山中さんインタビュー

憧れの山中さんがカッコイイことを言っおられたので、UPします。
『長い年月、顔を見合わせることもないチームですが、その一員になりたい。』
神様の手足口になるとはそういう心構えのことだ。

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、、、
研究というのは、世代を越えて脈々と続いて。あるところで実用化されたり、そこには過去のたくさんの方の血と涙の結晶がずっとある。
僕もそれでいいと思っていた。その脈々と続く一人になりたいと。
100年後に役立ちたい。自分の生きている間は役に立たないかもしれない。
いいじゃないか。すぐに実用化が見えていることじゃなく、今も全然できないようなことを将来できるようにしたい。
長い年月、顔を見合わせることもないチームですが、その一員になりたい。
そういう気持ちで研究していました、、


ノーベル賞の興奮さめやらぬ中、iPS細胞の山中先生が、同じく4年前にノーベル物理学賞を受賞された益川先生と対談されていた。「大発見の思考法」

その中で、感動させられたところを紹介します。


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第三章 考えるとは感動することだ

大学院の入試の面接では、当然薬理学のことをいろいろ質問されるわけですね。私は医学部学生時代にちょっとだけ習った知識を総動員して答えたのですが、すぐにボロが出て追い詰められて。「うわ、これは落ちるな」と思いました。

それで面接の最後に、「先生、僕は薬理のこと何もわかりません。でも、研究したいんです!だから通してください!」と訴えたところ、合格しました。
先日その先生にお会いした時、「あの時、叫ばへんかったら落としてたよ」と言われました(笑)

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信仰も同じだ。「神様、僕は神様のこと何もわかりません。でも、孝行したいんです!だから導いてください!」


ぎりぎりの時に、心からこう叫べるかどうかが、信仰者として立ちあがる出発点になるのだろう。

私たちの5%の責任は、神様に叫び続けることだ。

その祈りが世界を動かす。


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地元が京都なだけに、京都ファーザーズには情がいく。
京都ファーザーズのブログを見ていたら、リンクで京都教会のHPに飛んだ。

京都教区長の説教の内容がコンパクトに本質をまとめていたので、おっと思って載せました。がんばれ京都!ノーベル賞もとったし、京都の時代が来るぞ!
千年の都京都から千年王国の建設だアップ


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1992年4月1日にお父様が日本に来られた折に、み言を語られながら揮毫をされたものがあります。その揮毫が何かと言えば「夢と理念実現」であります。夢の話をされました。その後、お父様は記念植樹として梅の木を植えられたのです。私はアボジが植えた木は梅ではなくて「夢」であると思っています。アボジは夢を植えられたのだと、だから揮毫も夢であったのだと思いました。それでは、アボジが植えた夢の木は誰でしょうか?ここにいる私達であると思います。ここにいる私達は真の父母様の夢の木であります。その夢の木を実らせるために何をどのようにしたら良いかということで、京都の食口の皆様と共に約束する5つの項目を私は持っています。

 1番目、祈る教会を作ることです。信仰者は祈りがあってこそ、自分の心を健康に保つことができますので、一日でも抜けてはいけないことは祈ることではないかと思い、それで祈祷会を充実させていきたいと考えています。

  2番目、動く教会であります。流れていない水は腐りますが、流れている水は腐らないのです。信仰者も動かないと腐ってしまうのです。自分が生きている信仰をする為にも私達は動かなければいけないのであります。どのように動かすかという使命が私にあります。

 3番目、祝福する教会であります。統一教会に何の為に入ったのかと聞かれれば、一言で祝福を受ける為に来た、祝福があるのでここに来た。何のために信仰しているとすれば祝福を連結するためにこの信仰をしているのであります。祝福の権限を持っている方は、唯一のメシヤである真の父母様でしかないのでありますので、真の父母様から受けた祝福を自分のものだけではなく、氏族、国家、世界のものとして連結するために私はこの信仰をしているのであります。

 4番目、二世を考える教会であります。祝福二世であり、信仰二世であり、二世を考えていきたいと思っています。統一教会には5万人の祝福二世がいます。この二世をどうするのか。統一教会の将来はどこにあるのか。二世にあると私は思います。私は二世を考えるにおいて、産んだものだから祝福二世であり食口であるのではなく、外のメンバーを伝道するよりも2倍3倍力を投入していかなければならないのが祝福二世であると思います。その面において一緒に考えていきたいです。

 5番目、み旨と共にする教会であります。み旨と共にすることは、アボジと方向性を合わせることであります。自分なりに頑張った、それが時には問題になることがあります。今どんな信仰をしているのか。アボジが待っているのに、どこへ走っているのか。私達は一緒に考えるべきではないかと思います。


 最後になりますが、今私達はどんな時代に生きているのかとすれば、千年王国を建設しようとしていく時代に生きているのであります。千年の都京都から千年王国の建設の旗を掲げてまいりましょう。


京都教区長 李 炯燮


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9/7~9/9まで、清平に弔問に行かせて頂いた。
忙しい日常の中、お父様が呼んでくださったのだろう。

予定や金銭的な問題で、一時渡韓にとまどったものの、行くと決めれば全部神様と霊界が整えてくださった。本当に感謝であった。

聞けば、ご聖体にお会いできる最後の機会だという。

基元節までに日本にお迎えしようという想いや、基元節には韓国に行ってご父母様にいい報告をしようという想いはよく抱いていたが、まさかご聖体にご挨拶にいくとは微塵も思っていなかった。

ほとんどの食口がそうだろう。。

清平に着いて、初めて見る完成したワールドセンター。
聞くところによると、お父様の聖和の為に造られたそうだ。
屋根が広げた翼に見える。なるほど、霊界に飛んでいくにふさわしい雄々しい建築だ。
左翼と右翼を統合し、頭翼となって世界を霊界を駆け巡る、まさにWORLD CENTERである。

原理講論を手にされたお写真が大きな絵になっている。
写真ではなく、絵なんだ、、とふと思った。

午後は天正宮でご聖体にお会いする予定だが、バスの待ち時間が内外ともに半端じゃない。

バスを待ちながら、目の前のワールドセンターの弔問の列が、階段を越えて、道路にまではみ出しているのが見える。

何時間も待つのも厭わずに弔問に並ぶ食口のお父様を慕う心情もずば抜けているが、お父様は、これだけの人の命を救って来られたんだ、と思うとまさに救い主のご苦労と栄光の両方を目の当たりにしているような気がした。


天正宮に入ったその神々しさといったら、表現のしようがなかった。

純白に輝く建物と、背後の山と庭の木々の緑、頭上に広がる空の青さが、美しい太陽の光を中心に見事な調和を見せてくれていた。

天国とはこのようなところなんだ、と直感的に思った。

霊界がお父様の聖和を祝福し、私たちの参拝をお父様が迎えてくださっているかのような、喜びと恍惚感に満たされながら、天聖宮に入宮した。


階段の下で5列になって、ご聖体の安置されている部屋に入るのを待つ。

涙を流しながら階段を降りて来られる女性もおられる。

自分といったら冷静なもので、天正宮の建物内部の装飾の美しさや雰囲気の神聖さに、ずっと惹きつけられていた。

これほど高貴な建物に住むには、人格的にも高貴でなければならない。そうでなければ逆に居心地が悪いだろう。

柱や床の大理石から、扉に使われている木まで、本当に立派な物が使われいて、一切手抜きがない。

当然といえば当然かもしれないが、この建物の神聖なたたずまい自体が、真のご父母様が本物であることを証明しているような気がした。


そして、荷物を降ろし、靴を脱いで、ご聖体の安置されている部屋に入った。

少し離れたところに横たわったお父様が見える。



小さくなられた。。



あれほどの霊力と眼光を放っておられたお父様はそこにはおられない。

ただ、防腐処理された肉体が横たわっていた。。



そうか、本当に行かれたんだな。と思うと同時に、

あれほどの霊人体が霊界に行かれたことの影響のとてつもない大きさを考えた。


肉体は静かだ。死は肉の眼で見れば、あまりにも明確だ。動かない事実としてそこにあった。


目の前数メートルにまで近づいて対することができた。

近づいた一瞬、涙が出そうになったが、出なかった。

横たわった聖体を目の前にして、私がなぜ、今、ここに、こうして立っているのか、不思議な気持ちになった。

もちろん、考えてもわからない。言葉も出てこない。

祈れといわれても、何も言葉が出て来ない。


昨年おじいちゃんが亡くなった時は、出棺の時、涙が止まらなかった。。家族全員が涙した。

なのに今は、涙すら出ない。

ただ、呆然と立ち尽くすしかなかった。言葉を探したが、どんなふさわしい言葉も見つからなかった。


国進さまが険しく切ない表情でお辞儀をされた。

お辞儀をお返しし、部屋を出た。



階段を降りながら、一緒に入った同じ教会の兄弟とも何も話さなかった。いや、話せなかった。

喪失感とも、申し訳なさともいえない、大きく深い事実を我々は引き受けた、という衝撃が自分たちの小さな心の器を駆け抜けていることを暗黙のうちに共有した。


天正宮の真珠門を出ようとしたとき、ひらひらと何かが舞い降りて、真珠門の柱の下にとまった。


「トノサマバッタだ!」


思わず叫んだ。

何十年振りに見ただろう。力強い後ろ足を曲げながら、若々しい緑色の体が光り輝いていた。


「お父様が来られたね!」


隣の兄弟が笑っていた。



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