2006-02-11

母と娘2

テーマ:昔の話
保育園の卒園式が近づいた頃だった。
当時私が大好きで、毎日くっついて歩いていた先生から聞かれた。

〇ちゃんは、大きくなったら何になるの?

先生はどうも、

保育園の先生になる~

という子供らしい無邪気な答えを期待していたらしい。
私があんまり毎日毎日くっついて歩くので、保育園や先生が大好きなんだと確信していたようだ。

しかし、私の答えは違った。

えーとね、小学校に行って、中学校に行って、高校に行って、それで、大学に行くの!

その時の先生のビックリたまげた顔を、今でも覚えている。

そりゃあそうだろう。
女子の大学進学率が、まだまだ20%を切っていたような時代なんだから(笑)

物心ついた時、保育園に通う頃からすでに、母から子守唄のように言い聞かされていたことがある。

男はバカでも何とかなるけど、女はそれじゃ相手にされない。
同じレベルの男と女が居たら、社会は間違いなく男を取る。
だから女は常に男よりも優秀でなければならない。

激しいでしょ(笑)

第2次大戦が終了した時にまだ小学校の低学年だった私の母は、
戦中・戦後の辛く厳しい時代を、家族全員で力を合わせて乗り越えた。

早く独り立ちしたい、一人前に稼げるようになりたい、それだけを毎日毎日考えていた、らしい。

高校、大学とトップに近い成績で卒業し、ようやく就職してみたら、
あからさまな男女差別を目の当たりにした。

どんなにか悔しかったことだろうと思う。

高校でも大学でも常にバカにし続けてきた男に、
全く能力もないくせに男だというだけで会社の序列に組み込まれていた(by母)上司に、ただ従わなければならなかったのだから。

幼児の頃から、呪文のように「男に負けるな」と叩き込まれてきた娘は、


そんな競争はめんどくさそうだと感じ、


はじめっから不参加を決め込んだ。

いや、計算外だったね。


正直なところ、男を真っ向から目の敵にするような母の戦闘態勢は、激しすぎた。

女である以前に一人の人間でありたかった。

生まれてきてみたら、たまたま性別が女だった、
私にとってはそれくらいの意味しか持ってなかった。


人はともかく、自分が納得のいく生き方ができればそれでいいわ

と、娘はのん気に生きることを望んだ。


ちなみに、この臨戦態勢に一番頻繁に巻き込まれ、とばっちりを食らう被害者は、言うまでもなく私のだ。

しかし私の父もまた母に負けずと劣らぬつわもので、右から左へ聞き流し何も頭に残らない、という必殺技を駆使し、被弾を避けている。
この戦法が、しばしばさらなる怒りを買ってしまうことが、欠点といえば欠点だが。

言われっぱなしで情けない親父だと思っていた時期もあったけれど、
この父が居たおかげで私たち兄妹は、母の怒号にもひるまず、あっけらかんと自分勝手に生きていられるんだなとつくづく思う。


戦中・戦後の混乱期を生き抜いてきて、さらに男女不平等な社会で戦い抜いて来た世代の母は常に、

働け、生活の地盤を、経済的な安定を築け

と、せっつく。

高度経済成長期のお祭り騒ぎの中で育ってきた娘は、
 

まあ、いざとなれば何とかなるでしょう。

と、のんびりぼーっと過ごしている。

生き抜くということに対する危機感が、二つの世代の間で決定的にずれているようだ。



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2006-02-10

母と娘

テーマ:昔の話
実は私、母と一緒に料理を作ったことが無い。

母が普通に働いて我が家では、早く帰ってきた者が夕飯の支度しなくてはならないという鉄則があった。

ものぐさな私は、だからわざと部活だなんだって遅くに家に帰ってきたりしてたんだけど、
試験前1週間や試験期間中は、部活は禁止だったし、
一応は勉強(しているフリ)もしなくてはならない。

小遣いが掛かってたからね。

そうして母よりも早く帰ってくると、
洗濯物を入れ、夕食と翌日の朝食のための買い物に行き、夕食の支度をしなければならなかった。
しなければならなかったけれど、しなかった日も当然ある。
夕食の支度だけはしていたけれど。

おかげでイヤイヤでも家の事をやらされ、ひと通りのことはできるようになったのだから、それはそれで良かったと今では思う。

でも、今でも納得のいかないことがある。

それは、私が台所で家族6人分の夕食を作るために格闘しているところへ母が帰ってきたりするとまもなく、

洗濯物が入れてない
明日の朝食の買い物ができてない etc.

という突っ込みから始まり、
しまいには、


グズ、のろま、あんたのそばにいるとイライラしてくる


という罵倒にまで発展することだった。

私の母は完ぺき主義な人なので、料理が終わったと同時に使った鍋や包丁、まな板などもきれいに洗われて片付いていないと気が済まない性質だ。
当時、家事歴数年、グズでのろまな私にそんなことができるはずもない。

っていうか、

生来怠け者の私は、はなっから彼女の言う「完璧」なんて目指していない。

大体において、頭ごなしに怒鳴られた時点で、反抗心で煮え繰り返っている。

でもさ、せっかく中学生や高校生の娘が主婦の真似事をしようと、彼女の能力の範囲で精一杯頑張っているのに、頭ごなしに否定するかな?

というわけで、何度かの怒鳴り合いを経て、
私が台所で働いている時は、母は帰ってきても手伝わない、ソファで横になって新聞でも読んでやがれっていう暗黙のルールが成立した。

もちろん、母が台所で働いている時に私が居れば、盛り付けだのテーブルのセッティングだの洗い物だのと、私がサポート役をこなすのは言うまでもない。

誤解の無いように書き添えておくけれど、別に虐待されていたわけではない。

母は、きつい人だけど、正義感が強くまっすぐな上に、気が回り頭が回りすぎるために、外に出ると精一杯建前の世界で生きている。
同僚や自分の仕事のために、上司に噛み付いてケンカを売るなんて日常茶飯事だった。
管理職になって現場から離れるよりも、現場で吠えることを選択した人だ。
仕事も家事もちゃちゃっと迅速かつ完璧にこなすことに誇りを持っていた。

しかしその反面、家に帰ってくると、思いっきり本音の世界に生きていた。

彼女は、何もかもが自分の描いた通りに運ばないと気が済まないところがある。
自分が目指す完璧さを、家族の私たちにも当然の如く求めた。
家族が彼女の描く通りに行動しないと、容赦なく追い詰め、頭ごなしに怒鳴り散らし、罵倒した。

そして、それに全く応えることができない

どころか、

応えようという気力もない、マイペースでいい加減な彼女の家族が居た、、、

まったく悲劇としか言い様がない。

いや、喜劇かも。
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2005-07-01

研究室での仕事(?)

テーマ:昔の話
なんだか自分でもよく分からない展開 のうちに、研究室で働くことになった。

語学がだめだから、働きながら言葉を覚えるのが目的あるため、子守り役のGがオフィスに居ることを確認してから出かけていく。

どっちにしても、オフィスのカギはGが持っているので、彼が居なければオフィスに入ることは出来なかった。

午前中は学期休み中に実施される大学の語学講座を取っていたので、
毎日午後になると研究室のオフィスへ行く。

仕事1.インターネットで資料を探す。

辞書で調べても分からない専門用語がたくさんあるので、Gに説明してもらう。
説明してもらっていると、また分からない専門用語や概念にぶつかるので、その説明もしてもらう。
そんな感じで、いつまでもいつまでも教えてもらっていると、気がつけば1時間、2時間が経っている。

仕事2.メールを書いて資料の請求をする。

スタンダードな書き方が分からないので、請求したい内容を書き出して、Gに文章を組み立ててもらう。
一度書いてもらえばそれをもとに内容だけ変えて自分でアレンジできるが、
名詞の性別、定冠詞・不定冠詞、形容詞の末尾変化などがあるので必ず最後にチェックしてもらわなければならない。

仕事3.入手した資料を読む

専門用語や専門概念など、分からないことがあるので、これもまたGに説明してもらう。
以下、1と同じ。

仕事4.収集した情報をレポートに取りまとめる

メールと同じく、書いたものはすべてGにチェックしてもらう。
自分で文章を書くだけの語学力が無かったため、所々でカット&ペーストして体裁を整えようとするが、ズルはもちろんすぐに見破られる。
「ここ、丸写しでしょ?すぐ分かるよ」

その間Gは一応自分の仕事をしたり、自分の卒論を書く準備をしたりしていたんだけど、
私が居る間はほとんど手に付かなかったに違いない。

しかし、どんな時でもGは、イライラすることもなく、私が「分かった」と言うまでは、辛抱強く、時々は下手くそな絵を書きながら丁寧に説明してくれた。

一人じゃ何にもできなくて、まるで赤ちゃんみたいだった。


この頃の私は毎日、崖っぷちに立たされたような気分で、余裕がなかった。
頼る相手はいないし、
「ドイツ語ができない、私には難しすぎる」と弱音を吐くことは自分で許せなかった。
勉強ばかりで時間が無かったのも事実だけど、数少ない友達とも疎遠になっていた。

しかし後には引けない思いだったのは、私だけではなかった。

Gの親友や学友の多くはもう大学を卒業して、別の街へ行ってしまっていた。
ただでさえ寂しいところへ、研究室では新入りで他のメンバーを良く知らない。
しかも、回りは年上の研究者の先輩ばかり。
せっかくチャンスを与えられたのだから、ここで実力を発揮して認めてられて、研究室に残りたい。

孤独な思いと今までにないプレッシャーを与えられて必死だったGと、
劣等感に苛まれ自分の殻に閉じこもり、とにかくマスターコースを必死だった私の
波長が、この時期ピッタリと同調した。
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2005-06-30

研究室で働く

テーマ:昔の話
出会い 編より続く

「ドイツ語の勉強にもなるから、どっかの研究室で働いてみなさい。でも私のところの研究室にはそんな余裕無いから、他に聞いてみてあげるよ」
という 親切な(?)O教授の手回しで、とある研究室に面接に行った私は、
その教授との短いやり取りの中で、煙たがられていることを感じ取ってさらに深く落ち込んでいった。

にも関わらず、その研究室のアシスタントから、
「うちで仕事がしたければもう一度話をしよう」
というメールを受け取り、気が向かないながらもイヤイヤ出かけて行った。

研究室のアシスタントにしてみれば、他の研究室の教授に言われたので仕方なく仕事を与える羽目になったのに違いないから、良い迷惑だっただろう。

研究室の廊下で待たされている時に、一人のドイツ人の若い男の子が話し掛けてきた。
屈託の無い笑顔で私に名前と出身を聞いた彼が、Gだった。
彼は自分が2ヶ月間サマーコースでアメリカを訪れた折に日本人と知り合ったことを語り、その日本人達の名前をあげた。

海外で程度の期間過ごしたことのある人は、一様に外国人に対して親切なものだ。
言葉や文化、習慣の異なる外国での生活を体験してくれば、母国で生活している外国人に興味も湧くし、その大変さが分かるだけに親切にしたくなるのは当然といえば当然なのかもしれない。

彼もそうだった。
人懐っこそうに近づいてきて、色んなことを聞いたりしてくる。

しかし
この時の私は、正直言って彼に対して不信感を抱いていた。
日本人と交流したことがあり、喜んで近づいてくるドイツ人は「日本人マニア」である可能性もある。
それに彼は距離をやたらと詰めて近づいてくるのが、まだまだ純度の高い日本人だった私には不気味だった。

Gはまだ学部に所属する学生だった。
学部といっても、5年は掛かるディプロムで、卒業試験が終わりこれから卒論を書こうという段階にいた。
優秀な彼は、卒業試験の結果で教授達の目に止まった。
すぐにお声が掛かってバイトとして研究室入り、
つまり卒業試験を書かないうちから博士課程進学へのお試し期間ということで、研究室の一室を与えられたのだった。

ずいぶん後になって彼から聞かされたのだが、そのバイトの話の中で、研究室のアシスタントから
「日本人のマスターの学生が居るんだけど、チューターとして面倒みる気はないか?」
と打診され、引き受けたそうである。

とにかく、この日から私とGはこの研究室の一部屋を与えられ、一緒に数時間を過ごすことになった。

私の仕事は、環境に関するNGOのとある分野の活動内容を調べ、比較して、最終的にこの町で似たような活動をしているNGOの代表者にインタビューしてくる、というものだった。

そのためには、インターネットを使って情報を集め、とりまとめ、レポートを作成しなければならない。
しかし、この時の私は、まだドイツ語で書かれた文章を読むだけで息も切れ切れ、概要をまとめて自分で文章を書くなんて、とんでもないことだった。

それでも一生懸命PCに向かってキーボードを叩いていると、私の背中が見えるように置かれている机に向かっているGが素っ頓狂な声を上げた。

すごいな、君は、5本全部の指でキーボードが打てるんだ!

えぇぇぇぇぇぇぇ?今なんて??

私の聞き間違いだろうか、と思いながら彼の手元を見ると、
なんと、Gは両手の人差し指だけでキーボードを打っている

そう言えば、ゲーテ・インスティチュートで出会ったフィリピン人の友達は、Shiftキー以外は右手の人差し指一本で打っていたっけ・・・。
しかし彼女は私よりいくつか年上で、Gは私よりも5歳も年下じゃないか。

ドイツへ来てまだ1年にもなっていないこの頃、まだ「ドイツ男=マッチョー 」論から抜け出せていなかった私の中で、文明開化されていない野蛮なマッチョードイツ男のイメージがさらに輪郭を濃くしていた。
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2005-06-22

O教授の思い出

テーマ:昔の話
Gとの思い出、出会い編 」にも書いたが、
ドイツへ来て半年後にマスターコースに入学してしまった無鉄砲な私は、
毎週新しい講義を受けて金曜日に試験を受けるという勉強漬けの日々に、一学期目が終わる頃には、心身ともに疲れきり、
受けても受けても落ちまくる日々に、精神的にもかなりまいっていた。

たまたま廊下の掲示板で、最後の試験にも落ちたことを確認した直後に、
その講義を担当した研究室の教授と出くわしてしまった。

気まずい思いで挨拶すると、教授の方でもすぐに私が誰だかに気付いたようで、話し掛けてきた。

「あなた、この講義を受けてましたね。試験に不合格だったマスターの学生でしょ?」

「・・・はい。」

「あなたはまだまだ語学を勉強する必要があるようですね。あなたの問題は、語学だけだと思います」

はっきりと指摘されて、私は傷ついた。
泣きたいくらい情けなかった。

************

本当の事なんだから傷ついたって仕方が無いんだけれど、日頃から何度も何度も思い知らされ、悔しさと情けなさに耐えつづけてきた私は、これ以上この教授と話を続けるのが、本当に苦痛だった。

今だから簡単に言えることだが、当時の私は語学が出来ないこと、同じ学期にマスターコースに入った仲間達がどんどん語学を習得し、何とか試験をこなしていく中、自分だけがいくら勉強しても試験をいくつ受けても落ちまくることで、劣等感に打ちひしがれ、すっかり自信を無くし、卑屈になっていた。

誰かに助けを求めることも無く、自分で何とかしようともがき、いくらもがいても前にまったく進めないことでますます殻に閉じこもっていった。

しかし、そういう大変な時だからこそ、問題を抱えた自分の存在を主張し、大声で助けを求め無ければいけないのだ。

日本では、当たり前のように何でも自分でこなしてきたのに、
ドイツへ来て、自分ひとりではどうにも乗り越えられないことがたくさんあるという厳しい現実に次々と直面し、人に頼る、お願いするということを覚えなければならなかった。

***********

適当に話をごまかして立ち去ろうとする私に、教授がしつこく話し掛けてきた。

「学期の休みに入るわけだし、どこかの研究室で仕事をしてみたらどうですか?」

耳を疑った。
講義を聴き取ることさえ満足にできない留学生に、仕事をさせてくれるようなボランティア精神旺盛の研究室があるのだろうか?

私は、かなり動揺して冷静に物事を考える余裕は無かったが、この思いがけない提案に対し心からの感謝して、是非その話を進めてもらうように、息も切れ切れになりながらお願いしたのだった。

この時、うれしさと情けなさとが入り混じって、今にも泣き出しそうな私に、その教授は言った。

Das Leben ist hart, oder?」 人生は厳しいものなんです、そうでしょ?

彼自身の優しさとも厳しさとも取れる、非常に直接的な言葉だが、しっかりと私の中に刻み込まれた。
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2005-06-12

出会い

テーマ:昔の話
私がGと知り合ったのは、私が修士課程に所属していた時だった。
今から約6年前、ドイツへ来て半年後、まだ日常会話しか出来ないくせに、偶然にも修士課程に籍を得、
無鉄砲にも予定外の学生生活を開始してしまった。

ドイツにはもともと修士(マスター)という課程(概念)は無く、外国人や外国で学士(バチェラー)を修了したドイツ人や高等専門学校出身のドイツ人のために新しく導入されたコースで、私が入学した当時はドイツ人学生の間でもその意味合いが把握されていないほどだった。

通常、外国人がドイツで大学や高等専門学校に通うためには、語学試験に合格しなければならない。
ここで言う大学とは、学士(ディプロム)の事であり、博士課程についてはこの限りではない。英語でプロフェッサーとやり取りをして、英語で博士論文を提出することも認められるからだ。
しかし、このマスターコースは、頭に「インターナショナル」という冠を頂いており、「講義は一部英語だし、試験や修士論文は英語も可」ということになっており、そのためにこの語学試験が免除されているのだ。

だからこそ、ドイツへ来て半年、ようやくMittelfstufe1(中級コース1/3)を修了したばかりの私が、
マスターコースのパンフレットさえ満足に理解できない私が、
日本の大学ではちょっと違う分野の学部を専攻していた私が、無謀にも入学してしまったのである。

マスターコースと銘打っているくらいだから、マスターの学生用の講義がある、と私達マスターは皆思っていた。疑う者は一人も居なかった。
だって2名のドイツ人を除いて皆、語学試験に合格できるほどの語学能力が身についていなかったから。
しかし、フタを開けてみるとビックリ、マスター生のための入門オリエンテーションの1週間が終わるとすぐ次の週から、ドイツ人学生が受けている普通の講義を取る日々が待っていた。

ようやく日常会話に困らなくなった程度の外国人が、いきなり大学の講義を聴いたところで理解できるわけも無い。
専門用語は語学学校では教えてくれない。
特に植物の細胞や器官、バクテリアやウィルス、寄生虫などの名前が立て続けに並べ立てられれば、それはドイツ人の学生だって根を上げるような「別の言語」なのだ。
さらに、大学の教授や講師陣は語学学校の先生とは違う。
きちんと文法どおりに話してくれるわけではないし、方言が抜け切らない人だって少なくない。
日本の教授にも居るが、話の途中から思いつくままにどんどん脱線していく教授だっている。
ドイツ人の学生は積極的に質問をし、ディスカッションをするが、そんな事をされたらもう神経が限界だ。

講義はたいていが午前中、9時や時には8時に始まって、13時には終わる。
その時間を講師達は自由に使って、60分か90分くらいごとに休憩を交えながら講義が進んでいく。
その60分間、聞き取れないだけならまだしも、話の内容、テーマさえも分からない、なんてことだってあったくらいだ。

こうして1学期目は、毎日午前中の講義、午後の演習、金曜日は試験という日々が続いた。
毎週のように金曜日に試験があったので、月曜日から木曜日までは毎日夜の10時や11時まで勉強した。
勉強した、というよりも、辞書を引き続けた。
辞書で単語の意味を調べるのに精一杯で、内容を理解するところまでは至らなかった。
だから、毎週のように試験に落ちた。
1学期が終わった時点で集まった単位は本当にわずかだった。
単位がもらえた講義は、レポート提出だけの講義だったと言っても良いくらいだ。

この頃の私は、精神的にかなり参っていた。
日本で大学に通っていた頃は、試験に落ちるなんて有り得なかった。
一夜漬けでもそれなりの成績を取れていたし、それが当たり前だった。
それなのに、勉強しても勉強しても理解できない、試験に落ちる。
「自分がこんなにバカだとは知らなかった」
当時の私を知る友人はいまだに、
「街でたまに見かけると、夢遊病者みたいに無表情でさまよっていて、明日にでも急に日本に帰っちゃうんじゃないかと思った。怖かったよ(笑」
と、その頃の話を持ち出しては笑う。

1学期目が終わる頃、一人の教授と講義室の前でばったりと出くわした。
その教授は、私がつい先日、試験を受けたものの玉砕された講義を担当する研究室の教授だった。
私の成績のあまりのひどさに見かねたその教授が私に話し掛けてきた。

「あなたの問題は語学だ。ドイツ語をもっと勉強しなければいけない。これから学期の休みに入るから、どこかの研究室でアルバイトでもしたらどうだろうか?そうすれば、その研究室の人とも知り合いになれるし、仕事を通じて言葉も覚えられるし、少しでもお金が稼げればあなたのためになると思う。」

願っても無い提案だった。
勉強さえてもらえて、お金がもらえる、そんなことが実際に可能なのかと疑ったくらいだ。
しかしその後にオチはついてくる。

「私の研究室は残念ながら、その余裕は無いけれど、あなたに希望があるならば、そこの研究室と話をして上げよう」

なんだ、たらい回しか。

その教授、本当にある研究室に話を回してくれて、数日後、その別な研究室の教授に会いに行くことになったのだった。

その別の研究室の教授は、見た目は非常に物柔らかで、紳士的で、良い人を絵に描いたような外見だ。
その紳士が、開口一番に言った。

「私の研究室は、文献をたくさん読まなければならないし、研究員同士での意見交換やディスカッションも盛んに行う。そうして一つのプロジェクトを進めて行くから、語学の出来ない外国人学生には、うちで働くのは難しいと思う。」

やっぱりね。
期待はしてなかったけど。

ところが、その後その研究室のアシスタントと教授抜きで話をしていると、
よく分からないうちに、彼の取り計らいでバイトできることになってしまった。
数日後、またしても呼び出しを受けてその研究室に出向く。
研究室の廊下で待っていると、同じくアポがあり、待たされているらしいドイツ人の若い男の子が近づいてきて、人懐っこい笑顔で話し掛けて来た。
それがGだった。
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