて瞑想を否定するものです。瞑想とは思考が止むことです。そのときこそ、時間を超えた新たな次元があらわれます。」

 冥王星が太陽系の惑星から矮(わい)惑星に『降格』した。冥王星が『降格』したからといって、冥王星と呼ばれていた星がなくなったわけではない。冥王星は1930年3月13日にアメリカ人のトンボーによって発見された。まあ、太陽系の惑星としては一番新しい。それよりも遡ること84年前の1846年9月25日フランス人天文学者のルブリエとアダムスによって海王星が発見されている。そしてさらに65年遡っての1781年3月13日にハーシェルによって天王星が発見されている。
 ご存知の通り、太陽系の惑星というのは、太陽の周りを廻っている星のことである。太陽に近い順に水星、金星、地球、火星、木星、土星、天王星、海王星、冥王星ということになっていた。水星から土星までは、可視惑星といって、望遠鏡を使わなくても見える星である。だから、古代からその存在を知られていた。天王星、海王星、冥王星は、肉眼では見えない。肉眼では見えない惑星を不可視惑星と呼ぶ。
 今回、冥王星が惑星から矮惑星に降格したことで、何か問題はあるのか。
 テレビで報道されているように、子どもの宿題の問題や、教科書への記載の問題などはあるだろう。でもそれは大した問題じゃない。問題は、占星術の世界である。(かどうかはわからないが)

 占星術、日本では星占いといって、当たるも八卦、当たらぬも八卦の単なる占いと見られているが、アメリカや、西欧では学問のひとつとして結構重んじられている。アメリカの歴代の大統領には専属の占星術師がいるといわれている。大事な決定のほとんどが、その占星術師の言で決まるという。本当かうそかはわからない。
 その占星術に冥王星が惑星でなくなってしまうと何が問題なのか。
 占星術とは、ある瞬間に天空に位置している星の図で未来を予測する術である。占星術の前に天文学があったのか、天文学の前に占星術が存在したのかはわからない。しかし、太陽系も地球も冥王星も人類の歴史など比較にならないくらいの歴史を有している。そしてそれは、ある一定の秩序のなかで行われている。地球だけを考えても地球の上で戦争が起ころうと、人が生まれようと、死のうとそんなことはお構いなしに、365日と何時間かをかけて、太陽の周りを一周する。そして毎日毎日地球そのものがクルクル廻っている。
 太陽系は、銀河系のひとつだが、その銀河系そのものも決してじっとしているわけではなく、ひょっとすると宇宙そのものが決して固定された空間ではないはずである。
 人間の未来などというものはどうなるかわかったものではない。しかし、地球も太陽も冥王星も明日、この宇宙に存在して、どこで何をしているのかは確実に予測ができる。つまり、宇宙そのものは、未来が保証されているのだ。その未来が保証されている宇宙と何の保証もない人間の未来をリンクさせてみたいと考えるのは決して不思議なことではない。未来を保証されていない人間の前に広がる空間は無限である。未来を保証されていない人間が見る天空の星ぼしには未来が約束されている。人間にはその空間を見渡すことができても、『時』を見ることはできない。「時とは始まりも終わりもない永遠の輪の中での反復」と古代の哲学者は考えた。
 この世に生まれた人間の未来などはどうなるかわからないが、この宇宙の未来は確実に予測ができる。人間もまたこの宇宙の構成員のはずではないか。ひょっとしたら、人間の未来も実は約束されているのではないか。宇宙が永遠であるなら、人間の魂も永遠である。魂は永遠だが、肉体を持ったこの世の人間は永遠ではない。しかし、この宇宙の中の地球という星に生まれた人間の運命は宇宙と共時(シンクロニシティー)しているのではないか。
 これが、占星術の基本的な考え方である。占星術は、もちろん1930年よりも前、古代といわれる時代から存在している。だから、1930年より前の占星術には冥王星は出てこない。なんだか、それっていかがわしいよな、と思われるかもしれない。しかし占星術の世界では『星は発見されたときから影響を発揮する」と考えられているのだ。発見されていないもの、認識されていないものは、意識上、存在しない。
 だから、もしカロンだか、セレスだかが惑星に『昇格』していたら、それのほうが大変だったのかもしれない。本を書き直さなければいけなくなる。
 天文学界同様、占星術界(そういう斯界があるのかはしらないが)が今回の冥王星の降格をどう扱うのかはわからないが、理屈で言えば、すでに認識されているのだから、別に天文学界が降格させても占星術には何の影響もありません。でシャンシャンだとは思う。
 ちなみに、冥王星は『隠されたエネルギーと滅びと再生の象徴』なんだそうだ。これを機に占星術に興味を持たれた方は、調べてみるといい。誰かさんの六星何とかよりもどことなく高尚な気がする。


  「宗教的な心というのは、愛が炸裂することです。」

 人間は全て愛が炸裂するような心を持って生まれてきている。天空を眺めていると、自然に思考が止む時が訪れる。これが瞑想なのかもしれない。そこは、冥王星が惑星でも矮惑星でも全く関係のない世界である。



参考文献 

秋月 さやか

増補改訂版 正統占星術入門

愛と幻想の日本主義 福田和也 宮崎哲弥

福田 和也, 宮崎 哲弥
愛と幻想の日本主義

 戦争が終わって61年目の夏を迎えた。小泉首相が5年前の総裁選で公約した『8.15靖国神社参拝』をとうとう実現した。その小泉さんの靖国参拝に批判的だった加藤紘一議員の実家が放火された。
 旧江戸川に掛かる送電線にクレーン船が引っ掛かって、東京地区を中心に3時間も停電が続いた。
 蟹の捕獲船がロシアの国境警備艇に拿捕されて、日本人1人が射殺された。
 ここ二三日のニュースである。


 今の日本は平和である。平和というのは、戦争をしていない、という意味である。日本は確かに戦争をしていないが、世界を見渡すと結構いたるところで戦争をしている。つい最近、テポドンだか、ノドンだかを発射した北朝鮮は、彼らの意識としては、まだ戦争をしていることになる。アメリカだって、9.11以後は、テロとの戦いといっているが、実質はイラクに何万人という兵士を送って戦争をしているのだ。
 そう考えると、今ある、日本の平和というのもどことなく「あやうい」感じがしてくる。アメリカ人にしてみれば、日本がこうして平和でいられるのは、アメリカ人が守ってやっているからだと考えている。交渉上手なアメリカだから、直接そんな野暮なことは言わない。戦争の元を作っているのは、そのアメリカだからだ。そして、アメリカは世界中が平和になってもらっては困るのだ。
 日本は61年前にアメリカと戦って負けた。惨敗である。二発の原子爆弾まで落とされての敗北である。無条件降伏。全く戦争をしたメリットのない負け方だった。戦後、極東裁判が開かれて、何人かの当時の日本の指導者が戦争犯罪人として絞首刑になった。A級戦犯という人たちである。今までの日本の風潮で言えば、自決である。何人かの将校は、確かに自決している。
 戦争は、どんな状況でも『勝てば官軍、負ければ賊軍』である。それは今でも変わっていない。もちろんこの太平洋戦争の結果も勝ったアメリカが官軍で、負けた日本は賊軍である。だから、日本はいつまでたってもアメリカには頭が上がらない。そして、日本人はそれを甘んじて受け入れている。戦時中は鬼畜米英とまで罵った相手にしっぽを振っているのだ。
 戦争を知らない世代は仕方がない。物心がついたら、アメリカに庇護され、アメリカ文化を追いかけている大人達を見てきたからだ。そして、それが、日本人の目指すものだと教えられてきた。
 しかし、戦時中を生き抜いた私の母親の世代の人間ですら、戦争に負けたことを喜んでいる。もし、日本が戦争に勝って、そのまま軍部が力を持っていたらもっととんでもないことになっていたと思っているのだ。そして、もうひとつは、ロシアの存在である。
 第二次世界大戦で、日本はアメリカと戦争をして、アメリカに負けた。ハワイの真珠湾に奇襲をかけたのは、日本が先である。日本の相手はアメリカで、アメリカに対して無条件降伏したのである。ところが、それまでの占領地、今の北朝鮮に乗り込んできたのは、当時のソ連軍、今のロシアである。北方4島といわれる島を占拠したのもソ連軍である。降伏するのがもう少し遅れれば、北海道にも上陸してきたかもしれない。
 日本とソ連の関係が当時どういうものだったかはわからない。しかし、日本人のほとんどが、ソ連を『火事場泥棒』だと思っている。
 火事場泥棒であるソ連から守ってくれる白馬の騎士がアメリカだったというのも皮肉なものだ。米ソの代理戦争が1950年の朝鮮戦争である。日本の経済的な繁栄の元は、この朝鮮戦争から始まる。この朝鮮戦争もアメリカの大義名分はアジアを共産勢力から守ることだった。
 太平洋戦争での日本人の死者の数は軍人、民間人合わせて310万人と言われている。(朝鮮人、台湾人も含む)第二次世界大戦の参加国が72カ国、全体の戦死者が3200万人だから、そのうちの約一割の戦死者は日本人である。
 
 戦争より平和がいいに決まっている。誰もが平和を願う。それは戦争が勝っても負けても悲惨であることを知っているからである。知っているにも係わらず、戦争はなくならない。今、日本が平和なのは、ひょっとしたらほんの偶然に過ぎないのかもしれない。平和ぼけというのは、平和は黙ってそこにあるという幻想である。決して、平和は勝ち取るものだなどと過激な発言をするつもりはない。しかし、平和であるためには、積極的に平和であるための行動を取らなければならない時代になったのかもしれない。それは、戦争が平和な日本で生活している我々にとっても特別なものでなくなってきているからだ。
 『勝てば官軍、負ければ賊軍』の思想は今でも生きている。それは戦争に限らず、この社会に蔓延している。勝ち組みや負け組みといった言葉が社会の価値観になっている。
 人間の性なのかもしれない。人生は勝ち負けではないと頭ではわかっているけれど、誰もが負けの人生は選ばない。しかし、勝ち負けの価値観で生きていくと、勝ちの数だけ負けが生まれる。スポーツの世界のように、「負けの美学」が通用する世界ならいいが、『勝てば官軍、負ければ賊軍』の世界では、そこに憎しみと恨みと妬みが生まれる。生まれた憎しみ、恨み、妬みを増幅するのは簡単だが、それをなくすことは容易ではない。
 日本人は、稀にみるお人よしで、310万人もの戦死者が出た戦争の対戦国に対して憎しみ、恨み、妬みを戦後増幅させなかった。それは、日本人の性向、気質によるところが大きいのかもしれないが、アメリカの占領政策も良かったのかもしれない。しかし、それはやっぱり、ラッキーだったのである。ラッキーだったのだから、そのラッキーを活かすには、ここからはそれなりの努力が必要である。その努力とは、絶対に戦争をしないという『覚悟』を日本人全てがすることである。それは、日本国憲法に書かれていることだからである。