死生観
著者は、日本の死生観は独特だと述べます。
厳しい自然のために災害で死んだ時、その時は天を憎んでも、諦めて受け入れてしまうでしょう。
しかし海外では、災害ではなく紛争で殺される為、相手をトコトン恨む事になります。
旧約聖書はキリスト教、ユダヤ教、イスラム教の共通の経典ですが、ここには凄惨な正義の戦いが多く書かれています。
すると、正義の為なら大量の殺戮も許される、というより、貫徹しなければならない、という価値観が共有されます。
ノアの箱舟とか、十戒とかだけでなく、これが信者たちの死生観の根底にある事を見逃すわけにはいきません。
これを読めば、神が約束の地を与えたなら、そこにいた人を抹殺する事は正当化されるのですが、そんな話は日本では到底受け入れられず、根本的に違いがあるようです。
自由、平等、博愛を打ちたてようとしたフランス革命では、150万人も殺されますが、すると現代のテロとの戦いにおいても、正義の殺戮は成り立ってしまっています。
日本だけが違う経験を持ち、違う価値に生きているのですが、これをキッシンジャーは、
「中国は世界的視野を持つが、日本には部族的視野しかない」
と表現しました。
これは1971年の発言ですが、評価はそのまま現在も受け継がれているのです。