ただいま、おかえり

ただいま、おかえり

山田花畑の番外編

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最近、目黒の五歳児の虐待のニュースが話題になっている。

虐待が社会問題となって久しいが、このニュースが引き金となって「ストップ虐待」や「虐待ダメ」などと言われている。

 

痛ましい事件に、多くの人が胸を痛めたことだろう。

特に子育て真っ盛りのお母さん達の心中は痛みに震え上がったことだろう。

 

 

だが、思う。

実際に虐待を受けて生きて来た人たちは、何を感じているだろうと。

 

私は思う。

確かに虐待は社会問題になった。

しかし、虐待の定義を知っている人がどれだけいるだろうか。

 

掃除をしない、足の踏み場のない家で育児をしている親は、

「子供を虐待している」

ということを知っている人がどれだけいるだろう。

 

暴力よりも、ネグレクト(無視)によって受ける心の傷の方が深いことを、どれだけの人が知っているだろうか。

 

そして、私達の誰もが加害者になる可能性を間違いなく持っていることも知るべきだ。

 

目に見える虐待の被害より、人の目に触れにくい、音のしない虐待の方が、はるかに心と体を傷つけることを、、それによって心の闇から解放されず、人として何の喜びを味わうこともなく人生を送っている多くの人がいることを、どれだけの人が知っているだろう。

 

深刻な被害にあっている子供達は、虐待の被害を受けているなどと発信をする力も能力も持たない。

まして、自身が虐待の被害にあっているなど思いもしない。

 

生きていても、死んでいるような人生を送っている人が、とても多くいることを知ってほしいと思う。

虐待を本当に解決したいと思うのなら、虐待の定義を明らかにすることの方が先決と思えてならない。

先日、久しぶりにCちゃんの家にお邪魔した。
最近の様子をいろいろ聞いてみた。
すると、仕事の悩み、不妊の悩み等々幾つかの課題に頭を悩ませていた。

ふむふむ。
しかし、よくよく聞いてみると、まったく違った話題の本質はどれも一緒であることが容易に理解できた。
どの話題も、彼女の存在価値が揺らいでいることへの不安や苛立ちがテーマと思えた。
それは、、かつてCちゃんがお母さんから受けていた虐待の傷と密接に関わっていると確信できた。



ひととおり彼女の話を聞き終え、本質をついてみた。
が、見事にスルーされた。
彼女は、仕事のことと不妊の悩みの根っこが一緒とは絶対に認めない。
そのうちに、私が彼女のお母さんのことを口にした途端、逆上して大粒の涙を流した。
「もうやめてください!あの人は私の中でもう死んでいるんです!あの人のことなんてどうでも良いんです。山田さんは、子供が欲しいのに子供ができない切なさや悲しみを味わったことあるんですか?」

私は C ちゃんと同じ体験はしていない。
しかしながら、あるべきもの、またはあって当たり前のものがない喪失感で、体がえぐられそうな悲しみは、ひどく多く経験している。
そんな話をしてみた。
C ちゃんは、ハッとして落ち着きを取り戻した。
「私、なんでかな、もしかしたらもう子供ができないかもしれないって、思っちゃう。そうしたら、どうしようって、、」
「あ!そうだ!私、いつも失敗した時の母親からの罵倒が嫌だったんだ」
「本当は一番わかって欲しい人に、馬鹿にされるの」
大粒の涙がこぼれた。
私の頬にも涙がこぼれた。
「本当に悲しかった」
「悔しかった。だって、一番わかって欲しいのに。他の人じゃダメなのに」

「他の人じゃダメ」
これ、重要なキーワードだ。
誰でも良いわけではないのだ。

「お母さんは私の失敗を馬鹿にした。そう、私にいつも嫉妬して、成功したら最後、メタメタになるまで叩きのめされた」
そう、Cちゃんがかつて国家試験に合格した時、お母さんは C ちゃんが巣立っていくことに恐怖を感じ、彼女に様々な仕打ちをした。

人には必ず、「あなたじゃなきゃダメな人」がいる。
本来は、お母さんがその代表選手だ。
お母さんに認められ、愛され、そこから得た安心を礎に人の心は成長する。
お母さんに認めて欲しい、愛して欲しい、抱きしめて欲しいのだ。

しかし、C ちゃんのように、本当は一番わかって欲しい人の姿がゆがんでいる場合。
成功体験に乏しく、負と思われる状況から、人生を切り開くことを恐れる傾向がある。

C ちゃんは、気がついた。
そうか、私が前に進めない原因はこれだった。
本当はお母さんじゃなきゃダメだったから、傷ついたんだね。
「そうか、、」そして自分の傷を初めて慈しんで涙を流した。

幸いなことに、彼女には今の彼女の人生に必要な「あなたじゃなきゃダメな人」がいる。
だから、きっと彼女は自分の傷を癒し、幸せを生み出す力を出せると思った。

彼女に伝えた。
「ねえ C ちゃん、お母さんとの関係に深い悲しみを味わってきたからこそ、これから先の人生で、きっと生まれてくるであろうあなたの子と、幸せにならなかったら嘘じゃない?」

C ちゃんは言った。
私絶対に産む!お母さんになる。幸せなお母さんになって、幸せな子供を育てる!

Cちゃんの子は、きっと「あなたじゃなきゃダメ」な素敵なお母さんから溢れる愛情を得て、元気で幸せな人生を送ることだろう。

それから、自分のお母さんが、過去に望ましい姿でなかったとしても、今自分の目の前にある課題の中から、必ず「あなたじゃなきゃダメ」な要素を見つけることができる。
それは、自分をあきらめないことだ。
人は苦しんだ分だけ、幸せになる権利がある。

自分をあきらめない日々の生き方の中に、必ず、チャンスが訪れる。
M子さんは、小学校低学年の時のお母さんとの会話を、思い出した。
まだヨチヨチだった妹は、お金がないという理由で、お母さんの手作りの洋服をいつも着ていた。
多くは淡いピンク色の、女の子らしい色合いだった。

「うーん、お前は色が白いから本当にピンクが似合って可愛いね」
と妹は抱きしめられていた。
M子さんの心の中では、何か炎のようなものが、メラメラと燃え上がって、こんな言葉が出た。
「私もピンクの洋服が欲しい、どうして A 美ばかり可愛がるの?」

「お前は色が黒いから、ピンクは似合わないの!
可愛がって欲しいだって?あんた、憎たらしいでしょ」



他愛もない会話だが、
「あんたは憎たらしい」
この母親の言葉を、何十年も思い出すことができなかった。

憎たらしいと言われた時、M子さんは心の隅っこにある、薄暗い ”ひとりぼっち池” にボチャンと落ちた。

身も、心も凍るような、冷たい池だった。

多分それからだろう。
自分の存在を、誰からも可愛がられないものという大前提のもとに、人生が始まった。


人としての始まりは、大事に抱きしめられ、頬刷りされ、ぬくもりを与えられ、言葉をかけられること。
これは、普通に欲して良いことだ。
しかし、中には味わうことなく大きくなる子もいる。

植物が花を咲かせるに、必須の条件があるように、人にも人として健全に成長するために必須の条件がある。
ここにいても良いと自覚できる、存在の肯定。
生まれてきてよかったと思える、愛情の実感。

この二つがあれば、人は幸せに生きて行ける。

人は、自身の存在を肯定できない時、”ひとりぼっち池” にボチャンと落ちる。
助けを求めても良いのに、落ちたのは自分が悪いとどこかで思う。
心身冷え切っているのに、温かさを求めるのは贅沢だと、自分にムチを打つ。

そして、少し離れたところから自分の惨めな姿を見て、辟易とする。
そんな姿は 2 度と見たくないと思うけれど、何度も見て不幸を確認してしまう。
そして、やっぱり自分は不幸だと、妙な納得をし、自分を諦める。

これが、心を病むプロセスだ。

人と深いつながりを持った経験のない人は、人とつながることにためらいを感じる。
ためらいながらも、本当は繋がってみたい。
繋がって、仲良くなってみたい。

どうせ大事にされない、などと思う必要はない。
正直に試してみれば良い。

はじめの一歩は、池の中で凍りついている自分を、しっかり抱きしめて、温めてみることだ。
親に愛されなかった自分を、誰よりもしっかり愛することに目覚めることだ。
自分に愛情を注いで良いという、自覚に立ってみることだ。

そんな健気な気持ちを、はねのける人などいない。
きっとうまく、繋がってゆけるようになる。

絶対に、自分を諦めちゃダメだ。
ヤキモチと聞くと、よろしくない感情というイメージを持つ日本人が多いのではないだろうか。

しかし、ヤキモチこそ自分の存在に確固たる自覚を持つために欠かせない、正しい気持ちだ。

Aちゃんは、お姫様のように育ったが、二歳半の時に妹が生まれた。
目がクリクリとした愛らしい赤ちゃんだった。



助産院で妹が生まれる瞬間に立ち会ったせいか、あまり違和感なく存在を受け入れたはずだったが、お母さんが妹を愛おしそうに抱っこしている姿に、胸が苦しくなった。
すがるような目でお母さんを見つめると、お母さんは赤ちゃんをおろし、Aちゃんをしっかり抱きしめた。
Aちゃんはお母さんに必死でしがみつき、その暖かさを確認した。

助産院から帰ると、赤ちゃんとの新しい生活が始まった。
安定した大人しい赤ちゃんだったが、数時間に一回はふにゃふにゃ泣き出す。
当たり前だ。

するとお母さんは、赤ちゃんを抱き上げることなく、Aちゃんを抱き寄せた。
しっかりAちゃんを抱きしめたお母さんは言った。
「赤ちゃん泣いちゃったね。どうしたんだろうね。まだ赤ちゃんだから、何にもできなくて泣いているのかな?」
じーっと赤ちゃんを見つめたAちゃんの目には、明らかに何もできない赤ちゃんの姿が映っていた。

赤ちゃんの切なさが伝わったのか、Aちゃんの顔も引きつった。
お母さんはその顔を見ると、Aちゃんに言った。
「一緒に抱っこしてあげようか?」
Aちゃんはお母さんと一緒に赤ちゃんを抱っこした。
お腹が空いている様子だった。

お母さんは言った。
「赤ちゃんはまだ動けないから、自分でご飯が食べられないんだね?かわいそうだね」
Aちゃんがうなづくのを見てから、お母さんは続けて言った。
「じゃあ、おっぱいをあげようか」
お母さんのおっぱいに吸い付く赤ちゃんの姿を見て、Aちゃんは反対側のおっぱいに口を寄せた。

お母さんは、反対側のおっぱいをAちゃんにくわえさせた。

その日から A ちゃんは、赤ちゃんが泣くと、まず一番最初にお母さんに抱きしめてもらえた。
A ちゃんは、赤ちゃんにヤキモチを焼いて駄々をこねることは一度もなかった。
なぜなら、いつも最優先に尊重してもらえたからだ。

よくありがちなのが
「お姉ちゃんになったんだから、我慢しなさい」
これは、一方的な押し付けである。
誰も好きこのんでお姉ちゃんになったわけではない。
赤ちゃんにお母さんを取られるくらいなら、お姉ちゃんになんてなりたくなかったというのが子供の本音だ。
それに気づいてあげないと、子供は傷つき歪むのだ。

お母さんは、赤ちゃんが生まれる前に、看護師の先輩お母さんから貴重なアドバイスをもらっていた。
「赤ちゃんが生まれたらね、お姉ちゃんを最優先で可愛がってあげるのよ。お姉ちゃんに絶対寂しい思いをさせたらダメよ。きっと良い子に育つから」

Aちゃんと赤ちゃんは、とても仲の良い姉妹に成長し、二人ともお互いを思うと、愛おしくて涙が出るほど大好きだとお母さんに言ったという。
お母さんの子育ては成功しているといえよう。

存在が肯定され、心にその愛情を感じたら、人はヤキモチなど焼かないのだ。
ヤキモチとは、自身の存在と愛情が脅かされている時に生まれる感情で、幼少期のトラウマが解決されていないと、いろんな場面で顔を出す。
それは人として当たり前の感情で、自分がここにいることを知ってほしい、愛情で満たされて安心したいという素朴な欲求なのである。

嫌悪感など抱く必要はない。
ヤキモチが自分の中で生まれたら、それは大切な相手が目の前にいるということだ。
嫌悪感を抱くことなく、自身の素直な気持ちを尊重することだ。
そして、しっかりと自分の心の切なさに共感しながら、大切な相手と愛情を育み安定を勝ち取ってほしい。
毒親育ちの F さんが治療に挑み、生きる活力がみなぎり始めてから、数ヶ月が経過した。
仕事は好調。
恋人もできた。

そんなタイミングで、Fさんは大きなプロジェクトの一員となり、多忙な日々を送る様になった。
昼夜逆転の生活から、体内時計を修正し、朝は 5 時から目覚め、エンジンを温めながら、職場に着く頃にはエンジン全開。

そんなタイミングで、プロジェクトは大きな山を迎え、数日、深夜に及ぶ時間との戦いを強いられる。
ミスは許されない。
万全で山に挑んだ。




結果、彼女は自分の持ち場をしっかり守り、役割を果たすことができた。
しかし、彼女は自分の力以上の仕事をしたかもしれなかった。

久しぶりの休暇に体を休めていると、どんどん体が重くなってゆく。
喉がひどく痛んだので、風邪薬を飲んだ。
Fさんは、電話やメールで温かく支えてくれた恋人のことを思った。

毎日自分のことを気にかけ、温かく見守られたことのなかった F さんは、幸せな気持ちになった。
しかし次の瞬間、大きな苦しい気持ちが押し寄せてきた。

ああ、今回のプロジェクトは大変だったな。
擦り切れそうだったな。
そう小さく呟いたら、胸がひどく痛み、嗚咽がこみあげた。

子供の頃から F さんが弱音を吐くことは、禁じられていた。
痛い時も、苦しい時も、小さい頃から、ずっと一人で我慢してきた。
愛情と、優しさに包まれたくて、両親に駆け寄っても、
「お姉ちゃんは我慢しなさい」
と、厳しく叱られ、時には叩かれた。

いつしか F さんは、苦痛を飲み込むようになり、痛みを感じなくなった。
本音を口にすることもしなくなった。
感じて口にしても、両親からの拒絶という、人生最大の苦痛に深く傷つくからだ。

暑い時には「暑い」、悲しい時には「悲しい」と、子供らしく表現する機会をことごとく喪失した。

だから F さんは、人から好感を持たれるであろう言葉を無意識に発するようになり、良い人と印象付ける可能性のある態度を示した。
「良い」という評価のもとでしか、Fさんの存在は認められる機会がなかったのだ。

F さんが治療の中で学んだのは、人間は本来、存在そのものが愛されるべきであると言うことだ。
良い子でなければ愛されない、そんなものは愛情ではない。
テストの点数が悪くても、学校に行きたくなくても、兄弟にやきもちを焼いて、ふくれていても、行動には理由があり、愛情は人として生き抜く活力になると言うことだ。
存在の肯定の上に育まれた愛情こそ、健全に生き抜く力となるのである。
誰に何を思われようと、正直に生きて良いということだ。

毒親育ちは、生育環境の中で、愛情を受けたり実感する機会がほとんどない。
愛情という養分が欠乏している人には、生きること自体が大きなストレスになる。
愛されなかった自分を蘇生させるには、自分で自分を愛する力をつけることだ。
その作業が、治療となる。

F さんは、その日何度か大泣きをした。
そして、生まれて初めて本心から「大変だった」と口にした。
肩の力が抜け、ホッとした。
そしてさらに三日後。
ひどい風邪をこじらせてしまっていたことにも気がついた。
自身の体の悲鳴にも、やっと気がつくことができた。
「無理はしない」と理解したつもりだったが、体はまだまだ実感を伴っていなかった。

もっと、素直に生きれば良い。
もっと自分に、正直に生きれば良いのだ。

自身を人の評価で測る必要はない。
自分の人生を、遠慮して生きる必要もない。

あなたはあたなのまま、そこにいて良いのだ。
十分に愛される価値のある、大切な存在なのだ。