邪馬台国が日本にあった。
と、いう説に憂生は納得できないのです。
卑弥呼が献上品をもっていった、(相手の国、うろおぼえー最近これ多くてすみません)
この献上品の中に、けんという越前の羽二重をほうふつさせるものがあります。
このあたりが、ちょっと、別の解釈が必要かとおもうのですが、
この時代以前に、倭には、いくつかの村がありという記述がある史書があるわけです。
これを考えても、
航路でいくにち、徒歩で幾日、また航路で幾日・・などと書く必要があるでしょうか?
倭の国とかくだけで、位置が特定できると思うのですが・・。
アメリカという国がどこにあるか、わからなければ
東にむけて**日、船を進めたら・・と、いう言い方になるとおもうのですが、
判っていれば、アメリカに行く。で、すみます。
実に単純な考えですが、
すでに、倭の国の存在がわかっていて、
目と鼻の先にあるような位置関係で、
わざわざ、どれだけ離れているかを記述するものだろうか?
こう、考えると、
卑弥呼がいた邪馬台国は、
環太平洋とか、インド近辺とかになってくると思うわけです。
そして、細かい記述をよんでいないので、なんですが
日本人、倭の国のものとよく似た肌や装束だったと考えられるわけです。
極端ですが、白人がきたら、
金色の髪で、青い瞳で、と、違和について、書くでしょう。
そして、環太平洋?から、海流にのって、
あちこちの国にたちより、珍しいものと交換して、
献上品にした。
もしかして、航海中に風雨にさらされて、
献上品をなくしたので、
倭の国から調達したとかwwww
あと、不思議なのが徒歩で歩いてまた、船にのるという記述ですね。
ぬながわひめをかいていて、
にぎはやひが(これは、さる文献ににぎはやひが、国譲りの場所にかけつけたという、記述をみつけたので、それを利用しています)
船を糸魚川におくわけです。
で、奴奈川にたどりつく。
今度は大和にかえれといわれる。
陸路もありますが、
船も糸魚川にあります。
さて、船で大和まで帰る・・・。
ここで、かんがえてしまうのが、
じゃあ、逆に、大和からどうやってでてきたのかということです。
どこから、船にのったか。
神武天皇は、兵庫県の弥美浜で船をつくらせています。
たとえば、にぎはやひも、摂津とかで、船をつくらせて
そこらを出発地にする。
大和、奈良を本拠地にした場合船にのりにいくのに、
徒歩5日。糸魚川まで仮に7日。そこから奴奈川まで、4日
糸魚川まで仮に7日。そこから奴奈川まで、4日。
これを邪馬台国ルートで考えると
奴奈川から(地理的には不可能ですが)また船にのる。
通常、船をそこらにおきすてていくわけにいきません。
これが、可能なのは、その島?いったいを統治している必要があるとおもうわけです。
これならば
奴奈川でなく、山越えして千葉まで抜けたとします。
そこで、また、船を調達できるということです。
千葉からまた、船にのって、北海道にいく。
ここが、邪馬台国の首都?ということになるわけで、
こういう島のような格好のところか、
かなりの場所を統治していたということになるのですが、
インド近辺も交易があったとおもわれるので、
やはり、環太平洋か、逆にマヤあたりwww
と、おもってしまうのです。