(イエス様誕生物語に追記あり)
前回の説教記事祈りの重さと深さ に登場した本田神父は、カトリック教会フランシスコ会の神父です。
新共同訳聖書の翻訳・編集委員も務められました。
釜ヶ崎とは、大阪市西成区のあいりんと呼ばれる地区の旧来の呼び名だそうです。
あいりん地区とは、wiki
- 釜ケ崎と福音―神は貧しく小さくされた者と共に/岩波書店 http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-354.htm
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この地区には、いわゆる日雇い労働者や路上生活者が多くいらっしゃいます。
本田神父は、そこで労働者の支援活動(こう呼んでいい?)に携わっていらっしゃいます。
神父の活動については、以下に詳しく書かれています。
弱き立場の人々に学ぶ:
釜ヶ崎で福音を生きる:http://ameblo.jp/jamannzu/entry-12069255775.html
神父の行う「労働者ミサ」では、未洗礼の人にも「イエス様の体と血」を表すパンとブドウ酒(ジュース)を与えるそうです。
そういう型破りな行動や独自の聖書解釈について、様々な批判があるのは事実です。
ここではそういう批判の是非には触れずに、私が感銘を受けた点について書きたいと思います。
以下は、著書からの純粋引用ではなく、私の補足を追加しています。
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副題の「小さい者」とは誰でしょうか?
マタイによる福音書 10章
1:イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。
イエス様は弟子たちに、悪霊や病気や患いを治す力を授けました。
5:イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。
失われた羊とは誰のことでしょう?
7:行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。
8:病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。
イエス様が弟子を派遣した目的は、このような者たちを救うことです。つまり、これらの苦しんでいる者、辛いめにあっている者のところへ遣わされたのです。
そうです。失われた羊とは、病人や重い皮膚病に苦しむ人、悪霊に取りつかれた人(マラリヤ等の熱病に冒された人)なのです。
ただで受けたのだから、ただで与えなさい。
霊媒師のように貧しい者たちから金を巻き上げるようなことはしてはならない。
11:町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。
もちろん、ふさわしい人とは「教えを受けるのにふさわしい人」でも「正しい人」でもありません。イエス様の目的である「救い」を受けるのにふさわしい人です。
12:その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。
13:家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。
17:人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。
18:また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。
イエス様は、律法学者やパリサイ人から何度も難癖を付けられ、陥[おとしい]れようとされ、崖から突き落とされかけたこと(ルカ4:29)もあります。弟子たちも同じようなめに合うでしょうと言われています。
そして、最後はこの言葉で結びます。
41はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」
私の弟子である小さな者を大切にしてくれる人こそが、私を遣わした人(神)の報いを受けることができるんだよということです。
なぜ、イエス様の弟子は小さな者なので しょう 。
イエス様の12人の弟子のうち7人は漁師です。漁師は、当時のユダヤ社会では卑しい職業の一つと見なされていました。皆さんもご存知の通り、ユダヤ人は血液の混じった肉や魚を食べることを禁じられていました。「血は神のもの」神の管轄でした。ですから、女性の出産時の大量の出血、それも穢れと見なされた。今では、とんでもない差別ですけれども。ともかく血液にはいっさい、触れてはならない。
釣るか、網で獲るかした魚を、ユダヤの人々に買って食べてもらうためには、漁師たちが腹を裂いて、血抜きをしなきゃならない。一般のユダヤ人たちは、自分は穢れることなく、血抜きされた魚をおいしく食べるわけです。穢れを担うのは、みんな漁師さんたちというわけです。そのために漁師は「罪人」と見なされていました。
漁師以外の弟子たちも似たりよったりです。徴税人もいたし、過激派(熱心党員)もいました。
動物の血に触れずに皮をなめすことはできません。パウロはなめした皮を扱うテント職人でしたから、漁師と同じく「罪人」とみなされていました。(イエス様の直弟子ではありませんが)
つまり、イエス様の弟子たちは、罪人でありユダヤの人々から蔑まされる小さな者なのです。
イエス様がその小さな弟子たちに約束するのは、社会的弱者であるお前たちを受け入れることは、私を受け入れることなのだ。私を受け入れるということは、天の御父を受け入れるのと同じだ、ということです。そして、さらに、派遣された、貧しく小さくされ、社会からは軽んじられている弟子たち、彼らこそ預言者なのであり、その彼らを、「あ、この人たちが預言のパワーを持っているんだ」と心底、信頼して受け入れる人は、その預言者と同じむくいをいただける。そして、「この小さくされた者の一人を、わたしの弟子とみとめて、よく冷やした水一杯でも差しだす人は、わたしの弟子であるその小さくされた者と同じむくいを受ける」と言われるのです。
イエス様は、小さくされたものを選ばれ、人々に遣わしたのです。
そして、本田神父の「小さな者」は、イエス様に及びます。
イエス様自身が、「小さくされたもの」であった。
罪を背負わされ、汚れていると蔑まれた人であったと語るのです。
その母は律法に背いて妊娠した女、つまり罪人とみなされたマリアであるし、マリアを受け入れたヨセフも同類とされ、家族ぐるみで底辺に立たされていたのです。
イエス誕生の物語はそのことをよく表しています。
イエスの誕生が近づいた寒い季節、ヨセフはマリアを連れて生まれ故郷のベツレヘムへ行きます。当然その小さなダビデの村にはヨセフの実家や親類宅があったはずです。しかし、臨月の腹を抱えたマリアを連れているにも関わらず家族縁者から拒絶されたのです。当時の民族はとりわけ自分の家族や親族を大切にしていました。その文化の中では考えられない仕打ちです。これは、マリアのお腹にいるのはヨセフの子ではないことが知れ渡っていたとしか考えられません。
その醜聞は小さな村にも広まっていたのでしょう。宿屋からも断られてしまい、しかたなく家畜小屋で出産したのです。
満天の星空の下、祝福の元にお生まれになったのではないのです。
マタイ 13章
54:(イエスは)故郷にお帰りになった。会堂で教えておられると、人々は驚いて言った。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。
55:この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。
56:姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう」
ここは、人々がイエス様の能力に驚いたといっているわけではありません。
それは、この続きでわかります。
57:このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言い、人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。
(ヨハネ4:44 イエスは自ら、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」とはっきり言われたことがある)
イエス様は、故郷の人たちに「大工の息子であり、母親はあのふしだらなマリアだぜ」と蔑まれたのです。だから、失意のうちにそこを去られたのです。
ここからも、イエス様自身が小さくされた者であることがわかります。
さらに、本田神父は神様の視座についても、塵と芥の溜まる低みにあるのだといわれます。
上から見下ろすのではなく、底辺から人を包み込んでいらっしゃる。聖書にはっきりと書かれているということです。(神の視座については私の理解を超えているので触れません)
表紙に書かれた絵をよく見てください。
F・アイヘンバーグという画家の作品だそうです。
ニューヨークの炊き出しの風景を公園の片隅で眺めていて、ふと自分自身に問いかけたところから描かれています。真ん中に描かれているのはイエス様です。
アイヘンバーグさんは、教会員がボランティアで行う炊き出しの援助をもらう列にキリストが並ぶ様子を描いているのです。
「この絵はおかしい。キリストは、多くの病人や死人を癒した奇跡を行われた方であり、こんな施しを受ける弱い立場であるはずがない。サービスを与える側であり、サービスを受ける側であろうはずがない」と思っていませんか?
私も聖書の福音書から、イエス様はとことん弱い人の側におられた、小さい人に寄り添われた方であるというメッセージを酌み取ったので、イエス様に対するヒーロー的な扱いに違和感を感じていました。
小さくされたイエス様が、小さくされた弟子たちや、(信仰者でもない)小さくされた者と共に歩かれた。
福音書記者が聖書に「神が天から御子を遣わされた」と、イエス様を高める言葉を散りばめようとも、イエス様が生きた真実はしっかり聖書に残されていると感じました。
ものみの塔のイエス様はこんな感じです。
なんてこった、という感じですね。
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JWの「失われた羊」解釈について。
会衆を離れた人のことを,戻る見込みのない人と見るのではなく,「失われた羊」と見るべきです。(塔14 12/15 11-15ページ)
などと、とにかく組織拡大論に繋ぎます。
イエス様の言葉を人集めの文句に使って、恥ずかしくないのでしょうか?
アイヘンバーグさんも本田神父も、「キリストはそういう献身的なはたらきを受けなければならない、そういう立場の人たちの側におられる」と、小さな者たちの現実を見、その現実から聖書をひもとき同じ認識に至ったのです。