奈良・鳥見山は初代天皇である神武天皇が、
即位後みずから皇祖天神をまつった地とされます。

明治時代までは能登宮と呼ばれていた。

奈良県桜井市桜井1176

等彌神社 - Wikipedia 

 

桃神社 - 祭神:意富加牟豆美命

 

 

神武の正体が見えてきた。。。

 

メスリ山古墳 - 検索 (bing.com)

 

メスリ山古墳 - Wikipedia

 

 

小学生低学年の頃

 

ひぶんのたにのみたにに住む私は

 

モリヤの郷土資料館に

 

いつも一人で行ってた

 

300円おやつ代をもらって

 

当時トーストとコーヒーがその食堂で食べれて

 

共働きの我が家にとっての安心できる場所であったんだろうか

 

私はいつも一人でそこに行って

 

縄文の暮らしの展示とか資料とか首飾りとかを気が済むまで眺めてた

 

 

なぜ?

 

なぜなんだろうか?

 

誰かに教わったわけでも

 

誰かに奨められたわけでも

 

TVとか何かで見て

 

わあ素敵とか思ったわけでもなく

 

学校の斜め向かいの図書館の横にある郷土資料館に

 

私は何のきっかけで行きだしたんだろう?

 

縄文の竪穴式住居の展示物のにおいまで好きだった

 

首飾りに使うビーズも隅から隅まで見ていた

 

 

 

なぜ?

 

なぜなんだろう?

 

 

 

 

メスリ山古墳
メスリ山古墳 : 奈良・桜井の歴史と社会 (exblog.jp)



磐余の地に接した初瀬川の左岸にあり、
桜井茶臼山古墳(外山(とび)茶臼山古墳ともいう)らと共に
鳥見山古墳群に属する。


規模・埋葬品とも大王墓級だが、

記紀や『延喜式』などに陵墓としての伝承がない。

 

墳丘規模・埴輪の大きさ・埋葬施設

・副葬品収納施設・遺物などを考え合わせると、

 

本古墳は絶大な権勢を誇った首長の墳墓であると考えられる


特徴的なのは、
埋葬施設の副石室が遺品庫の様相を呈していることである。
箸墓古墳の方が、年代的に先行する。

別称は鉢巻山古墳、

東出塚古墳などと呼称される。

 

 

副葬品は奈良県の前期古墳の埋納品の一端がしのばれる。

主石室は、遺体を埋葬し、

玉石製品では翡翠の勾玉、碧玉の管玉、貝輪を真似た石製の腕輪類、

ミニチュア化した石製の椅子、櫛、合子などを納めた。

 

盗掘のため著しい破壊を受け、盗掘の激しさを物語っている。

 

出土した遺物は、内行花文鏡・三角縁神獣鏡の破片、

石釧(いしくろ)・鍬形石・車輪石・椅子形石製品・櫛形石製品、

石製合子(ごうす)などと玉類・刀剣などである。

副石室は、副葬品を納め、212本の茎式鉄矛、

これらの鉄矛は、

約半数ずつ石室の両端に鋒(きつさき)を向け合った形になっていた。

いずれも長柄をつけていたと想像される。

集団戦に用いられる武器である。

 

鉄剣形の槍先にした鉄矛は、

朝鮮半島南部や北九州でも出土していて、当時の武器の中心になっていた。

この武器は日本列島で大流行し、

日本でも鍛造技術が駆使されたことは間違いない。

 

236本の銅鏃、50本の石鏃、鉄弓1本(長さ182センチメートル、弦も鉄製)、

鉄製矢5本(長さ80センチメートル)、漆塗り盾。

 

鉄弓や鉄矢は、実用性ではなく、武器本来の機能である威嚇用である。

木製の弓もあったであろうと思われる。

鉄剣、鉄刀それぞれ1本。

さらに、斧(鉄斧14)、手鎌(19)、鑿、やりがんな(51)、

錐、刀子、鋸などの農耕具。玉状に似た石製品。

 

 

 

おおおおお、、、

東出

 

どうりで東出が気になって気になって仕方がなかったわけだ

 

昔もそんなことがあった

 

名前が気になって気になって仕方がないこと。

 

 

 

昭和34年に奈良県によって発掘された。

所在地は高田のメスリ、

上の宮の東出という事で当時は、東出塚古墳(古墳・桜井市文化叢書)とか、

鉢巻山古墳(葺石の並ぶさま)とも呼ばれていたようであるが、

 

橿原考古学研究所の報告書は

「メスリ山」で出されて、名称が確定する。

 

 

桜井市 - Google マップ

 

 

 

 

 

 

何のことを書きたいのかよくわからない内容ですが、

書きたいことはひとまず脳内に。。。

 

ちょっとぐるぐるしてきちゃったよ。

 

出直します