今月の初め、おじが亡くなった。
大正生まれの90才、大往生と言える。
2年ほど前から胃癌を患っていたらしかったが、つい最近までさしたる症状も出なかったようだ。
最期は眠るように死んでいったようで、事実、最初は眠っているだけだと思われていたようだ。
それほど穏やかな最期だった。
この年にして、頭の方はしっかりしていて、自分の死期もしっかり認識していたようだ。
亡くなる一週間前、弟であるもう一人のおじが見舞いに訪ねた際、
「今までありがとうな。もういいでしょ。」と言っていたそうな。
なんと潔い死期の迎え方だろうか。充実した人生だった証と言えるだろう。
私もこういう最期を迎えたいと、素直に思う。
おじは幼い頃、髄膜炎だったと記憶しているが、大病を患い、足に後遺症を残し、常にビッコをひいて歩いていた。
そんなおじの欠かせないパートナーだったのが、車だ。
歩行困難なおじにとって、どこにでも行けるまさに「足」代わりだったのだ。
運転が危なくなる年齢になり、娘たちに運転を止めるよう説得された時でも、
ふだんは聞き分けのいいおじが、この時ばかり涙ながらに抵抗したそうだ。
「車は俺の人生そのものだ。それを取り上げないでくれ。」
クラウンだったか、いつもピカピカだった高級車を誇らしげに乗っていた姿を思い出す。
そう、おじはこんな高級車を乗り回せるほど、事業にも成功していた。
学業も優秀で、学生時代は校内一の秀才だったそうだ。
卒業後は洋裁を学び、洋服店を開業した。
私が最初に着たスーツはおじの仕立てだったが、その時のおじはまさにプロの職人だったと記憶する。
少しずつ店を大きくしながら、4人の娘を育てた。
この娘たちも優秀で、いずれも学校の教員となった。
ハンデを抱えながらも、負けん気と努力で、充実した人生を勝ち取っていったということだろう。
車と洋服店がおじの人生を象徴していた。
そのことは、葬儀の際、参列席の後方に並べられた思い出写真に物語られていた。
店が拡張、リニューアルされるごとに撮られた家族写真には、必ずその時乗っていたマイカーがその中央に写っていた。
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葬儀と言えば、通夜の際、住職の話がひどかった。
真言宗独特のお経が終わり、おもむろにマイクを握った。
「ちょっと長くなりそうだな。」参列者の誰もが思ったことだろう。
最初の滑り出しは、滑らかな口調で、「この人、元落ち研かな。」と思うぐらい、流暢な感じがした。
ところが、どうも戒名について話をしているようなのだが、何を伝えたいのかが皆目わからない。
自分が付けた戒名の意味を説明しているのだが、どこを強調したいのか、ポイントが定まっていない。
「だから何!?」という感じになる。
そのうち、参列席から「話が長いな。」という声が思わず洩れる始末。しかも、親族席に近い席から。
確実に住職の耳にも届いていたはずだ。
それでも、話は止まず、それからしばらく続いた。意地になっていたのかもしれない。
徐々に戒名の話から外れていき、最後はありきたりの締め言葉で、無理やり締めた感じだった。
まとめも落ちもない。いったい何を話したかったのだろう。気持ちにもやもやしたものが残った。
だいたい、戒名の話をするのに、どんな戒名をつけたのかをまず言ってもらわないと、
いきなり「『硯』という字は、」みたいなことを言われても、話が頭に入ってこないではないか。
「おまえがつけた戒名をみんな知っていると思うなよ!!」思わずそう思ってしまう。
本人は心に残る話をしているつもりだろうが、なんとも独り善がりな話しっぷりだった。
その翌日、告別式、火葬と一通り終え、ほっとしながら精進落としにまで漕ぎ着けた。
献杯の挨拶は、始めに紹介した最後のあの言葉を聴いたもう一人のおじが指名された。
そのおじは、その献杯に先立ち、亡くなったおじ、彼にとっては「兄について少しばかり話したい」と、おもむろに原稿用紙を取り出した。
一日の行事を終え、皆が疲れている時でもある。長い話になりそうだと嫌な空気も流れたように思えた。
中には、前日の住職の話と重ねた人もいたかもしれない。
しかし、思いのほか、その話は素晴らしいものだった。
出だし、「兄の生涯について話したい。」と切り出した。
続いて、「兄の人生は『気概』というものだった。」とやった。
それから、先述した障害を負った時の話、学生時代の話、洋服店を開業した時の話、洋服店を閉める時の話など、
人生の主なトピックスを時系列に順を追って、しかも「気概」という観点から紹介していった。
決して、流暢とは言えない話ぶり。原稿用紙を読んでいたのだから仕方もない。途中、詰まる所も何度もあった。
しかし、その詰まった時もイライラすることもなく、全員が次の言葉を静かに待っていたように思えた。
その内容、つまりおじの生涯も感慨深かったが、仕事柄かどうしてもそういう見方をしてしまうのだが、
私が一番素晴らしいと感じたのは、その話の進め方だった。
要は、いかに聞き手に聞く耳を持たせるかということなのだろうと思う。
おじは、まず何を話したいかを切り出した。そこで、聞き手は何を聴けばいいのかを理解できる。
この点では、先の住職と同じであり、当たり前のようだが、このことも非常に重要なことである。
たまに、何を話すかを言わないで、話し始める人がいる。
話術に長けている人は、それでも逆に人を惹きつけられるおもしろい話になるが、
そうでない人の場合は、最後の方になって、「あぁ、これを言いたかったのか」となり、話の大半を聞き洩らすという残念なことになりかねない。
中には、話し手自身が話を見失ってしまうというような、目も当てられないこともある。
おじの話の最も素晴らしい点は、次に「気概」というテーマを掲げたことだ。
「気概」というテーマに絞り込んだことで、さらに聞き手が何を聴けばいいか明確になった。
しかも、この「気概」という言葉のチョイスがいい。
誰もが聞いたことのある言葉で、だいたいの意味はわかるが、抽象的で曖昧な面があり、具体的にはイメージしにくい。
そして、ちょっと古臭く、懐かしさすら感じる言葉だ。
その言葉のチョイスにより、「どんなことを話すのだろう。」「何をもって、気概というのだろう。」と、聞き手の興味を引き出すことに成功することになる。
そして、時系列に並べられた逸話により、その気概の意味、おじが気概というワードを選択した意味、思いが徐々に明確になっていく。
しかも、これはたぶん本人も意図してはいなかっただろうが、葬儀場でみんなが見たあの写真と逸話が丁度よく重なっていたので、より鮮明にイメージすることができた。
当時出始めのスクーターというものに、先駆け的にチャレンジした時の話、洋品店を開業する時までの苦労、車の免許を取得した時の話。
障害を抱えているため、最初は拒まれたが、それでも諦めず懇願し、ついには教習所所長の心を動かし、その所長自らが直接指導してくれ、おじもその熱心な指導に応え、見事に免許取得した。
こんな一つ一つの逸話が、一枚一枚の写真と重ね合わさり、ドラマが出来、おじの気概を、人生を明らかにしていった。
話が終わった時、すとんと腑に落ちるというような、清々しい感覚になっていた。「なるほど、おじさんの人生は気概だったよね。」
この話というより、一連の葬儀が納得して終わりが迎えられた気がした。いや、もっと言えば、おじの人生自体も総括できて、しっくりと終わりにすることができたのかもしれない。
時々、話が詰まるたどたどしい話ぶりではあったが、その詰まることすら、いいリズムのように思えたのだ。
次に何を話すのだろうと、しっかり待つことができた。次を聴きたいと思わせた。
要は、聞き手にいかに聞く耳を持たせるか、これが重要なのだなとあらためて考えさせられた出来事だった。
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障害を抱えながらも気概をもって充実した人生を送ったおじ。
それを思いの籠った見事な話しぶりで総括したおじ。
手前味噌ながら、2人の偉大なおじと、そのDNAが私にも少しは受け継いでいるということを誇らしく思えた一時だった。