家で電話が鳴ると「わしや、わしや」とどこにいても飛んで来た。
またベッドで熟睡していても電話が鳴ると即座にベッドの横の電話を取った。
「取られてしもうた」と母。
父の電話は長い。相手からかかって来ていても自分の話したい事を30分くらい話す。あげくの果てに「何のはなしでしたんですか?」
あきれてしまう。
阪神が勝つと必ず田中さんに電話した。父なき今阪神が勝つたびに彼は寂しいだろうなあと思う。
父は晩年おっそろしくたくさんの趣味をもっていた。
俳句だけで8つのグループに属していた。いつも八方美人になっているのを隠していたので、葬式の時それぞれから供花が送られて来たので、きっと棺桶の中でわめいていたろうと思う。
ゴルフもやっていた。飛行機に乗って遠くまで行った。一度ホールインワンをしてお金がかかった。
カラオケもやっていたが、母は、カラオケの音楽が嫌いで、お仲間の人々についても「あの人らガラ悪い」と嫌っていた。
手品は最高だった。
父は手品が下手なのである。でもうちに来るお客には必ず披露する。下手な手品というのは種が見え隠れするので、家族の私たちはハラハラするので心臓に悪い。お客はおかしいのを我慢するので苦しい。
退職後、母と時々海外旅行に行った。私の知る限り、フランス、ドイツ、ノルウェー、スウェーデン、フィンランド、デンマーク、イタリア、クロアチア、スペイン、ポルトガル、ハワイに旅行した。
彼は外国の食べ物はあまり好きでなかったようだ。またあまりどこに行ったか憶えてもいなかったようで、もったいないことこの上なかったのではないか、と思う。
母は北欧へ行った帰り、関空からの車の中で「もうお父さんとはりょこうせえへん。」と断言した。
なんでも荷造り、荷解き、すべて母がしないと行けなかった上、トイレから出て来ない、集合に遅れる、などツアーのお客に迷惑をかけたのだそうだ。
あれ以後、父は海外旅行をする事はなくなった。
父の養母が死んだ。遺産が入った頃、世の中はバブルで土地の値段が急騰。父はにわか成金になった。マンションから一戸建てに引っ越した。
ちょうどその頃仕事をリタイアしたので、家でゴロゴロして太り始めたので、心配した私は公民館とゴルフ教室に電話する。
彼は公民館のクラブ連合会の会長を務めることになった。俳句や謡曲、ゴルフやカラオケや手品など、沢山趣味を持ち、友達も大勢で来た。
彼の人生は、定年してから始まったと言ってもいい。
定年まで、父はひたすら会社で働いた。趣味も持たず(持てず)土日もほとんどなし。朝早くから夜遅くまで、ただただ働いた。
典型的なニッポンの父であった。
娘はいやいやながらピアノのお稽古に励むふりをして、隙を見ては外へ遊びに行った。
ある時タクシーから下車する時、あわてて発車したため片足を引かれてしまった。夜中にERへ。かかとにヒビが入っている事がわかった。でも数日後の父親参観の時は包帯を外して、靴下をはいて靴を履き、小学校へ参観に来てくれた。痛かったろう、と思う。
私が5歳の頃、祖父の会社が倒産した。父は関連会社に就職。そこは松下電器の子会社。電子レンジの営業が彼の仕事になった。
こきつかわれて苦労したようである。
父は私が起きる前に出社、寝た後帰宅、土曜なんてなかったし、日曜日も一日寝ていた。このころから定年になるまで、父の事をよく知らないのである。
ああニッポンの父って、馬車馬のように働かされて大変だ。
父が結婚したのが29歳だから、大学を出てから7年間祖父の商売を手伝っていた。祖父は修行のために名古屋にある会社に研修に行かせる。
親類の家に下宿していた父は、ある日その家の主婦が産気づいて、大騒ぎになって、お手伝いするはめになったらしい。気の弱い父のことだから、あわてふためいたことだろう。
また謡曲と俳句をして、街のマラソン大会に出場して優勝したこともあったとか。父が言うには気づくと前に誰も走っていなかっただけだそうだ。
昭和30年代始めの日本はまだのんびりしていたのである。定年退職するまで、それらの趣味をする余裕は全く無くなってしまうのである。雲舟のリハビリ日記
中学受験のころ、父は能天気な上、人生をエンジョイするタイプだったのでさほど成績は良くなかった。危機感をいだいた養母である大叔母があらゆる手をつくしたので、旧制中学に入ることができた。
あらゆる手、とは
1. 家庭教師を雇った。
2. 教職員に盆暮れの付け届けをかかさなかった。
3. 良く出来る級友を家に招いて、ご馳走を出し、サポートしてもらえるようにはからった。
おかげで父は落第をせず、大学にも入れた。大叔母のおかげである。雲舟のリハビリ日記
雲舟のリハビリ日記
この間亡くなったうちの父は、昭和5年(1930年)長男として大阪、天王寺に生まれた。祖父はお鍋などを扱う金物屋を始めたばかりだった。満州にも事業を拡大していたので、留守がちだったと言う。
祖母は育児を乳母にまかせ、芝居見物をしまくっていたらしい。名古屋出身の彼女には大阪に友達もおらず、孤独だったろう。
父が6歳の時、心臓疾患が原因の脳血栓症で急死。(これは偶然にも父の死因と酷似している。)
名古屋から父方の祖母と叔母がやって来て、阿倍野区で残された父と叔母の養育をする。5年後祖母が死去。その頃から戦争がひどくなって来て、防空壕を作ったり、食料の買い出しに二上山まで自転車で行ったり、大変な少年期を過ごす。雲舟のリハビリ日記
お悔やみ申し上げます。
「お葬式ストーリー」全て読ませてもらいました。。お父様の看病でのりこさんが帰国されたとの事でしたが、こんなにも早く天国に逝かれたとは…

ボストンにいる時、のりこさんが黒人教会へ連れて行ってくれた時、亡くなられた方がいるという話でのりこさんが、
「黒人の人は、天国に逝く事(亡くなる事)に、 Congratulationsと言うんだよ。それは、黒人差別により余りにもこの世の方が地獄だったから、それから解放される喜びで」
と、言葉一つ一つは確かではありませんが、そのような事を話してくれたのを、衝撃的に覚えてます。(間違っていたら修正してください!)

黒人だけでなくても、生きる事は修行の毎日だと思ってます。
お父様は、安らかに苦しみから解放されて穏やかな時を過ごしてるのではないでしょうか。

私も長女で、両親も若くはないので、今から両親の最期を看取る事を時々想像します。その時に、気丈でいられるかとても不安です。。。

まだまだ、経験不足でのりこさんに掛ける言葉は見つかりません。
ただただ、お父様が安らかに穏やかな気持ちで天国にいらっしゃいますように、お祈りしています。