うたかた⑨
由美ちゃんが発破をかけに来た。様々矛盾を抱えたわたしに。先生に。”わたし、結婚します”由美ちゃんが言わなければわたしは先生に伝えることすらもままならなかったのかもしれない。伝えようとしていたのに、伝えられない。矛盾。わたしは彼と結婚したいわけじゃない。煎じ詰めればそういうことになる。ただ、そうすることが一番良いのかと思っていただけ。矛盾は自分の中の反する感情が生み出す。そして、先生のあの顔がわたしの想いをさらに加速させた。わたしが結婚すると知った時、瞳に濃く滲んだ驚きと戸惑いの色。先生のそんな顔を見たのは初めてだった。思いがけないことに直面して、わたしは無意識に目を逸らした。”もしかしたら”・・・という思いが胸一杯に溢れた。由美ちゃんが先生の腕に絡みついていることやキスをしようとしていることすら、殆ど気にならないほどに。彼女は、やがて怒り出した。わたしと先生2人に対して怒っていた。そしてこうも言った。”何に保険かけて生きてんのよ!!もう失くすものなんて何もないでしょう!?”その瞬間は彼女に同調していたような気がする。そして突き進んで行こうとも思った。深呼吸をして、今一度、本当に失くすものが何もないのだろうかと、考えてみる。都会のにぎやかな街、お洒落な人々、手に職をつけるために始めた仕事。女友達との会話、友達や彼に見られても恥ずかしくない1LDKの部屋。一つに溶けきれない恋人。わたしが10年を過ごした世界は、確かこんな世界だった気がする。ふと、気づいた。失くすものは、どうやらたくさんあるように思う。それは10年間で築いた数々の、わたしの現実だから。失くしたら困る。だけどそれらと、玉山涼夜という1人の人と比べてしまうと・・・。この10年で得た全ては、瞬間的な幸福だったと知る。波に乗せられるように、気持ちがどこかに向かって流されていく。”どうしてそうやっていつも私の事を茶化すんですか!”教師という大人に対して声を荒らげたのはあの時が初めてだった。わたしは子どもで、生徒で。先生は大人で、先生で。そんなことはじゅうぶん承知した上での告白だった。でも、ひとつの、まっすぐで真剣な気持ちに変わりはなかった。それを”憧れ”なんていう言葉で片付けられたことに絶えられなかった。誤魔化そうとしている先生が許せなかった。嫌いだと言われた方がよっぽどマシだと。拳を握って唇を噛んだ。少しでも気を抜けば涙が溢れてしまいそうだったから。堪える。泣く意味がどこにもなかったから。先生は拳と表情とを交互に見ると、緊張感のなかった声を少しだけ張らせて言った。”10年後、今の俺と同じ年になってもまだ好きだったらそん時はここに戻って来い””・・・そしたら。そしたら先生の奥さんにしてくれるんですか?””具体的なことを言ってるんじゃなくて。お前が大人なったら、俺もちゃんと向き合わなきゃいけないだろ?そういうことだ。ま、その先のことは本当に再会出来たら考えようぜ””わたしは必ず帰って来ますよ・・・。帰って来て先生と新しい関係を築くはずです。だから・・・指切りをして下さい”それが10年前に先生と交わした”約束”だった。「・・・結婚するのか?」この沈黙を打開したのは先生の方だった。悲しみを帯びた声。胸の底の方から感情がどっと湧き上がって来た。この波は心の中の願いから打ち寄せて来るものだ。「・・・分かりません」でも、わたしの答えはそんな頑なまでに曖昧なものだった。どうしてはっきり言えないのか。思考に、言葉に、現実の問題と葛藤とそれから狡さが入り混じっていた。わたしの中に、冷静に考えているわたしもいる。分かっていることは、わたしが先生を求めたら、これまでわたしを取り巻いていた様々なものが大きく変わってしまうということ。秤にかけたものは、ゆらゆらと左右に揺れている。今この目に映る波のように曖昧に。「うたかた」 その⑩へ(チカチカさん)