2021年11月11日(水) 、母は静かに息を引き取りました。


13日(土)に二男の結婚式を控え、様々な準備が必要でした。できれば結婚式が終わって私達が病室に戻るまで頑張っていて欲しかった。でも、母の気遣いか結婚式の2日前に旅立ちました。


その頃になると、血圧や脈も下がり毎日病院から緊急の呼び出しの電話がありました。その度、状態は、落ち着いて家に戻りました。毎日母に話しかけ、顔や手や足を撫でたり脈も弱いながらも確認できました。でも、点滴のせいで身体中浮腫み顔も変わってしまったのが残念でした。意識がない分苦しくはないのが救いでした。


もしも私達が結婚式に行っている間に母が逝ってしまったらと、病棟の看護師さんとも相談し連絡やお迎えは私の従姉妹にお願いしました。同時に、可哀想だけれどセレモニーホールに連絡して前もって打ち合わせをしました。


あの日、私と末娘は不思議な時間を過ごしました。母の旅立ちに着る服を実家に行って用意し、掃除機をかけた後、仏間(母がいつも寝ている部屋)に母がいつも寝ている布団を敷きました。まだ一生懸命頑張っているのに北枕にして布団を敷くのは切なかったです。ごめんね。


それから前日東京から急に帰ってきた二女と、夕方病院に向かいました。二女はおばあちゃんと久しぶりの面会です。病室に入り私は看護師さんにもしもの時の着替えを渡し「最後はどんなふうに逝くのですか?」と聞きました。「おそらく、あっという間です。だから間に合わないことが多いです。私は席を外しますので。」と言って退室されました。その日病室に着いたのは、17時45分くらいだったと思います。


二女と母と私。相変わらず口から入れた呼吸器で、母は命を繋いでいました。「明日は結婚式に行くけど、まだ待っててね。一人で逝かないでね。」と声をかけました。その時は血圧80、脈も60くらいあったと思います。すでに数日、尿も出ず状態は益々悪くなってはいました。それから10分くらいして、あっという間に血圧や脈が下がり始めたのです。


80→65→50→45→25  えっ?、私は取り乱しました。「何?どうしたの?ママ、逝くの?嫌だよ。まだ、いてよ。生きていてよ。お願いだから。」手を握って、最後は母の胸に覆い被さって泣きました。「お別れなんだ。きっとこのタイミングで逝くことを決めたのはママ。」そう思いました。


「ピー」本当にドラマみたいに、大きな音でアラームが鳴りふと見ると、波形は真っ直ぐになっていました。入ってきた看護師さんに「もう・・・」と言うと「お母さん、まだ呼吸してますよ。」「あっ、ホントだ。」(ゴメン!) 手を握って母の顔を見ていると、間もなく母の呼吸がフッと止まりました。それから暖かかった手が、少しずつ冷たくなっていくのを感じました。二女も、父を見送った時のように声をころして泣いていました。母はどこかで全て見ていたんじゃないかな?と思っています。あの時のことは、一生忘れられません。


時計を見ると、18時28分。母は、81年の尊い生涯に幕を閉じました。父の亡き後、悲しみに暮れながらも一生懸命生きていました。残る弟の為に、できるだけの準備をしていました。強く優しく、人と人との繋がりを何よりも大切にする立派な母でした。時には言い合いもしたけれど、母娘として毎日会えて、いっぱい話せて幸せでした。


できれば結婚式に出席して、二男の晴れ姿を見て欲しかった、弟の元気になった姿を見て欲しかったです。看護師さんが仕組んだのかと思うくらい全て整ったタイミングでした。私と母がとても可愛いがっていた二女とで看取ることができ感謝しています。生前、母は父の死を「1週間くらい病院にいて、さよならする時間が欲しかった。」と何度も言っていました。その通りに、母はしてくれました。


その後、弟、主人、叔父、従兄弟が来てくれて、それぞれがお別れをしまし、若い女医さんが死亡確認をしてくださいました。


着替えが済み、最後、ストレッチャーに乗せ地下に降りるまで付き添ってくれた医師は、何と医大病院から移って来た父の主治医でした。「お世話になりました。」と告げると「お母さんが倒れたあの時、いろいろ話し合ったんですが・・・」と申し訳なさそうに言ってくれました。その言葉に、私は救われました。精一杯、母の為に対応してくれたという想いが伝わりました。


「ママ、家に帰ろう!」夜の11時過ぎ、母は大好きな家に帰って来ました。








翌朝私は朝早く起きて、弟が入院している病院に連絡をしました。母がくも膜下出血で倒れた事、9時から主治医の説明があるので弟を同席させたいことを伝え了解をいただきました。弟にも状況を伝えてほしいとお願いしました。


弟の病院は同じ市内にありますが遠くて、空いていても車で30分くらいかかります。朝の通勤ラッシュで、結局往復1時間半近くかかり母の入院している病院には9時半近くに着きました。


弟も少し状況はわかっているようで、神妙な顔をしていました。ICU近くの個室で待っていると、脳外科の主治医が現れました。はじめまして!というべきところ、高校の同級生だったので何とも微妙な感じでした。でもお互い医師と患者の家族という形で、最後まで親身?に対応してくれたと思います。


まず、昨夜の説明から。「入院した時は、グレード3(本当はグレード2)でしたが、その後再出血してグレード5になりました。自発呼吸も一時止まり、とても厳しい状態です。残念ですが手術をしても、「良くて植物状態」。私の家族なら絶対やりませんません。自分がそうなっても、してほしくないです。」と言われました。


私は説明を聞きながらずっと涙が止まりませんでした。一晩で何でこんな状況になってしまったんだろう?一言「手術して欲しかったです。」と言いました。


「急なことでご家族の気持ちの整理もつかないと思うので、できるだけお別れの時間を過ごせるように全力を尽くします。でもまた再出血があるとすぐに亡くなってしまうかもしれないし、数週間かもしれません。あまり長くなってもまたご家族も大変なんですが、それはお母さんの生命力なので自然に命が終わるまで一緒の時間を過ごしてください。会わせてあげたい身内の方は?」と言われました。


その時私は、「母は、もう二度と意識が戻ることはないんだ。」と絶望感でいっぱいなりました。「せめて、最後一人では逝かせたくないです。看取りたい。」悲しい希望を伝えました。


それから母は、ICUで4日間を過ごしました。意識が戻ることのない母を、声をかけてキレイに拭いて人間として最後まで看護してくださいました。口から入れた呼吸器の管は外せず、浮腫んで母の顔ではなくなっていったのが悲しかったです。でもコロナの感染拡大の中、私達家族にも最大限の配慮をしてくださったこと、本当にありがたく思っています。


私も毎日母のところに行き、話しかけながら乾燥しないよう保湿クリームを顔や手や足に塗ってあげました。「なんで急にこんなことになっちゃったんだろうね。よく私に電話してくれたね。もう、戻ってこれないの?パパのところに行くの?もう少し、こっちにいたかったよね。いろいろ大変だったね。もっと優しくしてあげればよかったのに、ゴメンね。もう少し、頑張って!まだ逝かないでね。」声をかけながら母の手の柔らかさ、温かさを覚えておこう。そう思いました。家にいると、毎日のように「心拍が下がってきて危ないかもしれないので来てください。」と病院から連絡がありましたが、よく頑張ってくれました。


叔父や私の子ども達、親戚の極親しい方達にもお別れの時間があり母も嬉しかったかな?そう思いたいです。


5日目から、母は脳外科の一般病棟に移りました。ナースステーションに一番近い個室でした。コロナ禍ということで、制限はありましたが面会もでき孫や曾孫も毎日のように来てくれました。だんだん尿が出なくなり、お別れの時が近づいているように感じました。