久しぶりに保護観察の話題になるが、1週間ほど保護司は不在にしていた。
61年前に戦死した父親の慰霊に、C島へ行っていたのだ。
保護司は現在の自分や家族関係についてはよく話してくれるが、戦後まもなくのことは、あまり語らない。
一言、「新しいお父さんが来て…」と言うのを、聞いたことがあるだけだ。
継父継母の問題は、家族内部の問題と外部からの目という二重の問題を同時に内包するから厄介だし、価値観が今ほど多様化していない昔では、そのころ少女だった保護司に、外部の目を必要以上に意識させたのかもしれないし、ある種のコンプレックスを抱かせたのかもしれない。
私の父親は終戦時14歳だったが、戦争についてはほとんど何も語らなかった。
学徒動員で軍需工場に駆り出され、威張りくさった下士官に頬を張られたというぐらいだ。
戦後の農地改革も、恨めしかったらしい。
当時の大地主の豪農で、多くの小作人を抱えていたが、農地改革によって所有地は二束三文で買い上げられたのち、小作人に分配され、今度は小作人がそれぞれの地主となった。
その途端、「道で会っても挨拶もしなくなった」ということだ。
戦争についてどういう考えだったのか、私はあまり知らないが、山本五十六は好きだったようだ(ドラマを熱心に見ていた)。
「東条が全部わりいんだよ」と呟いていたことも、そういえばあった。
東京裁判の記録映画を熱心に見ていた。