日本語の問題なのだろうが、つまり「溢れている」をどうとるとかで、まったくウソがマコトにひっくりかえる場合がある。

街は人で溢れている。

大変な人出で、混雑している。賑わっている、と解釈しても間違いないだろう。

本が部屋に溢れている。

これは困ったことになる。きちんと整理して必要なときに、読みたい本をさっと見つけ出して手にできるように整理しておくべきだ。

ここで「情報量」と言ってみよう。話を簡単にするために本の冊数ということにしておく(実はここにすでに情報量とは何かというトリックがあるはずなのだが)。

溢れていても整理されていても、同じ人物の同じ部屋の同じ蔵書であるかぎり、まず本の冊数は同じである。当たり前だ。

では、溢れているときと、整理されているときとで、情報量に違いはあるのか?

これが問題。

でたらめさ加減、乱雑さ加減をエントロピーの概念になぞらえると、乱雑さがひどいほどエントロピーは増大していることになる。乱雑さが減れば、エントロピーは減っていることになる。

では乱雑な情報、そうでない情報というものを考えることができるだろうか。

そもそも情報informationというかぎり、それは片づいているからこそ情報ではないのか。

情報そのものに、乱雑度があっては定義上、まずいのではないか。そういう考え方もあるだろう。

シャノンは「ノイズ」と「情報」という図式を立てた。

エントロピーは熱力学の概念だが、エントロピーいっぱいになった状態「熱死」は、ノイズだけの状態に比定できるとする。

「熱死」とは熱が死ぬことである。

つまり温度差がなくなることである。

情報は溢れることでノイズいっぱい状態に近づくとすれば、どうだろう。

部屋に溢れている本は、どんなに濃い内容を持つ本であっても、ゴミ同然とすれば、それはもはやノイズである。

しかしそうなる前に、本を救い出すものも、また情報である とすればどうか。

その救い出す情報がない、少ない、足りない。ゆえにその「情報は溢れていない」。

溢れているなんてウソだ。

溢れている、すなわち整理するすべもなく立ち往生するほど手のつけようがないという意味では、溢れていると言っていいだろう。

だが、ありあまるほど在りすぎて、もう十分といった意味で言っているとすれば、それはウソである。

山口浩氏にお約束したことを果たそうとする、これはそのウォーミングアップである。

情報の対称性という概念を使えるゲーム理論で、フレームをこさえないことには、おそらく、こっちが溢れてしまうのだろう。

清水 博
生命を捉えなおす―生きている状態とは何か