サルバドールダリ風イタリアーナパスタ~エジプシャンの溜息を添えて~
このブログを読んでる人が未だに居るのかと不安に思いながらも、アクセス数がゼロではないことに若干の驚きを感じつつ、昨日は帰宅後に6時間という昼寝にしてはやや長めの午睡を決行したために徹夜となってしまった課題処理途中の寝ぼけた頭でこの記事を書こうと思っている次第な訳である。
近況→試験ラッシュ
ステータス→単位一科目取得済み
審査途中→単位2科目分
戦績→病理学総論を撃破。ウイルス学を迎え撃ち(審査途中)。薬理学は相討ちの可能性あり(審査途中)
対戦予定ボス→病理学各論(備考:新任教授ゆえ過去問なし。昨年までの傾向を変える宣言済み)
そんなこんなでテスティッククエストを淡々とこなし、度重なるボス戦に心身ともに疲労困憊なわけです
夏コミ用のゲストイラストとかとある本の表紙製作などのお楽しみ企画も目白押しで気が付けば夏休み間近
しかし、夏休みは研究室の予定とバイトの予定しかなくて、9月の頭から授業の予定で、「大学生はヒマ」というのは文系にしか適用不可な完全なるデマだということが判明しておりますので、おとなしく遣るべきことを遣るのみであります
それではまたの機会にお会いしませう
※タイトルは無関係です
近況→試験ラッシュ
ステータス→単位一科目取得済み
審査途中→単位2科目分
戦績→病理学総論を撃破。ウイルス学を迎え撃ち(審査途中)。薬理学は相討ちの可能性あり(審査途中)
対戦予定ボス→病理学各論(備考:新任教授ゆえ過去問なし。昨年までの傾向を変える宣言済み)
そんなこんなでテスティッククエストを淡々とこなし、度重なるボス戦に心身ともに疲労困憊なわけです
夏コミ用のゲストイラストとかとある本の表紙製作などのお楽しみ企画も目白押しで気が付けば夏休み間近
しかし、夏休みは研究室の予定とバイトの予定しかなくて、9月の頭から授業の予定で、「大学生はヒマ」というのは文系にしか適用不可な完全なるデマだということが判明しておりますので、おとなしく遣るべきことを遣るのみであります
それではまたの機会にお会いしませう
※タイトルは無関係です
そうだ東北へ行こう
東北に行こうと思ったのは春休みが3週間近くあると知ってから1週間以上すぎた3月の中旬ごろだった。
研究を一緒に行っていた工学部の友達を1人誘い、夜行バスで東北へと向かった。
京都を26日の夜に発ち、高速バスは北陸道の雪による通行規制、2か所の交通事故通行止めによる2時間の遅れを持って27日の朝、仙台に到着した。
思ったよりも暖かい。いや、寒くないというべきであろうか。
午前中は東北大学の工学部の准教授と会う約束をつけていた。
バスに乗り込み、青葉山キャンパスへ向かう。
道端の端に少し残る疎らな雪の塊が此処を東北だと実感させた。
工学部中央のバス停で降りると、意匠の凝った建物とタイル張りの建物が整然と並ぶキャンパスの真ん中だった。
機械棟2号館に入り519のN研究室を目指す。
エレベータに乗り込み、5階に着くと部屋はすぐそこだった。
N先生に京都から持参した八つ橋を渡す。
N先生とは去年の11月にマサチューセッツ工科大学で会ったきりである。
この日、東北大学は卒業式の日であった。
実に2年ぶりとなる東北大学での卒業式であったらしいことは夜のニュースで知った。
N研究室で一頻り歓談した後、東北大学構内を案内してもらった。
「少し歩くとわかるよ」
階段で下ると壁面のいたるところに罅が入っていた。
応急的に上から塗料が塗ってあったが、その罅は隠しきれていなかった。
床のタイルも大きく罅が入っている。
青いマスキングテープで固定されていた。
機械棟2号館の1階にはキャタピラの付いた黄色い機械が展示してあった。
丈は2m近くある。
腕のようなものもついている。
高放射線量環境下で働くロボットなのだそうだ。
荷電粒子の場合はロボットの基盤そのものにも誤作動を引き起こすことがあるのだという。
このロボットは古すぎて使い物にはならなかったが、この機械棟には原発で動くロボットの開発を行う様々な先生方が居るのだとN先生は仰っていた。
先生の案内で東北大学の学食に着いた。
学食のメニューには震災復興支援の地元の魚を使ったおかずがあった。
長机には青いジャケットの人たちが沢山座っていた。
ジャケットの背中には「兵庫県ボランティア」と書いてあった。
ざっと20人近くいた。
彼らも東北大学で食事をとるのだと思った。
食事後、一番ひどい場所を見せてあげようと先生は言った。
学食から裏に回って、しばらく進んだところにに大きな崖があった。
青いビニールシートが茶色い砂を覆っている。
乾いた砂は数十mにわたって下方へと崩れていた。
「ここに建物があって、地盤が崩れて完全に浮いていたんだが、もう建物は片づけてしまったみたいだな」
N先生はそう言った。
工学部の建物は3つが立ち入り禁止となっているという。
窓から機材だけ取り出した建物はロープで近づくことさえできないようになっていた。
建物の所々は罅割れ、表面が落下していた。
言われなければ気付かない、大半の傷痕は隠されてしまったいたのだ。
もう1年が経つ。
「とりあえず、美味しいものを食べていって」
N先生には美味しいおでん屋さんを教えてもらった。
午後。
海岸へ行こうと仙台駅へと戻った。
JR仙石線に乗り込み、松島海岸へと向かった。
仙石線は松島海岸からは矢本の間の線路が復旧していない。
仙台と石巻を結ぶ仙石線は代行バスが途中をつないでいる。
1年、住民の足となっているのだ。
代行バスは1時間に1本しか通っておらず、その間、松島を眺めていた。
碑に曰く「陸奥松島丹後天橋立安芸厳島三所為奇観」
五大堂を見、バス乗り場へと戻った。
目的地は野蒜。
野蒜海水浴場のビーチがあった場所であり、石巻市のすぐ南、女川町からもほど近い。
松島は点在する島が消波堤の役目を果たし、被害が少なかったのだという。
しかし、松島以北の海岸沿いは津波によってかなりの被害を受けている。
野蒜の駅に降り立った。
代行バスの野蒜バス停はJR仙石線野蒜駅の前にあった。
野蒜駅はロープで立ち入り禁止となっていた。
駅の横にあったであろう売店は1階部分が完全に流され、大枠の柱と割れたガラスしか残っていない。
あとは、瓦礫がただ、刺さってそこに居た。
線路に出た。
駅舎は板張りで通り抜けができないようになっている。
電線を支えていた鉄柱は倒れ込み、ホームの屋根に乗りかかっている。
当の電線は大きく撓み、地面すれすれまで下がっていた。
線路は大きく傾いでいた。
海から齎された砂が線路を覆い、枕木を覆っている。
場所によっては緩衝石が流され、コンクリートの枕木だけが浮いている場所もあった。
瓦礫は無いのだろう。
しかし、変形したものは残されている。
5m近くある石巻への道路標識は根元ごと倒れて、道路脇に転がっていた。
街灯は千切れてはいないものの根元が90度に曲がり、ランプ部分は天を仰いでいる。
海岸までは何もなかった。
すでにボランティアと地元住民によって片づけられていたのだ。
しかし、地面には様々なものが埋まっている。
割れた茶碗、砕けたクレヨン、大半が埋まったペットボトル、磁気テープが解けたVHS。
けれども、その地面を支配していたのは海砂だった。
一歩を踏み出す。
砂独特の感触が伝わってくる。
柔らかい。
生活用品に交じって、供えられたであろう花も見受けられる。
枯れたものから、瑞々しいものまで。
遠くで重機に錆びついた音がした。
何もない地面からは遠くの様子もよく見える。
オレンジ色と黄色の重機が音を響かせて瓦礫を撤去していた。
ふと、大きな建物が視界に入った。
学校のようである。
海岸からはかなり近い。
いや、近すぎる。
砂地は所々水を湛えていた。
海の水なのか雨の水なのか判然とはしなかった。
コンクリートの校舎らしきものも、地盤の土が抉られていた。
アスファルトが崩れ、大きな水たまりになっている部分もある。
正面かどうかは解らないが、回り込んでみると大きな時計が付いていた。
ああ、これは学校だ。
教室があるはずの空間は1階の窓ガラスがすべてなくなり、天井からは配線や断熱材がむき出しになっている。
2階の窓ガラスは無事のようだった。
あそこまでは津波が来なかったのか。
2階の空いた窓から、中の黒板がちらりと見えた。
「平成16年度卒業生…」
津波後に書き込まれたものだろう。
この学校は小学校なのか中学校なのか。
今歩いているところは元々グラウンドであろう。
グラウンドには机と椅子が積まれていた。
1クラス分もないような数である。
プールは濁った水が満々と張られていた。
ここは、学校であるのだ。
道が途切れたので、1階は骨組のみに等しい校舎を通り抜けた。
反対側には体育館のような建造物があった。
教科書のようなものが海水でがちがちに乾燥してコンクリート地面に張り付いている。
砂に浸食されていないコンクリートの道を辿ると正門に出た。
正門を出口にしてしまったようだ。
「鳴瀬第二中学校」
ここは中学校であった。
中学校を後にして更地を歩く。
どこまでも砂に侵されている。
ボンネットが剥がれ、タイヤの無い、押しつぶされた軽トラックが道端に転がる。
フェンスは水の流れのように畝ってまま倒れ込んでいた。
墓石は山のように積み重ねられている。
大きな水たまりに傾き始めた西日が移る。
重機が影を濃くしていった。
ガードレールは団子のように折れ曲がり、カーブミラーは砕け散って、支柱は裂けていた。
辛うじて建っている人家は1階が壊滅。
向こうが筒抜けになっているほどである。
ぐるりと一周して野蒜駅前に戻ってきた。
暗くなる前に仙台へ戻ろう。
野蒜駅前に戻ってきたときに、放送が響いた。
「小学生中学生のみなさん、まもなく、午後5時になります。暗くなる前にお家に帰りましょう」
人家も学校もない海岸沿いの町に、放送が響いた。
どこかで声が木霊する。
ここはまだ生きているんだと思った。
全く人気が無いわけではない。
重機を動かす人、家を解体している人、家を直している人、花を手向ける人。
春の西日は柔らかく、曖昧な光を被災地に投げかけていた。
バス停には一人のおじさんが居た。
これでいいんですよね。
おじさんはそう尋ねてきた。
ええ、これで松島海岸まで行きますよ。
そう答えた。
聞けば、この人は海岸沿いを見てきたのだという。
どこから来たかは聞きそびれたが、そういうことなのだろう。
来た道を戻る。
帰りの方が短く感じるのはいつものことだ。
仙台に戻り、ホテルに荷物を置いた。
夕食を食べにホテルをでた。
仙台駅の3階には牛タンストリートなる場所があるという。
「美味しいものを」
N先生のお勧めのおでんではないが、牛タンを食べようと決めた。
勿論、美味しかった。
食べ終えて、店をでた。
土産を物色していたとき。
「おお、揺れている」
同じ土産物屋にいた男性が声を上げた。
「本当だ」
店員が確認する。
確かに揺れていた。
これは長い、そう、思った。
揺れがやめば、宮城県北部震度5弱とある。
震度4くらいを体感したことになる。
久しぶりの地震だった。
関西は驚くほど揺れない。
仙台での地震を体感するとは思わなかったが、遭ってしまったのだ。
その日は歩き疲れたので、すぐに寝た。
帰ったら日記を書こうと思って寝た。
海砂に傾いだ線路春茜 / 京極堂
研究を一緒に行っていた工学部の友達を1人誘い、夜行バスで東北へと向かった。
京都を26日の夜に発ち、高速バスは北陸道の雪による通行規制、2か所の交通事故通行止めによる2時間の遅れを持って27日の朝、仙台に到着した。
思ったよりも暖かい。いや、寒くないというべきであろうか。
午前中は東北大学の工学部の准教授と会う約束をつけていた。
バスに乗り込み、青葉山キャンパスへ向かう。
道端の端に少し残る疎らな雪の塊が此処を東北だと実感させた。
工学部中央のバス停で降りると、意匠の凝った建物とタイル張りの建物が整然と並ぶキャンパスの真ん中だった。
機械棟2号館に入り519のN研究室を目指す。
エレベータに乗り込み、5階に着くと部屋はすぐそこだった。
N先生に京都から持参した八つ橋を渡す。
N先生とは去年の11月にマサチューセッツ工科大学で会ったきりである。
この日、東北大学は卒業式の日であった。
実に2年ぶりとなる東北大学での卒業式であったらしいことは夜のニュースで知った。
N研究室で一頻り歓談した後、東北大学構内を案内してもらった。
「少し歩くとわかるよ」
階段で下ると壁面のいたるところに罅が入っていた。
応急的に上から塗料が塗ってあったが、その罅は隠しきれていなかった。
床のタイルも大きく罅が入っている。
青いマスキングテープで固定されていた。
機械棟2号館の1階にはキャタピラの付いた黄色い機械が展示してあった。
丈は2m近くある。
腕のようなものもついている。
高放射線量環境下で働くロボットなのだそうだ。
荷電粒子の場合はロボットの基盤そのものにも誤作動を引き起こすことがあるのだという。
このロボットは古すぎて使い物にはならなかったが、この機械棟には原発で動くロボットの開発を行う様々な先生方が居るのだとN先生は仰っていた。
先生の案内で東北大学の学食に着いた。
学食のメニューには震災復興支援の地元の魚を使ったおかずがあった。
長机には青いジャケットの人たちが沢山座っていた。
ジャケットの背中には「兵庫県ボランティア」と書いてあった。
ざっと20人近くいた。
彼らも東北大学で食事をとるのだと思った。
食事後、一番ひどい場所を見せてあげようと先生は言った。
学食から裏に回って、しばらく進んだところにに大きな崖があった。
青いビニールシートが茶色い砂を覆っている。
乾いた砂は数十mにわたって下方へと崩れていた。
「ここに建物があって、地盤が崩れて完全に浮いていたんだが、もう建物は片づけてしまったみたいだな」
N先生はそう言った。
工学部の建物は3つが立ち入り禁止となっているという。
窓から機材だけ取り出した建物はロープで近づくことさえできないようになっていた。
建物の所々は罅割れ、表面が落下していた。
言われなければ気付かない、大半の傷痕は隠されてしまったいたのだ。
もう1年が経つ。
「とりあえず、美味しいものを食べていって」
N先生には美味しいおでん屋さんを教えてもらった。
午後。
海岸へ行こうと仙台駅へと戻った。
JR仙石線に乗り込み、松島海岸へと向かった。
仙石線は松島海岸からは矢本の間の線路が復旧していない。
仙台と石巻を結ぶ仙石線は代行バスが途中をつないでいる。
1年、住民の足となっているのだ。
代行バスは1時間に1本しか通っておらず、その間、松島を眺めていた。
碑に曰く「陸奥松島丹後天橋立安芸厳島三所為奇観」
五大堂を見、バス乗り場へと戻った。
目的地は野蒜。
野蒜海水浴場のビーチがあった場所であり、石巻市のすぐ南、女川町からもほど近い。
松島は点在する島が消波堤の役目を果たし、被害が少なかったのだという。
しかし、松島以北の海岸沿いは津波によってかなりの被害を受けている。
野蒜の駅に降り立った。
代行バスの野蒜バス停はJR仙石線野蒜駅の前にあった。
野蒜駅はロープで立ち入り禁止となっていた。
駅の横にあったであろう売店は1階部分が完全に流され、大枠の柱と割れたガラスしか残っていない。
あとは、瓦礫がただ、刺さってそこに居た。
線路に出た。
駅舎は板張りで通り抜けができないようになっている。
電線を支えていた鉄柱は倒れ込み、ホームの屋根に乗りかかっている。
当の電線は大きく撓み、地面すれすれまで下がっていた。
線路は大きく傾いでいた。
海から齎された砂が線路を覆い、枕木を覆っている。
場所によっては緩衝石が流され、コンクリートの枕木だけが浮いている場所もあった。
瓦礫は無いのだろう。
しかし、変形したものは残されている。
5m近くある石巻への道路標識は根元ごと倒れて、道路脇に転がっていた。
街灯は千切れてはいないものの根元が90度に曲がり、ランプ部分は天を仰いでいる。
海岸までは何もなかった。
すでにボランティアと地元住民によって片づけられていたのだ。
しかし、地面には様々なものが埋まっている。
割れた茶碗、砕けたクレヨン、大半が埋まったペットボトル、磁気テープが解けたVHS。
けれども、その地面を支配していたのは海砂だった。
一歩を踏み出す。
砂独特の感触が伝わってくる。
柔らかい。
生活用品に交じって、供えられたであろう花も見受けられる。
枯れたものから、瑞々しいものまで。
遠くで重機に錆びついた音がした。
何もない地面からは遠くの様子もよく見える。
オレンジ色と黄色の重機が音を響かせて瓦礫を撤去していた。
ふと、大きな建物が視界に入った。
学校のようである。
海岸からはかなり近い。
いや、近すぎる。
砂地は所々水を湛えていた。
海の水なのか雨の水なのか判然とはしなかった。
コンクリートの校舎らしきものも、地盤の土が抉られていた。
アスファルトが崩れ、大きな水たまりになっている部分もある。
正面かどうかは解らないが、回り込んでみると大きな時計が付いていた。
ああ、これは学校だ。
教室があるはずの空間は1階の窓ガラスがすべてなくなり、天井からは配線や断熱材がむき出しになっている。
2階の窓ガラスは無事のようだった。
あそこまでは津波が来なかったのか。
2階の空いた窓から、中の黒板がちらりと見えた。
「平成16年度卒業生…」
津波後に書き込まれたものだろう。
この学校は小学校なのか中学校なのか。
今歩いているところは元々グラウンドであろう。
グラウンドには机と椅子が積まれていた。
1クラス分もないような数である。
プールは濁った水が満々と張られていた。
ここは、学校であるのだ。
道が途切れたので、1階は骨組のみに等しい校舎を通り抜けた。
反対側には体育館のような建造物があった。
教科書のようなものが海水でがちがちに乾燥してコンクリート地面に張り付いている。
砂に浸食されていないコンクリートの道を辿ると正門に出た。
正門を出口にしてしまったようだ。
「鳴瀬第二中学校」
ここは中学校であった。
中学校を後にして更地を歩く。
どこまでも砂に侵されている。
ボンネットが剥がれ、タイヤの無い、押しつぶされた軽トラックが道端に転がる。
フェンスは水の流れのように畝ってまま倒れ込んでいた。
墓石は山のように積み重ねられている。
大きな水たまりに傾き始めた西日が移る。
重機が影を濃くしていった。
ガードレールは団子のように折れ曲がり、カーブミラーは砕け散って、支柱は裂けていた。
辛うじて建っている人家は1階が壊滅。
向こうが筒抜けになっているほどである。
ぐるりと一周して野蒜駅前に戻ってきた。
暗くなる前に仙台へ戻ろう。
野蒜駅前に戻ってきたときに、放送が響いた。
「小学生中学生のみなさん、まもなく、午後5時になります。暗くなる前にお家に帰りましょう」
人家も学校もない海岸沿いの町に、放送が響いた。
どこかで声が木霊する。
ここはまだ生きているんだと思った。
全く人気が無いわけではない。
重機を動かす人、家を解体している人、家を直している人、花を手向ける人。
春の西日は柔らかく、曖昧な光を被災地に投げかけていた。
バス停には一人のおじさんが居た。
これでいいんですよね。
おじさんはそう尋ねてきた。
ええ、これで松島海岸まで行きますよ。
そう答えた。
聞けば、この人は海岸沿いを見てきたのだという。
どこから来たかは聞きそびれたが、そういうことなのだろう。
来た道を戻る。
帰りの方が短く感じるのはいつものことだ。
仙台に戻り、ホテルに荷物を置いた。
夕食を食べにホテルをでた。
仙台駅の3階には牛タンストリートなる場所があるという。
「美味しいものを」
N先生のお勧めのおでんではないが、牛タンを食べようと決めた。
勿論、美味しかった。
食べ終えて、店をでた。
土産を物色していたとき。
「おお、揺れている」
同じ土産物屋にいた男性が声を上げた。
「本当だ」
店員が確認する。
確かに揺れていた。
これは長い、そう、思った。
揺れがやめば、宮城県北部震度5弱とある。
震度4くらいを体感したことになる。
久しぶりの地震だった。
関西は驚くほど揺れない。
仙台での地震を体感するとは思わなかったが、遭ってしまったのだ。
その日は歩き疲れたので、すぐに寝た。
帰ったら日記を書こうと思って寝た。
海砂に傾いだ線路春茜 / 京極堂