小説ってほど長くはありません。
 上げる予定はなかったのですが、一時的に上げます。


 ちなみに、この作品はフィクションであり、実在する、人物・地名・団体とは一切関係ありません!


 ↑重要!!


 まあ、舞台は幕末です。そういうことです。


 絵本のテキストのつもりだったので、さいごは無理にまとめちゃってます。
 そんなんでも良かったら、読んでくださると嬉しいです。


 因みに(二回目)、また直して上げるかもしれません。(結局未完……)


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『梅次郎のこころざし』

 いぬは忠義な生物だという。
 忠義とは、自分のまことの心を信じる者にぜんぶあげてしまうことだ。
「梅次郎はかしこいいぬですね」
 忠義をおしえてくれたひとが梅次郎の頭をなでる。
 ここはお地蔵さまが守ってくださるお寺。
 近くにすむこどもたちとあそぶために、そのひとはよくここに来る。
 そのひともお寺のすぐ近くにすんでいるのだ。
「梅次郎に仲間はいないのですか?」
 忠義はひとりでは役に立てられないという。家族や仲間、自分ではない誰かのために忠義はある。そして、それがあると背中がぴんとして、まっすぐ立っていられるらしい。
 梅次郎はそのひとの目をじいっと見た。
 忠義は目の中に見える。そのひとの目は底の見えない池に似ていた。
「わたしが仲間ですか? よかった! そう思っているのがわたしだけだったらかなしい、と思っていたんです」
 そのひとはたしかに梅次郎の仲間だ。
 そう思ったのは、はじめてあったときで、やっぱりこのお寺だった。

 梅次郎にはまだ名前がなかった。ちいさな梅次郎を見たひとはいぬっこ、なんて呼んだ。
 ぼろっ、としていてみすぼらしいいぬっこは、いつもひとりでうろうろとしていた。
 その日は朝から雨で、夜になるほど強く降った。
 いぬっこは、三日の間なにも食べていなかった。
 雨はざんざん叩きつけるようで、いぬっこはもう立ってはいられない。
 屋根のあるところへ。
 いぬっこがとび込んだのは、お地蔵さまのお寺。その中のちいさなお堂の屋根の下だった。

ざんざん ざんざん

 まるたけえびすに おしおいけ

 雨の音にまじって、ちいさな声が聞こえた。

 あねさんろっかく たこにしき

 だんだん声は大きくなる。それはこどもがよく歌っているてまり唄だ。
 その歌がぴたりと止まる。そして、いぬっこの目の前に大きなおとなの足があらわれる。
「おや、せんきゃくが」
 門は閉まっているのに、そのひともこっそりとここへ来たようだ。
「となり、いいですか?」
 そのひとはいぬっこの横に座った。そして、大きなため息をつく。
「あのこたちをこわがらせたくはなかったのに。けがをさせるなんて」
 そのひとはとても落ち込んでいるようだった。いぬっこはじっと雨の音を聞いている。
 何かを思い出したように、となりに座る人はふところから紙を取りだした。
 赤や黄、茶色のちいさなおせんべいやお砂糖菓子。
 それがたくさん挟まっている。
「もらいものなんですけど、これはふきよせという、ひがしをあつめたおかしです」
 そのひとは「どうぞ」と言って、いぬっこのまえに紙を広げた。
「それをたべるあいだ、わたしのはなしをきいてくれませんか?」

 そのひとの話には、いぬっこにはわからない言葉がたくさんあった。
ただ、そのひとは、自分の鼻にある痛そうな怪我より大きな傷を持っていて、それがとても痛いと思うことは、もっと痛い思いをしたひとたちに悪いから、その傷を雨で埋めてしまうためにここへ来たのだ。ということは、わかった。

 「はなしをきいてもらえてよかったです。ありがとうございました」
 そのひとは話し終わるとすぐに立ち上がった。
 本当はもっとはやく帰らなければいけなかったのだという。

 ざんざん ざんざん

「そうだ!」
 そのひとは急にいぬっこの方を向いて「おなまえは?」ときいた。
 いぬっこはだまっていた。
「なら、うめじろうとよんでもいいですか?」
 そのひとは地面に枝で梅次郎、と書き、こどものように首をかしげた。
「わんっ」
 いぬっこは一つほえた。
「よかった。このおどうのかみさまは、うめをとてもたいせつになさるんです。きっとうめじろうをまもってくれますよ。じろうはむかしのわたしのなまえなんです。もらってくれますか?」
 梅次郎がまた一つほえると、そのひとは本当に嬉しそうに笑った。
「こんどは、いろいろもってきます」
 そう言って、そのひとは走って去っていった。

 それが、もみじが赤くなりはじめたころ。それから、梅次郎は毎日このお寺に来た。
 次の、次の日。
雨の日に会ったひとは本当にいろいろ持ってやって来た。
お腹を空かせた梅次郎におにぎりを渡して、てぬぐいで汚れた梅次郎のからだをふいてくれた。

 そのひとがお寺に来ると、当たり前のように近所のこどもたちが集まってくる。
 梅次郎もみんなと鬼ごっこやかくれんぼをしてあそんだ。
 こどもたちは梅次郎がどろだらけになっても、なでたり、抱きついたりする。
 みんな、梅次郎の仲間だ。

 ある日、梅次郎はこの辺りで一番大きな川の河原を歩いていた。
 ここには小間物やお団子を売るたくさんのおみせが並んでいる。
 その中のひとつで、お団子を食べているのは名前をくれたあのひとだった。
 近くに行きたい。
 そう思ったけれど、梅次郎はやめた。
 そのひとは腰に刀を差していた。
 あれはひとを傷付ける。あのひとは傷付けることが心から嫌いなようだったのに。どうして持っているのだろう。
 それに、ひとりではないようだった。同じ柄のはおりを着ているひとがとなりに座っている。
 梅次郎は、別のみせをそっとのぞいてみた。
「まあ、かいらしおいぬはんやなあ」
 丁度、みせから出てきたおんなのひとが梅次郎を見て言った。

 おんなのひとは、お春という名前だという。
 お春と梅次郎は川をさがりはじめた。
 お春はひとを探しているらしい。
「おいぬはんはのらやのに、はんなりしとるなあ」
 梅次郎のきれいな毛並みをお春はほめているようだ。
「あんひとに、ちょいとにとるわ」
 お春の探し人は品がなく、せっかちで無鉄砲に見えるが、実は誰よりも遠い先のことをじっくりと考えているらしい。

 ぴーー!

 とつぜん、高い笛の音が響いた。
「そこのもの、てむかいするようならきるぞ!」
 遠くからでも大きな声が聞こえた。
 おとこが四人。ふたりはさっき見たあのそろいのはおりを着て、刀を抜いている。
 他のふたりは棒のような物を持って、はおりのふたりに襲いかかる。
 だんっ!
 襲いかかったひとりが刀で斬られて倒れた。もうひとりは「ひい」と叫んで逃げる。
 はおりのふたりはそのあとを追った。
 ひとが斬られたおとこのまわりに集まる。
「……よかった」
 梅次郎はよくない。あのはおりのふたりは、たしかにお団子を食べていたふたりだったのだ。
「なんちゅうやつや、ておもたろ? ほんでも、きられたんがあんひとやのうてよかったおもうとるのが、うちのほんねえ」
 お春には命と同じくらい大事な秘密があるそうだ。今の世の中、命より大切なものを抱えて、たたかうひとがたくさんいるという。
 あの斬られたおとこはそれを守りきれなかった。斬ったほうは守った。
「たいせつなもんのかたちは、ひとつやない。そやけど、よびかたはひとつ。こころざし、や」
 梅次郎にはよくわからない。けれど、こころざしは忠義によく似ていると思った。
「うちのさがしとるひとな、うめゆうさかい。おったら、うちんとこしらせにきてや」
 梅次郎はちょっとおどろいてお春を見上げた。
 梅の香りがどこからかただよってくる。
 梅は、梅次郎にふしぎな梅の縁を運んできたようだ。

「うめじろう、わたしがひとをきるところ、みていたのでしょう?」
 蝉が鳴きはじめたころ、とつぜん、そのひとはそう言った。
 お地蔵さまのお寺で、名前をくれたひとと梅次郎が並んで座るのはもう何度目だろうか。数えられないほどだ。
「まえに、ちゅうぎのはなしをしましたね。でも、ひとはちゅうぎだけではすぐにしんでしまう、とはいいませんでした」
 信じるものがなくなってしまったとき、忠義だけでは自分もなくなってしまう。
 けれど、決してなくならないものが、本当はあるという。
「それがこころざしです」
「わんっ」
 梅次郎がほえた。
「うめじろうは、しっていましたか」
 そのひとは誇らしそうに笑う。
「さすが、わたしのなづけたうめじろうです!」
 それから、そのひとは立ち上がると、差してもいない刀を、腰からすらりと抜くふりをした。
 その目に見えない刃を梅次郎に向けて見せる。
「わたしはことばではたたかえません。たたかえないと、たいせつなものをまもることもできない。だから、けんをてにとります。それがぶし、といういきものです。ぶしは、ぶしのみちをあるくものです。そのみちのはてに、こころざしはあります。はっきりとしたすがたはみえない、それをまもるために、ぶしはみちをさえぎるものをきりすてます。それがたとえ、じぶんのたいせつなもののひとつだったとしても。ぶしは、こころざしにちゅうぎをつくさなければいけないんです。ぶしとは、こころざしのうつわなのだから」
 梅次郎の目に、あるはずのない刀が見えた。
 そこには、見たことのある底のない池の水面が見える。そのなかで、魚のような影がゆっくりと動いた。
 梅次郎の何倍もある、大きな影だ。
 魚なのかもわからない、あれがこころざしというものなのだろうか。
「あ、おったおった。うめじろうもおる」
 遠くからこどもの声が聞こえた。
「ためぼう!」
 にっこりと笑ってこどもに振っているその手に、もう刀は見えなかった。
「みんないそがしいゆうて、あそんでくれへんから」
 ためぼうの本当の名は為三郎だ。お寺の横に住んでいるから、ここへは他の子よりもよく来る。
「じゃあ、きょうはなにをしましょう――」
 こほっ こほっ ごほっ
 言いかけて、急にせき込む。
「どないしたん? くるしいんか?」
 ばっ、とせきとともに赤いものが飛んだ。
「……それ、ちいやないか?」
 血を吐くのは肺の病だと、誰かが言っていた。それは、ほとんど治ることがない、とも。
 為三郎が人を呼びに行こうとする。
「あのひとたちには……いわないで……」
「せやけど――」
「ためさぶろうっ!」
 どんなときでも笑っているひとが、鬼のような顔で怒鳴るとそれは恐ろしい。
 本当は声を出すのもつらいはずだ。
 為三郎は固まってから、こくりと頷いた。
「ためぼう……かえのきものを、かしてはくれませんか?」
 やっとせきが止まる。為三郎はすっとんで着がえを取りに行った。
 ひゅー、ひゅー、としばらく荒い息が続く。
「……ちゃんとはなしますから。よいやまのひに」
 梅次郎の見て、何を思ったのか、そう言って笑った。
 宵山とは、この辺りでとくに賑やかなお祭りをはじめる準備のためのお祭りだ。
 「ここで」と言ったとき、為三郎が戻ってきた。
 さっと着がえて、ふたりは去っていく。為三郎はずっと泣いていた。
 きっと、重い刀を持つのだってあのひとには大変なのだ。
 それでも、刀を持たない弱いものになって、武士の道を外れることは、あのひとにとって、ふらふらだった梅次郎の何万倍も辛いに違いない。

 宵山の日。梅次郎がお寺の中で座っていると、
「いけだやはんで、おっきなとりものやて」
「またみぶろやろ? あないにやばんなやつら、ろうぜきもんとなんぼもかわらんやないか」
 そんな話声が、祭りのにぎわいの中から聞こえてきた。
 梅次郎はとりものもみぶろもなにかわからない。
 だが、なぜか心がざわざわとした。
 池田屋は店の名前だ。その前を何度か通ったから知っている。
 梅次郎は池田屋に向かって走り出した。

「こらっ、はいってくるなっ」
 池田屋の周りには武器を持ったひとが大勢いた。
 そのひとたちの間を梅次郎は走り抜ける。

「ばかやろー! こんなになるまでなにやってんだよ、おまえは」

 店からそんな怒声が響いてきた。
 姿が見えたわけではない。
 だが、梅次郎には、あのひとの病が知れてはいけないひとに知れたのだとわかった。
 もう、刀は持てないのだろうか。

「わんっ! わんっ!」

 梅次郎が大きく何度もほえた。

「いぬ? なんだっていっぴきでこんなとこを――」
 店の中から驚いたような空気が伝わってきた。
「おろしてください! うめじろうなんです!」

 梅次郎が店の中に飛び込んだ。

「あ! うめじろう! やっぱりうめじろうはちゅうぎものです」

 斬った相手の血と、自分の吐いた血で着物は汚れている。
 倒れて戸板で運ばれるはずが、梅次郎の声で目を覚ましたようだった。

 なでようとしても、手が上がらない。梅次郎がその手に鼻を押し付けると、そのひとは嬉しそうに笑った。

 こころざしとは、なんだろうか。梅次郎には、まだ見つからない。
 今の梅次郎にあるのは、忠義のこころだ。

 けれど、きっと、この世を歩いていれば、こころざしはいずれ見つかるはずだ、と梅次郎は思う。




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 ここまで読んでくださってありがとうございましたm(_ _)m


 いやー、絵本のテキストしばりは、だいぶきついですね。


 実際、絵本じゃないし。


 これはまた、良い用途を考えて消すつもりですが、それまではよろしくお願いします。

放置しすぎな感じなので、ここで春らしい詩でも書こうと……思ったけど、春に留まらない感じになってしまいました。

一応、テーマは「さくら」ってことで。



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『わたしのしらないこと』



――さくらが散るのはどうしてなんですか?



 そう、たずねたら、



――さくらが散るのはかなしいことを一緒に泣いてくれるためです。



 そう、そのひとは足もとの花びらをみつめた。





――さくらが舞うのはどうしてなんですか?



 こう、たずねると、



――さくらが舞うのはうれしいことを一緒に祝ってくれるためです。



 こう、そのひとは空をめぐる花びらを見上げた。





――さくらとはなんですか?



 わたしにはわからないことを、そのひとはたくさん知っている。



――さくらとは、はるですよ。



 やはり知っていた。





――では、なつとはなんですか?



 ――なつとは、流れる水です。



 流れる水とはなんだろうか。



 ――流れる水は、かなしいこともうれしいことも、いちどきにみんなさらっていくのです。





 ――それなら、あきはどうですか?



 ――あきは、赤々と燃えたつ木々です。木々は、さらわれたものの中から根や枝をのばして、燃えたつものをもってもどってくるのです。





 ――あとは、ふゆがのこっています。



 ――ふゆは、ただひたすらに寒いのです。ぜんぶ眠らせてしまうのです。



 それで、おわり。





 ――いいえ、のこっているのはふゆだけじゃあありません。



 はる、なつ、あき、ふゆ……まだなにかあっただろうか。



 ――まだ、はるとなつとあきがのこっています。





 あのひとは、わたしにはみえない遠いとおいところをみている。





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 最近はとうらぶとか描いてます。



 いまつるちゃん↓



 背景はもうどうやって描いたらいいかわからない。こんなに背景描いたのいつ以来だろう。

 ツインテールの日ルルゥ↓



 あたその↓



 色塗るまで頭身がおかしいことに気が付かない不思議。


 そんなこんなで、まあまあ楽しくやってます。

 はい、久々に小説UPします。

 が、なんかもう暗いし、これ……オチ、なの? って感じだし、救いがないと言えば無いような……これを救われたと言ってもいいのか?? って感じの話です。

 ちなみに、ジンクスとか学校の七不思議的な要素あります。
 でも、妖怪ものを期待しないでください。

 あと、病気とかネタにするなんて不謹慎よ! 不愉快極まりないわ! と思われる方もおられるかと思います。
 不謹慎にならないようにしたつもりですが、不安な方はバックしてくださいm(_ _)m


 『不思議の国のアリス』のパスティーシュのつもりで書きましたけど、なんか全然違うものになってしまいました。


 自分には価値がないと思ってる女の子が、ジンクスを頼って自分を変えようとするけど、失敗……するのか、それともこれは成功したと言えるのか……。


 もう書いた本人にもよくわからない変な短編です。


 それでも、宇宙のように広い心で読んでやろう! と言うお優しい方はこの下の本編をどうぞ!


 あと、読み切りで続きはないです。たぶん。まあ、需要もないでしょうから……ハハハ。

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 『アリスの国』


 明日と書いて「アリス」と読む。彼女はこの名前が嫌いだった。最近可哀そうだなんだと言って騒がれる、所謂キラキラネームだと思うからだ。
 実際にからかわれることはなかったが、それは自分が名前というネギを背負ったカモであるのに虐めの標的にする価値さえない人間だからなのだと彼女は知っていた。
 彼女は所謂『屑』なのだから。

 彼女が中学校に上がったばかりの頃によく耳にした噂。入学したてで浮かれている生徒たちの話をそれとなく聞いていただけのことだったが、中学三年になった彼女には何故か魅力的に感じられた。
 無邪気で他愛もない、ころころと姿を変えるよくあるジンクスなのに、決して破綻しないそれは学校の七不思議などというには少し大人びすぎていたのかもしれない。
 いや、大人からすれば馬鹿馬鹿しい子どもの遊びでしかないのだろう。だが、学生たちはジンクスのルールの意味をひとつひとつ、しっかり知っていた。だから、謎に包まれた七不思議を冷やかすような気分で実行する生徒はいなかった。

 ――裏門からぴったり百歩で祠まで行ってお願いをすればお狐様が助けてくれる。

 祠とは、何故か校内に忽然と残されている小さな稲荷社の分社のことだ。裏門と校庭の境に生い茂る木々。その中にひっそりと、静謐な空気を纏いつかせているそれは学校建設などを理由に壊すことなどできなかったのだろう。
 他校にはない、特別なモノ。そこに少し特異なジンクスが生まれることは必然的だと彼女は思う。
 どうしてこの噂を特異と思ったのか、彼女には直感としか言えない。
 強いて言うならば、願い事を『叶える』のではなく、『助ける』というところに明日は縋ってみたくなったのだ。
 彼女が求めているのは、同級生たちの「受験が成功しますように」などという『らしい』願い事の成就ではないからだ。
 ただ、誰かに自分を助けてほしい。
 明確な願い事はまだ決めていない。
 「助けてくれ」は願いではない。「どのように」が願いの核となる部分なのだから。
 明日は「受験が成功しますように」などとは願わない。否、願えない。その水準に達していない。
 それは『馬鹿』や『底辺』ということか。
 それは、違う。
 明日は他人からはそう見えていることを知っている。もしかするとそれは彼女の単なる思い込みかもしれないが、何にせよ彼女は自分のことをそんな風には思っていない。なぜなら、『馬鹿』も『底辺』も努力をする。努力ができなくとも、少なくとも日常から逃げはしない。
 形だけの言葉の中に彼女への負の感情があれば善い方だ。『無』の言葉の割合は日に日に増える。それを感じないほど彼女の心は死んでいない。だが、これも明日の思い込みなのかもしれない。
 なにか原因があってこのような日々を送っているわけではなかった。
 ただただ彼女が怠惰なのであり、そのおかげで他人にとっての自分の価値が消えていっても、それは自分には関わりのないことだと思って、只管何かに熱中することで逃げ廻っていた『ツケ』なのだ。
 だから、彼女は自分のことを『屑』だと思うのだ。
 溜まったツケは、思っていた以上に彼女の酸素を奪っていく。
 熱中という逃げも、はじめから逃げのつもりで動いているわけではない。彼女なりの変化の望みなのだ。そこに酸素はなかったけれど。
 三年になった今、彼女は自分で自分に変化をもたらすことは絶望的だと悟った。
 だから、逃げだとわかっていて『他力本願』を選んだ。
 ジンクスという曖昧模糊としたものに賭けてみた。

 別に霊感があるわけでもないけれど、明日は裏門から一歩踏み出した途端に心がざわついたような気がした。
 一度だけ、他人の心が覗ける人に会ったことがある。その時と同じ、怖れさえ封じ込めてしまう胸の高鳴りを感じた。
 このジンクスのチャンスはたった一回。
 百歩で着くことができなければそれきりなのだ。裏門から祠を直接には目にできない。校庭へ行くには小さな警備管理室の建物を曲がらなければいけないからだ。それでも、たった百歩。いくらでも調整は利くし、目測でなんとでもなる距離だ。
 だから、緊張する必要などない。それでも、気が張り詰める。
 五十歩。
角を曲がって振り返ると、校庭とは真逆にある校舎が見える。もう裏門は見えない。目を前に戻すと、木々の間から祠の土台である石の部分がちらりと見えた。
 何か起こる。きっと、今までとは違う『希望』をあそこで得ることができる。
 そう考え始めると、明日の思考はぐるぐると回転しだした。
 やけに祠が遠く感じられる。そう思って一歩踏み出せば、今度は次の一歩でそこを通り越してしまうような変な不安に襲われる。けれど、決してそんなことは起こらず、一歩ずつ、着実に彼女は祠に近付いている。
 歩きながら、彼女はすでに心中で願っていた。
 ――やる気が起きますように。
 ――違う。そんなのは自分で出せばいいだけのこと。
 ――じゃあ、何を願えば善いんだっけ。
 ――変われますように。
 ――どんなふうに?
 ――普通な子に。
 ――ううん。それは私が面倒がっているだけ。
 ――それなら。
 ――私の願いは――今と正反対の自分になれますように。
 百歩。
 百日参りから取られたであろう百という数字。歩き始めたその時から、助けを求める声を上げてここまで来た。
 目の前の祠の台座に小ぢんまりと座っているなぜか一体だけの狛狐。
 その頭を明日はそうっと撫でる。
 これが願い始めの合図。
「お狐様のお願いと、私のお願い交換しましょ」
 これが助けを求める合言葉。
「お狐様のお願いは油揚げ二枚。私のお願いは――」
 明日が息を吸って胸に手を当てる。鼓動が感じられない。息が苦しい。
「――今の私と正反対の自分になること」
 これが助けを求めるものの願い。
「お狐様のお願いの半分を叶えます」
 明日は買ったばかりの二枚入り油揚げの袋を鞄から取り出し、びりっと音を立てて開けると、これまた買ったばかりの紙皿も取り出してばりばりと包んでいたビニールを裂いて一枚を手に取った。そして、油揚げの一枚をその上に乗せて狛狐の目の前に置いた。
 残りの紙皿を鞄にしまうと、今度は余ったもう一枚の油揚げを摘み上げて自分でもぐもぐと食べてしまう。
「もう半分は私の中です。だからお狐様の中にも私のお願いが半分です」
 強引な祈り方だと思うが、これで助かったという学生の話をいくつも聞いた。
 助かる人間がいるから、祈るための場所があるのだ。明日にはそう思える。
 最後に、ニ礼二拍手一礼を祠に向かって行い、狛狐に向かって三礼して終わりだ。
 そう、これはお稲荷様ではなく、お狐様へのお願いごとなのだ。
 ほっと息を吐いて明日は視線を足元に落とした。自分の影と木の葉の影が重なって、自分に狐の耳が生えているように見えた。
 ――正反対の自分に、なれると善い。本当に。

 その日から、明日の日常は変わった。
 否、本当は元からこうだったのかもしれない。だが、彼女があまりにも自分しか見ていなかったために、気が付かなかったのかもしれない。対等に接する人の声に。優しさに。
 一日一日をとても長く感じるようになった。
 授業もゆっくりと聞こえ、理解できるようになった。積極的に発言もした。
 その度に、教師も他の生徒も彼女を偉いと言った。何度も何度も認めていると言った。君と同じ場所に居るのだと言った。それなのに、彼らは明日の何倍も高いところから明日を見下げていた。それはたまらなく明日を悲しい心持にさせる。
 そして、彼女の影は日に日に大きくなった。常に西日の中にあるように長く、横にも大きくなったそれは、大きな耳と尻尾を持った人の形をしていて、影というには歪だけれど、それは明日の影ではないから、正しい均整の取れた形なのだ。
 影がもう大きくならなくなった頃、今度は髪が伸び始めた。明日のではなく、影の。彼女のボブカットとは似ても似つかぬほどに髪は伸びた。それは陽に透けると月白の色に染まった。きっと白銀色の髪が透けているからなのだろう。
 そして、影の足元まで髪が伸びた頃、季節が移ろい変わって春が終わる頃、明日にふと声が聞こえた。
 ――どこへ……行っても……。
 その声は尻すぼみに消えてしまって、明日にはよく聞き取れなかった。
 明日の声ではない、低い低い、それでいて透き通った声だった。
「今話したのはだれ?」
 ――アリスの目の前には今誰もいないのでしょう?
「なら、お狐様なの?」
 ――そうなるのかなぁ。
「どうして自分でもわからないの?」
 ――おかしいからね。
「何が?」
 ――君も、私も。
 そう言った影の肩が笑うように振るえた。アリスにはあまり意味が分からなかった。
「どうしておかしいのよ」
 少しむっとした。アリスはおかしくなどないのに。たしかにこの影は妙だ。アリスの影なのに、アリスのものではない。
 けれど、それはアリスのせいではないのだから、アリスがおかしい理由にはならないはずだ。
 ――いいや、君はたしかにおかしいよ。だって……いや、それで善いんだ。それが君の望みだったんだから。なにも、おかしいことが悪いこととは一概には言えないでしょう?
 それはそうだ。何かと何かを一つとして考えるためには、たくさんのことを証明しなくてはいけない。アリスには今それができないのだから、一括りにしてしまう発言はできない。
「私の望みって、お願いのこと?」
――そうだね。君のお願いのことだ。お願いは叶ったのかな?
 アリスは口を噤んだ。自分の願いとは、なんだったろうか。
『正反対の自分になること』
 アリスは洗面台の鏡を覗き込んだ。中の自分は笑っている。そんな自分に少し驚いたような表情をして、それをまた面白がるように笑う自分。
「……なれたのかなぁ。正反対の自分に」
 ――それは、アリスにしかわからないことでしょう。
「そうなのかなぁ」
 ――そうとしか考えられないけれど、もし、アリスがそれすらわからないなら……どこに行っても……。
 また、影の言葉は聞き取れなかった。ただ、おかしそうに肩をまた震わせた。けれど、決して笑い声は聞こえない。
「じゃあ、本当に叶ったのだったらお礼を言うことにする。だから、お礼を言うまではここにいてね」
 アリスは何故かぎゅっと拳を握りしめた。
 ――違うよ、アリス。君がここにいるのじゃない。
「なぁにそれ? 私はずっとここにいる。あなたは新参者よ」
 ――そうかなぁ? 私には君が新参者に見えるけれど。
「……変わった私はたしかに新参者かもね」
 ――……なんだ。わかってるんだね、アリス。
「約束は?」
 ――もちろん。君がここにいる限り、私はここにいるに決まっているんだよ。

 彼は約束通りずっとアリスを見ていた。
 彼女は誰よりも彼に褒められたり、励まされたりすることが嬉しかった。
 いくら他の人間に対等だと、認めていると言われても、それはやはり『無』に思えた。

「お狐様は、この影から離れることはできないの?」
 ――できないみたいだね。
「よかった……と言ったら怒るでしょう?」
 ――別に起こる必要ないと思うけどね。
 アリスの目から、何故か涙がこぼれた。涙がこぼれる間、アリスは行方知れずだった。
「夜が来ないのはどうしてかしら。私がおかしいからなんでしょう」
 アリスが言葉を紡いでいる間、アリスは自分が横になっている白いベッドがどこかへと落ちて行っているような気がした。そして、自分はどんどん小さくなっていくのだ。
 ――夜がこないのは悪いことかな。
「寝れないじゃない」
 ――寝てしまえば善いよ。
「起きられないじゃない」
 ――私が起こしてあげるよ。
「泣いてちゃあ、眠れやしないのよ。そんなことも知らないの?」
 ――きっと泣き疲れて寝てしまうから。でもね、アリス。アリスに泣かれるのは哀しいかな。だって、私は何もできはしないから。
「そんなことないでしょう。何かお話でもしてよ」
 ――……じゃあね、アリス。子どもじみたおとぎ話をとってよ。
「そんなの持ってない」
 ――なんでもいいんだよ。アリスの物語は、アリスが一番聞きたい物語だから。
「……なに言ってるのかよくわかんない。でも、寝れそうな気がしてきた。じゃあ、唄でも歌ってよ」
――……幼子にも やさしく語りかけよ 心して幼きものの 愛を得よ おだやかな言葉で そっと教え諭せ 長寿に恵まれるとは 限らぬ子なのだから
「その歌、知ってる気がする」
 ――そうだね。

 その日から、アリスに夜は来なかった。もしかしたら、寝てしまったずっと後に来ているのかもしれないけれど、アリスがそれを彼に問うと、「そうかもしれない」という曖昧な返答しか得られなかった。

 アリスはよく笑うようになった。よく泣くようにもなった。それは、変化だ。

 アリスはもう『馬鹿』だの『底辺』だの『屑』だのなんて考えない。

 彼女の周囲はあまりにも遅く廻るのに、学校はいつも一瞬で終わった。彼女は自分の影と話してばかりになった。

 それがとても楽しくて、とても心地よくて、アリスはもうそれだけで善くなってしまった。

 ――ねえ、アリス。変われたのかな?
「……私は変わったと思う。でも、こうなりたかったわけじゃなかったと思うの。でも、どうなりたかったのか、思い出せないや」
 ――アリスは、正反対の自分になりたいと言っていたでしょう?
「元の私ってなに?」
 ――笑わないアリスだったよ。
「それだけ?」
 ――泣かないアリスだったよ。
「他には?」
 ――アリスはアリスだったよ。
「私もそう思う。正反対の私は、私ではないと思うの」
 ――アリスは、はっきりとものを考えられるようになったね。
「これじゃあ、いつまでも願い事は叶いそうにないよ」
 ――……いいよ。アリスが笑っているのを見るのは好きだから。その笑顔に手を伸ばせないのは淋しいんだけれどね。
「……なんだか、家族みたいなことを言うのね」
 ――アリスには、本当の家族がいるでしょう。
「あんなの、家族じゃない」
 ――そう言ってるアリスは、やっぱりアリスだね。
「……また意味が分からない」
 アリスは少し家族のことを思ってみた。それは、アリスに「死ね」の代わりに使う言葉だと言っていた言葉を投げる人と、何も言わないけれど見捨てていると言ってくる人が笑ったり怒ったりしている映像が頭に流れるだけで、何の感慨も催さなかった。
「家族って、面倒。ここにいなくて善かった」
 ――いないのがアリスのあたりまえなんだね。
「それで、善いと思うんだけど。なんか、やっぱり私、変わってないのかもね」
 ――アリスがそう思うのなら、そうなんだね。

 一日は本当に長い。朝のうちにアリスは眠くなってしまう。寝てしまって、気が付けばまた知らない朝だ。その中で、自分の影は先に動いている。
 一人でなくて、善かった。消えていなくて、善かった。思わず安堵の溜息を漏らすと、影はまた声も立てずに肩だけで笑った。アリスは少し、その笑い方が嫌いだ。

 アリスの話をずっと聞いて、アリスを褒めて、アリスを励ましてくれる。
 アリスが泣いていることを哀しんでくれる。アリスの笑顔を好きだと言ってくれる。
 アリスを肯定してくれる。
 その存在に、アリスは恋をした。

 自分の影に。

 否、それは自分の影であって、そうでない。

 狐に。



 閉鎖病棟だからと言って、面会ができないわけではないのに、まだ中学生の患者の面会には誰も来ない。担当医は年とともに薄まっていくはずの病だから、とりあえず今は閉鎖病棟で様子を見るべきだと言った。出歩くことが難しいほど重度な症状が現れるのはとても珍しい例だから、治療には時間がかかるかもしれない。だが、他人に危害を加えるような病ではないから、友人との面会だってできると言った。
 だが、誰も来ない。
 看護師や医師も、いつしか必要最低限しか訪れなくなってしまった。
 それでも、そこからは絶えず少女の笑い声が聞こえてくる。気を病んでいるとは思えない、明るく闊達な言葉は、誰かと会話しているように聞こえる。
 だが、そこには確かに少女しかいないのだ。
「あの子は、今やっと、自分を取り戻しているんだろう」
 人気のないスタッフステーションで医師がカルテを付けながら呟いた。
「笑った記憶も泣いた記憶もなかったあの子には、必要な病だったのかもしれない」
 カルテを書き終え、パラパラと過去の記録を見直した。そして、一ページ目の裏側に書かれた病名に目を止め、じっと何かを考え込む。
「――不思議の国のアリス症候群……こんな手のかかる病気じゃないと思ってたんだけどな」


 小説の中の人物に由来する症候群名は多い。たとえば偏頭痛性阻血に起因する身体の知覚異常――『不思議の国のアリス症候群』がある。症状が一八六五年に書かれたルイス・キャロルの小説『不思議の国のアリス』に描かれている身体の形や大きさの変動にとても酷似していたためにその名で呼ばれることとなった。ルイス・キャロルも偏頭痛に悩まされていたといわれていることから、彼自身の経験を小説としたとも考えられている。(引用元:Literary neurologic syndromes. Alice in Wonderland、Arch Neurol. 1991 Jun;48)


 ――アリス、どこへ行っても同じじゃないか。君は私で、私は君なのに。夢から覚めない。
 アリスが寝ていても、影は起きている。
 ――私が消えないってことは、アリスの願いが叶えられてないってことなんだよ。いつまでもアリスは悲しむ。私がいる間はずっと悲しむ。
 影はしばらく沈黙した。
 ――だからね、勝手に決めてしまったよ。許さなくていいからね。

 アリスが朝起きると、やはり影は先に動いている。
「どうしていつもそんなに早くに起きてるの?」
 アリスは枕元に飾ってある夏水仙の花瓶を手に取り、水を替えに立ち上がった。
 ――そんなに早くはないと思うよ。
「私はあなたが寝るところを見たことない」
 ――……影が寝るって、おかしくないかな。
「影が寝てたらおかしいけど、お狐様は影なんて表現の範疇からは逸脱してるように思える」
 ――ああ、そう――?
 影の肩がいつもより小刻みに震えている。アリスはまたむっとする。
「何よ。言いたいことがあるの?」
 ――……あるよ。
 アリスはその声がいつもより低く、濁っているような気がして思わず肩をすくめた。
「な、何を言いたいの?」
 ――気づいていないとは言わないと思うけれどね、君はさ……
 影が言葉を一瞬切る。
 ――私でしょ?
 甲高い少女の声。それでいて、少女が発さないような嘲りを含む妙に艶やかな声。
「――誰?」
 アリスが水を入れ替えたばかりの花瓶を取り落した。がしゃんと派手な音を立てて白磁の小振りな花瓶が割れる。
 ――自分の声が分からないとか? 有り得ないわ。
 影の肩が震えて、それに合わせて甲高い嘲笑がアリスの脳裏を何度も打つ。
「やめてよ。冗談はよして。私は化かされないんだからね」
 ――この笑い方嫌いだったんでしょ? 知ってる。自分が生み出したもう一つの人格に恋をしてしまったなんて、こんな愉快な話はないものねぇ。声を出さないで笑うの大変だったんだから。いくら同じ「あなた」と「私」でも、共有してる意識は違うんだもの。でも、あなたは直感でいろいろ感じてたみたいだけど?
「私は、あんたなんて知らない。からかうのも大概に――」
 ――変わりたいって言ったの、アリスよ。新しい人格作って毎日それとお話するのは逃げでしょ? 逃げてたら『屑』になるんじゃなかったっけねぇ?
 アリスが瞠目し、割れた花瓶の破片を拾い上げた。
「――逃げじゃない!」
 影に叩きつけようとして、アリスは寸でのところで思い留まる。
 ――あら、やめちゃうの? 臆病者。
 アリスが破片を握りしめると手から血が流れた。
「臆病よ。怖い。私、少し色々わかってきた」
 ここは白い。どこまでも壁が広がっている。その壁から学友と先生がアリスに向かって手を振った。
「何度も医者に言われてたもの。自覚しないと治らないって」
 ここは、アリスの『病室』だ。
「怖い。私……まだ……」
 アリスが破片を振り上げる。
「まだ……この声が消えたら、戻ってくるんじゃないかとか、思ってるみたい」
 アリスが破片を握りしめる右手の指に力を入れた。冷たい。破片も、指も。その感覚を振りほどくようにアリスは右手にありったけの力を込めて勢いよく咽喉に突き付けた。だが、その重い右手は、咽喉を掻き切る前に止まった。右手の手首を左手が押さえている。
 ――声を潰して、戻ってくるわけ、ないでしょう? この声は君の幻聴なんだから。君が話せなくなったって、君の声を使うことなんて造作もない。
 アリスが破片を取り落す。その瞳から、止めどなく涙が溢れる。
 ――……せっかく、私の上に三番目を用意したのに。でも、これは確かに危ない賭けだったようだ。申し開きのしようがない結果だよ。
「お狐様……じゃ、ないんでしょう?」
 ――……君にはいらない人格だと思うよ。
 アリスが泣きながら、ふふっと笑った。
「思うんだ? 意思があるんだ?」
 ――…………わから……ない、よ。
「無理して高笑いしたんでしょう? ……ほんとはいつも――泣いていたんでしょう?」
 しばらく沈黙が続いた。どんな音もこのときは鳴りを潜めていた。
 ――……そうかもしれないね。
 ぽつりと紡がれた言葉は、根負けしたとでも言うように諦めを滲ませていた。
 アリスは顔をぐしゃぐしゃにしたまま笑う。
「私ね、これは絶対治らないって知ってるの」
 ――……いつか治るはずだよ。
「だって、私の願いは『消滅』だった。自己否定だったから。はじめから、進む方向が間違ってたの。だから……治らない」

 願いを『叶える』のではなく、『助ける』ジンクス。

 いつか、『不思議の国のアリス症候群』が治って、もう一つの人格も消えるのかもしれない。
 そのとき、明日は笑っているはずだ。

 ――私は狐じゃないから、狐よりもっと何が起こるかわからないのかもしれないね。
「もうお狐様って呼べないね」
 ――アリスの好きなように呼べばいいよ。
「……なら、そう、あなたのことは――」
 アリスがベッドサイドのテーブルに落ちた自分の不思議なかたちの耳の影にそっと手を当てた。
「――チェシャ猫さんって呼ぶことにする」

 おかしな時間に寝起きをしていた患者は、いつの間にか規則正しい時間軸に戻っていた。
 けれど、依然独り言とも思えない独り言は続いている。

 この病室の前を通る人は、不思議に思って少し耳を澄ませる。それを見て、ここをよく通る人は笑う。
  ――また『アリスの国』が騒がしいみたいだね。

 『アリスの国』では夏の間中、誰かが持ってきた夏水仙が揺れている。
「チェシャ猫さん、この花言葉知っている?」
 影が首を横に振るように揺れた。
「深い思いやり、快い楽しさ、悲しい思い出」
 アリスがふっと笑みを零す。
「こんなにここにぴったりの花はないでしょう?」
 そして、あともう一つ、アリスの胸にだけ秘められている花言葉。

――『あなたのために何でもします』


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 うあ、暗い……。


 書いた時期が病んでたのもあるし、そうすると、なんか奇想天外な事象に救いを求めちゃうってことあるじゃないですか? あ、ないですか。


 まあ、こんな形の解があっても、それはそれで良いんじゃないですかね?


 そんな、話でした。あと、単純に恋愛書きたかったはずなんですけど、何でですかね。なんか、いつもこう歪んだ恋愛模様になっちゃうんですよね。癖? 癖なのかな?

 こんなよくわからん短編と解説もどきをここまで読んでくださって、ありがとうございましたm(_ _)m

 し、精進します!