心ここに在(あ)らざれば、
・視れども見えず、
・聴けども聞こえず、
・食らえども其(そ)の味を知らず。
皆さんはどうでしょう。思い当たる事はありませんか?
私は学生時代の授業中等はこうだった気がします(笑)
だから、何も残っていません。
その程度ならいいのですが、これが、
無気力、無関心になってしうと厄介です。
逆もあります。
無気力、無関心だから心がない状態です。
この世の修行の中で一番の罪は、『無関心』と言います。
『無関心』だから平気で無視する事が出来る。
学校でも、地域社会でも、会社でも、いじめの極致は暴力でも暴言でもなく、『無視』です。
時々報道される老人の孤独死
先日も避難所の仮設住宅であった夫婦の死
地域社会からの孤立が生んだ死ですよね。
「家族が居るでしょう!」って思うのですが、様々な事情があったのでしょうね。
『様々な事情』ってのは、殆どは、人間関係です。お金がない=仕事がないも人間関係が関係してます。
人間関係が修復出来ないのは『許せない事』です。
あいつを許せない
あいつを許せない
あいつを許せない
こう言っていると
表情が固く、体が固く、心も固く、笑顔が消え、恨み、妬みの波動が満ち怒りが溢れます。
これを続けると間違いなく病気になります。
マイナスな思考や否定的な感情は病気になります。
文字通り病は気からです。
何でも、どんな理不尽な事が起きても、許せるようになる事は『修行』なのです。
例えば、『あいつを許せない』と言い、ある特定の人だけを無視する事は、その人を受け入れられない訳です。
その根本は『許してない』からです。
それを許せるようになる事が、修行であり、自分の成長になります。
また、『受け入れられない』『嫌だ』と反応している自分の内なる心。
心の中で反応、反発している部分に、自分自身の問題が隠されています。
自分の心に潜む、毎回反応する部分を見て下さい。
自分のその反応する部分を許してあげないと毎回同じ事で同じ反応して同じ結果になります。
私はそれが解らなかったから、いつも同じ繰り返しをしていました。
あいつを許せないと、外側(=あいつ)に問題をぶつけていました。
だから許せなかったのです。
しかし、この話を聞いてから、『許す』事を覚えました。
酷い目に合いました。詐欺で騙されたり、信頼している人に裏切られたりと。
許せないと思っていました。
しかし、許しました
感情的に許せない場合もありますが、それでも許します。
許せない自分を許します。
それが極意です。